2015年12月30日水曜日

石器技術の発展過程を振り返る

日本列島の旧石器技術には、岩石を砕いて石器を作りだす「打製技術」を基礎にして、ほぼ5000年の間隔で3~4つの発展段階があったと推定されています。
 
前4~前3万年には「磨製石刃」が定着し、前2万5000年ころには「ナイフ形石器」が、前1万5000年ころには「槍先形尖頭器」が、前1万3000年ころには「細石刃」が、それぞれ登場しています。 
旧石器技術の発展過程を振り返ってみると、次のような特徴が見えてきます。 
  1. 磨製石刃は、岩石を削りだした石それだけで、モノを切ったり削ったりしており、「1つの道具でその用途を作りだす」石器、いわば単体の道具でした。
  2. ナイフ型石器から槍先形尖頭器に至ると、単体の石器を木の棒に取り付けて、突いたり叩いたりしており、「2つの道具を組み合わせて、その用途を作りだす」石器、つまり接合化された道具になりました。
  3. 細石刃になると、岩石から細かく削り出した石刃を、別に製作した木片に何枚かはめ込んで、さまざまな用途に応じた、幾つかの道具を作り出しました。「幾つかの切片を繋げてさまざまな用途の道具を作りだす」石器、いわば複合化された道具に進展しています。
 
人類に特有の環境対応能力は、言葉(コト)作り道具(モノ)作り一体化したものとして発達してきました。
 
この視点から石器技術の発展過程を振り返ると、「1つの単語で1つのモノを表す」段階から、「2つの単語で1つのモノを表す」段階を経て、「幾つかの単語を繋げた文章でさまざまなモノを表す」段階への変化ということができます。
 
つまり、【単語:単体】から【主語+述語】へ、さらに【複数の単語+述語+形容詞・副詞】へと進展してきたといえるでしょう。
 
このように考えると、石器技術の発展推移は、粗放技術が次第に洗練され、集約技術へと移行していく過程とみなすことができます。

2015年12月28日月曜日

石器前波の減少理由

石器前波の人口はなぜ減少したのでしょうか。

当時の人口容量(日本列島の自然環境×旧石器文明)が約3万人であったとすれば、前3~前2万年ころに、その上限に達したのではないか、というのが筆者の推定です。

その理由として、次の2つがあげられます。

①日本列島の旧石器技術は、前4~前3万年には「石刃技法」が生まれ、前2万5000年ころには「ナイフ形石器」へと発展してきましたが、そのあたりで日本列島上の旧石器人を養える人口容量ほぼ限界に達しました。いいかえれば、狩猟採集によって人間の食糧と生活資源を確保できる上限が迫ってきたのです。

②地球の気温変化により、前3万~前2万5000年ころに「最寒冷期」が出現したため、地球全体の人口容量にも限界が現れ、全人類の人口もまた停滞から減少に移行していきました。この傾向が日本列島の人口推移にも現れたのです。


文明の限界環境の悪化が加わって、人口容量の上限が迫ると、人口抑制装置の作動によって、石器前波の人口は前2万~1万5000年頃から減少したのではないか、と筆者は推定しています。

2015年12月21日月曜日

人口減少社会・日本の先例・・・石器前波の減少期

ヨーロッパ諸国における人口減少社会の実例を眺めてきましたが、日本列島においても、長期的な歴史を振り返ってみると、人口減少社会が何度か出現しています。

最初の事例は、石器前波における紀元前1万3000年から前1万年に至る約3000年間と思われます。

石器前波とは、紀元前3万年から前1万年に至る波動で、考古学や歴史学の時代区分では、旧石器時代といわれている約2万年間です。

今から約5万年前、地球上の各地に私たち現代人と同じタイプの人類である「新人」 が登場しましたが、このうちアジア地域の新人、つまり原アジア人は「東南アジア系」と「北アジア系」に分かれて、南北からアジア各地に広がり、その一部が4万~3万年前に日本列島に到達しました。

当時の自然環境を振り返ると、前3万~前1万年は寒冷な亜氷期でした。この悪環境の中で、新人たちは旧石器文明で列島に働きかけ、野生の動物を狩猟したり、野山の可食植物を採集して、次第に人口容量を拡大しました。

その規模は一体どれほどのものだったのでしょう。世界人口の推移を見ると、図に示したように石器前波がありましたので、日本人口の推移にもおそらく同じような波が存在したのではないか、という想像ができます。

そこで、日本の考古学や人類学の研究を一通り調べてみましたが、そうした事実を指摘したものは発見できませんでした。それならば、と筆者があえて石器前波の人口容量を推計してみました。詳細は拙著『人口波動で未来を読む』で述べていますが、要点は次の2つです。

①世界人口の石器前波(約600万人)と石器後波(約5000万人)の比率(前者/後者=0.12)を適用して、日本列島の石器後波(約26万人)から類推すると約3万人になる。当時の日本列島は、文明水準ではユーラシア大陸の後進地であったから、この数値はおそらく上限を示している。

②新人段階の世界の平均人口密度(0.04人/k㎡)に日本列島の面積(37.8k㎡)をかけ合わせると約1万5000人になる。日本列島の自然条件は世界の平均を上回っているから、この数値は下限とみなすことができる。

以上のような推定を前提にすると、当時の人口容量は1万5000~3万人であったと思われます。そこで、3万人を上限として、人口の推移を考えてみますと、時間の経過とともに、世界波動と同じような増加・停滞・減少のプロセスを辿った可能性があります。

2015年12月11日金曜日

人口激減・15世紀のイギリスでは・・・

ヨーロッパの農業後波のうち、イギリスについては、より詳細な研究が行われていますので紹介しておきましょう。

中世的農業生産の限界化やペストの蔓延によって、イギリスの人口は1340年の370万人から1440年の160万人へと、100年間で4割も減っています

しかしながら、労働者階級の実質賃金(1451~1457年を100とする指数)は、1340年の55から1440年の110へと約200%も上昇しています(R.G.ウィルキンソン『経済発展の生態学』)。

なぜそうなったのでしょうか。

その理由は「ペスト以降、人間がいなくなった世界で、生き残った幾人かの農民の持つ地片が大きくなる。実際、それらの地片は、単独の相続人のもとに集中した遺産相続の効果によって、死者が持っていた小地片を、食細胞活動によるがごとく吸収するのである。これらの、より広くなった所有地の上で、農民たちはより快適に生活する。かくして、一方の不幸が他方の幸福に貢献する」と説明されています(L.R.ラデュリ『新しい歴史』)。



つまり、人口は減っても農地や生産用具はそのまま残っていましたから、生き残った農民たちは生産性を大きく伸ばし、実質賃金を約2倍に上昇させました。

さらに農業生産が復活してくると、穀物の価格は低落していきましたが、逆に人手不足となって賃金は高騰しきましたから、15世紀は「農業労働者の黄金時代」(T.ロジャース)となったのです。


人口が減ると、生活者は貧しくなるのではなく、逆に豊かになっていくのです。

2015年11月30日月曜日

成熟から革新へ

ヨーロッパの農業後波の下降期には、これまで述べてきたような社会が展開されました。

その特徴をまとめてみると、次のように整理できます。

①下降の初期には、社会的な混乱の拡大によって、経済的には封建領主による荘園経営が解体され、社会的には従来の宗教や学問の権威が失墜して、中世的な世界観や社会秩序が崩壊しました。その結果、当時の世相には「鞭打ち苦行者」や「死の舞踏」といった集団的な“狂信”現象が発生しています。

②しかし、下降期が進んで、世の中が落ち着き取り戻してくると、それまでの混乱を逆手にとって、ルネサンスという、新たな精神運動が生まれてきます。ルネサンスは文学、美術、建築などではじまりましたが、やがて近代的な合理的精神を生み出し、社会や経済へも広がり、次の波動を生み出す世界観へと発展していきます。

③下降期の停滞した社会の中で、活版印刷術、火薬、羅針盤などさまざまな新技術が育まれ、次の波動を担う、最も基礎的な条件を蓄積させています。

こうしてみると、人口波動の下降期とは、混乱から成熟へ、成熟から革新へ、波動の終焉から波動の萌芽へ、と社会や文化が動いていく時代ということができます。

2015年11月26日木曜日

死の文化からルネサンス=再生へ

ペストへの恐怖と混乱が進むにつれて、ヨーロッパの人々の間には、「鞭打ち苦行者」や「死の舞踏(ダンス・マカブル」など、世の無常を嘆く終末思想が急速に広がる一方、現実生活を享楽する風潮も高まりました。

だが、そうした世相も百年戦争が終わる15世紀半ばころには、一応の落ちつきを取り戻し、政治的にも経済的にも新たな動きがはじまります。

農村では戦乱や疫病や飢饉で衰退していた農業生産が回復しはじめ、大都市では人口過剰が解消して生活水準が上昇してくると、享楽的な生活風潮ともあいまって、消費活動が活発になりました。

需要が拡大し生産も回復すると、商業活動が拡大し、その担い手として大商人が台頭してきます。彼らは経済力を武器にして発言力を強め、中世以来の貴族領主の権力を凌駕して、強力な君主による国家と経済の組織化をめざすようになります。

この動きが最も進んだのはイタリアでした。1434年にフィレンツェの権力を掌握した豪商、コジモ・デ・メディチは、積極的な外交手腕を発揮して、平和の維持に貢献するとともに、芸術や文化の支援者となって、15世紀中葉にルネサンス(再生、文芸復興)を開花させます。

ルネサンスは、文化の成熟によって、技術的にも次の時代を作りだす基盤、例えば活版印刷術、火薬、羅針盤などを生み出していきます。いずれも東洋に起源を持つものですが、この時代にヨーロッパに流入し、新たな技術として“再生”したのです。

こうして、14~15世紀に育まれたルネサンスの精神や新しい技術は、その後、ヨーロッパ中に広がり、政治的には17世紀のイギリス革命、18世紀のフランス革命を引き起こし、経済的には18世紀中葉からはじまる産業革命によって、農業後波の物量的制約を大きく突破し、次の工業現波を急上昇させていく原動力となっていきます。

2015年11月17日火曜日

中世の秋

当時のヨーロッパ社会は、オランダの文化史学者J.ホイジンガが「中世の秋」と名づけた時代です。

あたかも夕暮れの空の深みに吸いこまれているかのようで(中略)、その空は血の色に赤く、どんよりと鉛色の雲が重苦しく、光はまがいでぎらぎらする」(『中世の秋』)ようなムードが漂っていました。
この200年をざっと振り返ってみると、14世紀前半からすでに混乱がはじまっていました。

ヨーロッパ人口の約40%を占めていたイギリス・フランス間では、領土と商業権の争奪をめぐって、1338年から百年戦争がはじまっていたのです。

イギリスでは、14世紀初頭から飢饉や疫病などをきっかけに、人口減少、地代の低下、農民の逃散、賃金・加工賃の騰貴などで、封建領主の農業経営が次第に困難になり、農奴の賦役を金納化したり、直営農地を農民に貸与する動きが進んでいました。そこへ百年戦争とペストの影響が及んだため、人口は14世紀中に40%も減少しました。

その結果、穀物の価格は低落し、逆に雇用労働の賃金は高騰しましたので、15世紀には「農業労働者の黄金時代」を迎えます。だが、この繁栄する農民階級に対して、当時の政府は百年戦争の戦費を負担させようと人頭税を課しましたから、ワット・タイラーの乱を挑発することになりました。

フランスでも、百年戦争や王国内部の貴族の争いで、14世紀中葉から農村の荒廃が著しく、多くの村落が数世代にわたって放棄され、耕地や葡萄畑が森林化していました。これにペストの流行が加わったため、領主直営地の多くは経営困難に陥り、折半地代や定量地代によって小作地へと転換され、15世紀半ばには中小規模の農民経営へ移行していきます。


しかし、地代の貨幣化は、当時繰り返された貨幣の悪鋳によって、かえって領主の収入を減少させ、彼らの立場を弱めることになりました。

ヨーロッパ人口の約11%を占めるイタリアでは、キリスト教会の混乱で教皇権が衰退していました。1309年には南フランスのアビニョンに教皇庁が移され、フランス王権の強い影響下におかれたため、「アビニョン捕囚」とよばれました。77年に教皇座がローマに帰還した後も、ローマとフランスで別々の教皇が選ばれたため、1378年から40年間、「教会の大分裂」が続きました。


1417年にようやく教皇の統一がなると、ミラノ、ベネチア、フィレンツェ、ナポリとともに5大勢力が分立しますが、一連の政治的な混乱によって、農業の衰退が目立ちはじめています。

同じくヨーロッパ人口の約11%を占めたイベリア半島でも、カタルーニァ、カスティーリア、ナヴィラなどの地方では、開墾の限界化と農業技術の停滞で、農業生産の衰退農村人口の都市への移動人口の減少が進み、14世紀末から15世紀後半にかけて、領主の収入が低下し、各地で農民が蜂起した結果、農奴制は廃止されています。

以上のように中世的な農業生産の限界化は、経済構造や政治構造を大きく変えました。経済構造では、農村を荒廃させ、農業の生産を低下させましたが、それ以上に需要を縮小させ、穀物価格を下落させていきます。

逆に都市では、手工業製品価格が穀物価格に対して相対的に上昇したため、商業が活況を呈します。資本を蓄積した商人の手で、鉱山の開発や金属・繊維工業などの技術革新を進め、都市経済を繁栄に向かわせていきます。

また政治構造では、権力の復権をめざす封建領主に対抗して、農民層の多くがフランスのジャックリーの乱、イギリスのワット・タイラーの乱、南ドイツのアペンツェル戦争などで、積極的に闘争を挑むようになります。こうした新秩序の再編は、15世紀後半に経済が回復してくるとともに、その姿をいっそう明確にしていきます。

2015年11月9日月曜日

中世ヨーロッパ・・・人口減少の原因はペスト?


ペストは、インドからアジア南部にかけて生息していた保菌ネズミ(クマネズミ)が、気候変動による食物連鎖の変動で次第に北上し、さらに西進した結果として発生した、といわれています。

とりわけ13世紀には十字軍が東方へ蒙古が西方へ進んでいたため、東西を結ぶシルクロードに乗って、次第に西へと伝播していきました。



1347年、コンスタンティノープルに侵入すると、翌48年、ジェノヴァの商船により地中海の貿易路をそのまま辿って、クリミア半島のカッファからイタリア、フランスに上陸し、瞬く間にヨーロッパ内陸へ波及しました。

以後3年余の間に全ヨーロッパを席巻し、当時の死者は3人に1人に達しました。

ペストはその後も、1350年代、65年前後、80年代前半、95年前後と、ほぼ10年間隔で流行を繰り返しました。そのため、ヨーロッパ全体では100年間に約2000万人が死亡し、14世紀末までに死亡率が出生率を上回った状態が続きました。

このように書くと、ヨーロッパの農業後波は、ペストによって下降期に向かったようにみえますが、それだけではありません。その要因はあくまでも人口容量の飽和化でした。

つまり、ペストが大流行した背景には、

①14世紀前半の農業環境の悪化とそれに伴う栄養状態や衛生状態の混乱がありました。ペストによる人口減少は、それ以前からの人口減少傾向を加速したものにすぎなかったのです。

②ペストの伝染ルートは商業による国際貿易の拡大によって生まれたもので、また爆発的な流行を生んだのも、商業都市の成立で人口密度の高い町が成立していたからです。その意味で農業後波の農業技術や経済システムが辿りついた、必然的な結果といえるものでした。

こうして、農業後波の人口は16世紀初頭まで停滞していきます。この200年間の社会とは一体どんなものだったのでしょう。

2015年10月31日土曜日

人口減少社会のモデルを求めて:ヨーロッパ中世後期

人口減少に適応する複合社会とは、どのようなものなのか、人類の歴史を振り返ってみると、幾つかの先例があります。拙著『人口減少・日本はこう変わる』などの中から、代表的な事例を紹介してみましょう。

その一つが、14~15世紀のヨーロッパです。歴史学では「中世後期」とよばれている時期ですが、さまざまな人口推計によると、600年頃から増加してきたヨーロッパの人口は、1340年頃に約7400万人に達した後、10年間で約5100万人にまで急減し、以後1500年頃の6700万まで低迷しています。


この背景について、フランスの歴史人類学者、L.R.ラデュリは「西ヨーロッパの農村社会、要するに社会全体は、紀元7世紀以来、人口増大の過程にあり、ことに10~11世紀以降は確実にそうであった。ところが、1300年代、より1般的には14世紀前半になると、危機の様相の下に、この人口増大を妨害しようとする対抗的な諸要素が現れる」(『新しい歴史』)と述べています。

つまり、11世紀以降の大開拓時代が終わり、中世の農業革命の成果も一応出尽くして、人口容量がそろそろ飽和に向かったということです。

1300年頃のヨーロッパの人口は、当時の食糧生産力に対し飽和状態に近づいていたため、農地は条件の悪い土地にまで広がっていました。そうなると、気候が少し悪化しただけで、直ちに凶作と飢饉が現れました。

また耕地面積の無理な拡大で森林、牧草地、採草地が縮小し、家畜の飼育や堆肥量も減少したため、地力が低下してかえって穀物生産が減少しました。このような農業環境のもとで人々の栄養状態が悪化し、1307年ころからヨーロッパ各地で飢饉や伝染病が広がりました。

さらに1314年の春、北西ヨーロッパは凶作に見舞われ、翌15年には地中海地域を除くヨーロッパのほぼ全域で雨が降り続き、小麦が不作でした。続く16年も不作だったため、15年の年頭から小麦価格が高騰して、前年の約8倍にまで上がり、あちこちで餓死者も出ました。

17年には小麦が豊作となったため、高騰した価格は逆に急落し、凶作以前の水準を割りました。だが、一度衝撃を受けた小麦価格はもはや安定せず、それ以降は暴落と暴騰を繰り返していきます。

1330年代に入ると、こうした食糧条件のうえに英仏間の百年戦争農民一揆などが重なって、局地的な飢饉が頻発します。

このため、ヨーロッパのほとんどの農村では、人口の減少、耕地や屋敷の放棄、集団逃亡や廃村、穀物価格の長期的低落、領主の収入減少などが始まっていました。

他方、この時期には貨幣経済の浸透で、商業や貿易が拡大し、それに伴って商業都市が発達してきます。だが、この貿易と都市が当時の人口をさらに減少させることになりました。それがこの時期にヨーロッパを襲ったペスト(黒死病)だったのです。

中世農業技術の限界化と、都市化によるペストの蔓延、この2つが絡まって、急激な人口減少が始まったのです。

2015年10月15日木曜日

複合社会へ向かって!

しかし、これまで述べてきた視点に立つと、次の人口波動を担う生産・分配制度は、単に互酬制へと回帰していくのではなく、肥大した市場交換を抑制しつつも、再配分、互酬、家政の諸制度をほどよくバランスさせた「複合社会(complex society)」へ向かって徐々に進んでいくことが期待されます。

企業や資本家だけが闊歩する市場交換制度、社会主義国家や福祉国家のような再配分至上制度、家族や集落の相互扶助だけに頼る互酬中心制度、個人や家族内だけで生産・使用する家政主導制度の、いずれの1つに偏るのではなく、4つの制度を4つとも存続させながら、それぞれのバランスをとっていくという方向です。

あるいは、移りゆく時代の変化に応じて、その組み合わせの比重を変えたり、あるいはそれぞれの内容を微妙に変換していくこと、といってもいいでしょう。

こうした方向を生活構成論(生活学)の立場から再確認しておきましょう。詳しい説明は、別のブログ(生活学マーケティング)で展開していますので、ここをご覧下さい。


生活構成論では、私たちの生活の基本的な構造を、縦軸(言分け⇔身分け)横軸(ラング⇔パロール)マトリックスとして把握しています。


このマトリックスに、K.ポランニーの主張する4制度を位置づけてみましょう。

家政:個人や家族がそれぞれの生活のために行なう、自給自足的な制度であり、横軸では個人生活から共生生活まで、縦軸では感覚・象徴的な願望から機能・性能的な願望や理性・記号的な願望までを対象にしています。

互酬:贈与、遺贈、寄贈などの互恵行為を、言語以前の欲動次元に基づく象徴交換制度から始まっています。

再配分:首長制度や王権国家などに始まる制度であり、一方では国家による租税や公的年金・保険などの公的負担、他方では生活保障や年金・保険などの給付を、それぞれ理性や理念という高度にコト化された言語次元で制度化したものです。

交換:個人や家族がそれぞれの生活を営むために行う、他者との交換行為であり、物々交換から始まって初期商業交換、そして市場交換に至るまで、共生生活から社会制度のクロスする分野で、モノ次元を中心にコト次元まで広がっています。

以上のような位置づけを、歴史的な変化として描き出してみると、次のような展開が見られます。

石器前・後波~農業前波では、横軸の社会制度や共生生活の分野で、「再配分」が記号的・理知的な制度として、また「互酬」が感覚的・習俗的な制度として、それぞれが位置づけられます。さらに個人生活から共生生活にまたがる分野では、「家政」が個人や家族の自律的・自給的な制度として存在します。




農業後波になると、「再配分」と「互酬」の間に「交換」が割って入ります。初期的な商業交換ですが、「交換」という行為は、モノの価値の上下を合理的に判断するものですから、機能や性能を重視する欲求次元を中心に上下に広がります。




工業前波になると、「交換」が肥大して「市場交換」となり、「再配分」や「互酬」を、さらには「家政」までも押しのけるようになっています。

とすれば、次の工業後波では、市場交換、互酬、再配分、家政の諸制度がほどよくバランスした「複合社会」に向かって、3つの調整が必要になってきます。

つまり、第1は市場交換の縮小に比例した、適度な領域へ向かうこと、第2は再配分の適正化に応じて、税金や社会保障などとの関係を見直すこと、そして第3は互酬制の拡大に応じて、贈答、贈与、寄与などの生活行動と一体化をめざすこと、の3点です。


工業後波という新たな波動では、より複合化の進んだ生産・分配制度が期待されます。

2015年10月3日土曜日

互酬性を再建する!

生産・分配制度の変化を顧みると、今後の社会目標の方向が見えてきます。

人口波動における工業現波が、前半の工業前波と後半の工業後波に分かれ、前波から後波に移行していくとすれば、後波における生産・分配制度は、前波の福祉国家と市場経済制度の過度の比重を緩和して、4つの制度がバランスを回復する方向へ向かうことが期待されます。

その時、最も回復が期待されるのが互酬制の再建です。工業前波、つまり近代社会においては、福祉国家と市場経済制度が、私たちの生活のほとんどの部分をサポートする制度として定着化し、そえがゆえにさまざまな矛盾もまた増加させています。例えば福祉財政の破綻国際資本市場の横暴な介入などです。

こうした矛盾を緩和する手段の1つとして、最近とみに期待が集まっているのが「互酬制」の再建です。近代社会ではいつの間にか片隅に追いやられた家族共同体や地域共同体など地縁・血縁に、もう一度本来の役割を果たしてもらおうというもので、社会学者はもとより経済学者や政治学者、さらには文芸評論家の間にまで広がっています。

いうまでもなく、それぞれの意見において互酬の内容や範囲には違いがありますが、家族、親族、地縁などの共同体に、構成員相互間の生活扶助や生活支援を、一定の規模で委ねようとする方向はほぼ一致しているようです。これらの意見の背景にある、主な論拠を探ってみると、次の3つに整理できます。

第1は国家制度の欠陥を補う視点。近代国家に特有の、社会保障制度の拡大やそれに伴う財政への過剰な負担を避けるため、さまざまな共同体による互酬性を再建し、負担の一部を分担してもらおうという意見です。生活に関わる諸費用や必要サービスのほとんどを国家に頼る、北欧型の福祉国家モデルを見直し、個人を包み込む共同体との連携強化をめざしています。

第2は市場経済システムの欠陥を補う視点。市場経済の拡大が引き起こす格差拡大や貧困層の増加を救済するため、セーフティーネット(安全網)として、共同体を再構築するという意見です。アメリカ型市場経済の利点は認めつつも、過剰な競争と加重する自己責任が、結果としてもたらすマイナス効果に対処していくには、互酬制による最終的保護が求められる、というものです。

第3は社会構造の欠陥を補う視点。現代社会の中に構造的に潜んでいる個人化・モナド(孤立)化に対処するため、さまざまな共同体による保護体制が必要とする主張です。具体的には、伝統的な共同体の復活や新たな共同体の構築によって、多様な互酬性を拡大し、老齢者や幼少年の保護、弱小家庭への支援などをめざしています。

以上のように、幾つかの分野から一斉に互酬制への期待が高まっているのは、人口減少や経済停滞などに伴って、現代社会が成熟した結果ともいえるでしょう。人口が増加し、経済も伸びていた時代には、成長・拡大型社会の背後に密かに隠れていた、さまざまな欠陥が、次第に露見してきたというわけです。













とすれば、工業後波へと向かう、これからの日本にとって、このような要請に応えうる互酬システムの構築が課題になりますが、その方向は大きく分けて、次の2つでしょう。

1つは破壊された共同体の再建。市場経済や福祉国家がなしくずしに壊してきた伝統的共同体、つまり家族や親族、村落や町内会などの共同体を改めて支援し、保護・育成する政策が求められます。

もう1つは新しい共同体の構築。都市化や産業化の進んだ現代社会に対応するには、伝統的な共同体の再興だけではもはや不可能です。そこで、ハウスシェアリングやルームシェアリングなどのシェアリング家族、老齢者や単身世帯などが相互支援を前提に一緒に居住するコレクティブ家族、緊急時の共同対応や生活財の共同購入などを行なうマンション共同体、共同で農業を営む新農業共同体など、すでに進みつつある、新たな共同体の萌芽を活かして、未来型の互酬制の主体に積極的に育成していく対応が必要です。

もしも新旧の共同体の増加によって、新たな互酬制を拡大することができれば、社会全体は徐々に安定感を増していくことになるでしょう。

2015年9月29日火曜日

家政・互酬・再配分・交換の比重は変わる!

5つの人口波動と4つの生産・分配制度の関係を、おおまかにイメージ化してみると、下図のようになります。


①石器前波では、家政(家族集団が自ら使用するのための生産)の比重がおそらく70~80%に達し、続いて互酬(家族や血縁者間での贈与や相互扶助)や物々交換(異なる家族集団間での交換)が10~20%、残りが再配分(村落共同体による集約と分配)であったと推定されます。

②石器後波になると、物々交換(異なる家族集団間での交換)の比重はあまり変わりませんが、家政はやや低下し、代わって互酬や再配分古代王権国家による集約と分配)の比重がやや高まったものと思われます。

③農業前波では、家政の比重がおそらく半分以下に落ち、互酬はさほど変わりませんが、再配分と交換の比重が上昇してきました。再配分ではいわゆる封建国家による収奪と分配が進行し、また交換では「市場(いちば)」や「もの売り」など初期的な商業交換が広がっていきました。

④農業後波になると、家政の比重は多分20%程度に落ち、互酬はある程度維持されましたが、再配分と交換の比重が急上昇して、両方で60~70%に達するようになりました。再配分では初期的な国民国家による税収と保障が開始され、また交換では広域的な商業市場の成立に伴って商業交換が拡大しました。

⑤工業現波では、家政と互酬を合わせた比重は20%以下に落ち、再配分と交換を合わせた比重が80%を超えるようになりました。再配分では、いわゆる福祉国家による税収・年金負担と生活保護・年金給付などが拡大し、また交換では、地域や国家を超えた市場の拡大で、いわゆる市場経済が広がって、生活者の暮らしの半分以上を占めるようになっています。

このように見てくると、私たちが暮らしの前提として、ごく当たり前のように考えている福祉国家制度市場経済制度は、必ずしも絶対的な制度ではなく、大きな時代の変化とともに移り変わっていく、可変的な制度であるといえるでしょう。

2015年9月14日月曜日

生産・交換制度の未来を読む!

工業後波を支える3つの要素(集約科学技術、集約市場経済、選択的国際化)のうち、集約市場経済、つまり新たな生産・分配制度については、次のような方向が考えられると思います。

経済人類学者のK.ポランニーによると、人類が歴史的に創り出してきた生産・分配制度、つまり経済のしくみには、家政、互酬、再配分、交換の四つがある、といいます(『大転換』『人間の経済』『経済の文明史』による)。



それぞれの内容は次のようなものです。

家政(house holding)・・・「自らの使用のための生産」であり、ギリシャ人が、「エコノミー」の語源たる「オイコノミア(oeconomia)」と名づけていた制度として、「閉鎖集団」内の構成員の「欲求を満足させるための生産と貯蔵という原理」に基づいている。

互酬(reciprocity)・・・「義務としての贈与関係や相互扶助の関係」であり、「主に社会の血縁的組織、すなわち家族および血縁関係に関わって機能する」制度として、「対称的な集団間の相対する点の間の(財の)移動」をいう。

再配分(redistribution)・・・「権力の中心に対する義務的な支払いと中心からの払い戻し」であり、「主に共通の首長の下にある人々すべてに関して効力をもち、従って、地縁的な性格」の制度として、「(財が)中央に向かい、そしてそこから出る占有の移動を表す」ものである。

交換(exchange)・・・「市場における財の移動」であり、「システムにおけるすべての分散した任意の2つの点の間の運動」となる制度である。

現代風にいいなおすと、「家政」とは個々人とその家族だけの自給自足制度、「
互酬」とは家族や親族、さらには継続的な地縁・友縁などによる生活扶助制度、「再配分」とは国家による生活保障制度、「交換」とは市場を通じて形成される生活構築制度ということになるでしょう。

これら4つの制度について、ポランニーは、常に同じ比重で存在してきたのではなく、時代とともに変化してきた、と述べています。つまり、「西ヨーロッパで封建制が終焉を迎えるまでに、既知の経済システムは、すべて互酬、再配分、家政、ないしは、この3つの原理の何らかの組み合わせに基づいて組織されていた」のですが、16世紀以降、重商主義システムの下に、初めて「市場」という、新たな交換システムが登場しました。

この交換システムは、19世紀に入ると、貨幣を交換手段とする市場経済へと発展しました。市場経済は、従来の〝付属物〟的な「市場」とは根本的に異なる「市場交換システム」として拡大しましたので、経済制度の中心は互酬、再分配、家政から交換へと移行しました。しかし、それでもなお互酬、再分配、家政の役割は消滅したわけではなく、とりわけ再分配の比重は高まる傾向にある、とも述べています(『大転換』)。

以上のような生産・分配制度の推移を人口波動と関係を示すと、表のようになるでしょう。




石器前波・・・氏族集団が、捕獲(狩猟中心)・採集生産を前提にした自給自足により、家政を達成してきた。
石器後波・・・氏族や古代王権が、捕獲(狩猟・漁労)・採集生産を前提にした物々交換・互酬・再配分により、家政を達成してきた。
農業前波・・・農民・職人や古代国家が、粗放農業(農耕・牧畜)を前提にした初期商業・互酬・再配分などにより、家政を達成してきた。
農業後波・・・農工職人や封建国家が、集約農業(農耕・牧畜)を前提にした貨幣経済・再配分・互酬により、家政を達成してきた。
工業現波・・企業・工場や福祉国家が、近代工業を前提にした市場経済・再配分・互酬により、家政を達成してきた。

このような関係は、次の人口波動である工業後波になると、どのように変わっていくのでしょうか。

2015年9月7日月曜日

工業文明の次を読む!

石器文明、農業文明、工業文明という区分を「大文明」、旧石器文明、新石器文明、粗放農業文明、集約農業文明、粗放工業文明という区分を「細文明」と名づけますと、大文明とは2つずつペアになった細文明が共通して基盤にしている文明ということになります。

このブログでは、文明という言葉を「言語能力を発展させて、抽象化能力を持つ人類が、周囲の自然環境に新たに働きかけて、人口容量を拡大したり、より大きな人口容量を作りだす働きかけ」という、限定した意味で使っています。

この定義を最大限に拡大して、人間の生息環境全体に適用してみますと、文明とは「人類が生きていくためのエネルギー獲得法」ということになります。つまり、地球上に降り注ぐ、膨大な宇宙エネルギーをいかにして獲得し、人類が生きていくための生命エネルギーにどのような形で変換しているか、ということです。

アメリカの著作家John Geverらが、人口容量とは「人間が利用可能なエネルギー量およびそのエネルギーがどのように用いられているかを調査すること」に尽きる、といっているとおりです(Beyond Oil)。

これこそ「大文明」とよべる次元であり、人類の文明史の最も基盤にある石器文明、農業文明、工業文明をさしていますが、それぞれの特性は次のように整理できます。

石器文明とは「太陽エネルギーが短期的に蓄積された動植物を石器によって採集し消費する」もの。さまざまな動植物の体内に蓄積された太陽エネルギーを、石器を開発して人間の暮らしに利用することで、人間用エネルギーへと変換しています。

農業文明とは「太陽エネルギーが短期的に蓄積された動植物を育成して消費する」もの。地上に降り注ぐ太陽エネルギーを、農耕や牧畜によって意図的にさまざまな動植物の体内に蓄積させ、そのうえで人間のエネルギーに変換しています。

工業文明とは「太陽エネルギーなどが長期的に蓄積された化石燃料などを採集して消費する」もの。地球の内部に蓄積された太陽エネルギーや宇宙エネルギーを、科学技術によって発掘し高度に利用することで、人間向けのエネルギーに変換しています。

これらの延長線上で、より大胆に考えれば、工業文明の次にくる文明が予想できます。

仮にそれを「未来文明」と名づけると、その中身は多分、過去のエネルギー蓄積を単に発掘して消費するだけでなく、人間の知恵や知識を応用して、太陽のエネルギーやその背後にある宇宙エネルギーまでも巧みに蓄積したり、効率的に増幅する文明になっていくでしょう。

なぜなら、石器文明から農業文明への移行が、短期蓄積エネルギーの「採集・消費」から「育成・消費」への転換に裏付けられていたように、工業文明から未来文明への移行もまた、長期蓄積エネルギーの「採集・消費」から「育成・消費」への転換によって、初めて開始されるのではないか、と思うからです。

















つまり、未来文明は「太陽エネルギーや宇宙エネルギーを育成して消費する」文明です。

こうした未来文明へ向かって、私たち人間が集約工業文明の段階をとばして、一気に駆け上るという可能性もないわけではありません。だが、そうなるにはまだまだ課題が山積しています。

第1に、現代の工業文明はなお未熟な段階にあり、さらに進展する余地があります。

第2に、現在の工業文明に代わるよう未来文明を創造するには、世界的な次元かなりの時間が必要です。

第3に、次の未来文明を生み出すには、現代の工業文明から〝橋渡し〟の役割をする、もう一段高い次元の工業文明が必要です。

とすれば、私たちはおそらく、まずは集約工業文明を創造し、それを基盤にして、その次の未来文明へと向かっていくことになるでしょう。

2015年9月2日水曜日

再び人口が増加する社会とは・・・

工業後波を支える3つの要素は、これまでの粗放科学技術、粗放市場経済、無制約国際化から、集約科学技術、集約市場経済、選択的国際化へと転換されていきます。

いいかえれば、次の工業文明はおそらく従来の粗暴な次元を乗り越え、より成熟し洗練された科学技術、経済制度、国際関係へ進んでいくということです。

これこそ「粗放工業文明から集約工業文明へ」、あるいは「工業前波から工業後波へ」の移行を意味しています。これまでの工業前波は工業文明の前半にすぎず、工業後波の開始に伴って、工業文明はより成熟し、より完成された段階に入っていくということです。

もしこの転換を、日本人の手で21世紀の中ごろまでに達成することができれば、21世紀後半の日本の人口容量は再び拡大し、それにともなって日本の総人口も再び増加しはじめ、1億280万人の壁を易々と乗り超えていくでしょう。

勿論、そのインパクトは日本に留まるものではありません。日本人が新たな文明の可能性を見つけだすことができれば、それは同時に、世界の総人口が、80~90億人という人口容量の壁を突破し、再び上昇をはじめることを意味しています。

こうした意味でも、工業現波の最先端を突っ走っている日本は、21世紀の最先進国として、まっさきに次の波動を作りだす役割を担っているといえるでしょう


2015年8月23日日曜日

集約工業文明とは何か

集約工業文明とは、どのようなものになるのでしょうか。

旧石器時代の人間が新石器時代を、奈良時代の人間が江戸時代を、それぞれ予想するのは困難であったように、粗放工業時代に生きている私たちが、集約工業時代を予想することは、やはり困難なことです。



しかし、粗放工業文明の諸要素を解体してみると、その方向がおぼろげながらも見えてきます。

おそらくそれは工業前波を支えていた科学技術、市場経済制度、国際協調主義の3つを大きく変えていくことになるでしょう。

その方向を大胆に見通すとすれば、「粗放科学技術から集約科学技術へ」、「粗放市場経済から集約市場経済へ」、「無制約国際化から選択的国際化へ」という変化に集約できます。




◆粗放科学技術から集約科学技術へ


現代の科学技術は、化石燃料を〝爆発〟させてエネルギーを獲得するという、ある意味では〝粗暴〟な基盤に基づいています。パソコンやインターネットなどのソフトな技術でさえ、爆発エネルギーの提供する電力が途絶えれば、直ちに停止してしまいます。


それゆえ、次の文明を支える科学技術は、もっと緩やかに抽出できるエネルギー源に基礎をおかなければなりません。

この方向を実現するにはさまざまな対応が考えられますが、太陽光、風力、水力、地熱などのエネルギーを直接採集して集約する、より「柔らかな」自然系エネルギーへの転換が一つの方向になるでしょう。


つまり、「太陽エネルギーが長期的に蓄積された化石燃料などを採集・消費する」文明をさらに進展させて、「採集圏域を増やして、化石燃料などをより効率よく採集するとともに、エネルギーの集約や育成を図る」文明へと転換していくということです。

◆粗放市場経済から集約市場経済へ


現在の市場主義は、グローバル市場主義の乱暴な介入に国内経済が引っかき回されたり、競争激化によって貧富の格差が拡大するなど、いわば「粗暴な市場経済」の次元に留まっています。


おそらく工業後波を支える経済制度はこうした欠陥を是正して、国際性と国内性の調和、市場性と象徴性の調和、そして価値と効能(私的有用性)のバランスなどに配慮した、より「柔らかな」体制をめざすことになるでしょう。

◆無制約国際化から選択的国際化へ


これまでの国際主義は、一国の国境を絶対視しつつ、そのうえでどの国とも平等につきあうという、いわば「粗っぽい国際主義」でしました。


しかし、今後はその方向が微妙に修正されていきます。21世紀の地球では人口が爆発的に増加して、2020~2030年ころには食糧・資源・エネルギーが不足し、環境汚染も深刻化します。このため、先進国、途上国を問わず、世界各地で物資の奪い合いや環境汚染のなすり合いなど、さまざまなパニックの発生するおそれが急速に高まります。

そこで、日本もまた、従来の野放図な全面的国際化を修正し、農業国との連携や資源保有国とのタイアップなど、互いに援助しあえる国々との間で、新たな連携をめざす選択的国際化を進めることが必要になってきます。その意味で、日本の外交目標は、無制約国際化から選択的国際化へと転換していかなければなりません。

21世紀後半から22世紀にかけての文明は、以上のような形で、現在とはかなり異なる方向へ向かう可能性があると思います。

2015年8月11日火曜日

集約工業文明に向かって

世界波動も日本波動も、〔人口容量=自然容量×文明〕という式で、右辺の文明が石器文明、農業文明、工業文明と進むにつれて、人口容量が増加してきたことが、それぞれの成因となっています。

より詳しくみると、石器文明は旧石器文明と新石器文明、農業文明は粗放農業文明と集約農業文明、工業文明は粗放工業文明によって、それぞれ5つの波を作ってきました。

石器文明、農業文明、工業文明という区分を「大文明」、旧石器文明、新石器文明、粗放農業文明、集約農業文明、粗放工業文明という区分を「細文明」と名づけますと、文明と人口波動の関係は、次のように整理できます。

世界波動でいえば、5つの細文明が世界各地に成立し拡大したことにより、世界の人口波動が生まれてきました。

日本波動においても、5つの細文明によって、5つの人口波動が生まれていますが、このうち、旧石器文明と粗放農業文明という細文明は日本列島の外側から入ってきた移入的な文明であり、新石器文明と集約農業文明という細文明は列島の内部で育まれた内発的な文明です。

石器文明でいえば、アジア大陸や太平洋地域から渡来した旧石器文明が、日本列島の中で進展し、石器プラス土器を作る文明、いわゆる縄文文明を生み出すことによって、新石器文明に変わっていきます。

揚子江流域から入ってきた粗放農業文明が、日本独自の集約型農業の進展によって、集約農業文明に進展していきます。

つまり、日本列島では、大文明の前段階は外部から入ってきた文明であり、後段階は内部で育まれた文明ということができます。

以上の視点に立つと、私たちの現況を見る目が変わってきます。私たちは今、史上最高度の文明社会に生きていると考えがちですが、実のところは、まだ工業文明の前段階を経験しているだけではないのか、という見方です。

下図で見るように、日本列島の人口波動は、石器前波と石器後波のペア、農業前波と農業後波のペアの後で、最後の工業文明に到達しています。とすれば、工業文明にはもう一つ高度な段階、つまり「集約工業文明」が期待できます。私たちの生きている工業文明社会は、まだ粗放工業文明の段階に留まっており、次の段階では集約工業文明へ向かっていく、ということです。 

 
旧石器時代から縄文時代へ、平安時代から江戸時代へと時代が移行したように、昭和・平成時代の次には、もう一つ新たな時代が来る。そうなると、12800万人まで持ちこたえた人口容量を、22世紀以降には倍以上に引き上げていくこともできる、という大きな展望が生まれてきます。

2015年8月3日月曜日

世界波動と日本波動の関係は・・・

世界の人口波動(世界波動)と日本の人口波動(日本波動)の間には、どのような関係があるのでしょうか。


①双方に5つの波動(石器前波、石器後波、農業前波、農業後波、工業現波)が見られます。

②この背景には、〔人口容量=自然容量×文明〕という式で、右辺の文明が石器文明、農業文明、工業文明と進むにつれて、人口容量が増加してきたという推移が指摘できます。

③石器文明、農業文明、工業文明の、それぞれの詳細な内容については、世界と日本ではやや異なっていますが、基本的な構造においては共通するものがあります。

④石器文明、農業文明には、それぞれ前期段階(粗放段階)と後期段階(集約段階)の、2つの次元がありました。工業文明にも、次の段階が考えられます。

⑤石器文明(旧石器と新石器)によって石器前波と石器後波が生まれ、また農業文明(粗放農業と集約農業)によって農業前波と農業後波が生まれました。その後、工業文明の前段階(粗放工業)によって工業現波(工業前波)が生まれたと考えれば、今後は後段階(集約工業)によって工業後波が生まれることが予想できます。

⑥新たな文明によって人口容量が拡大している間は、世界波動も日本波動も、ともに人口が増加・成長しますが、人口容量の限界に近づくにつれて、停滞・減少へ移行しています。

以上のように、人類は文明の発展に伴って人口容量を拡大させ、それとともに世界においても、日本においても、人口の増加・成長と停滞・減少を繰り返してきました。5つの人口波動が共通する要因はここにあります。

こうした視点に立つと、1960年代から提唱されてきた未来学、例えばD.ベルの「脱工業社会(Post-Industrial Society論や、A.トフラーの「第三の波The Third Wave)」論などは、あまりにも皮相的な展望と思えます。

現在の工業文明の次に来る文明は、D.ベルのいうような、知識や情報が中心となった文明などではありません。また農業革命、産業革命の前に石器革命があったという「第一の波」を見落したA.トフラーが、「第三の波」と予測したような情報文明でもありません。

両者とも、次の文明を「情報や知識が中心となる文明」と考えているようですが、それは単に人口増加が終わった後の「一時期」を表しているにすぎません。

人口の長期的な推移から見れば、いずれの人口波動においても、人口の停滞・減少期は知識や情報の比重が高まっています。石器前波、石器後波、農業前波、農業後波のそれぞれの後半は、いずれも知識・情報の時代でした。「知識文明」や「情報文明」などというものは、決して未来の文明などではなく、それは人口波動の停滞・減少期の時代的特徴にすぎないのです。

現在の工業文明、つまり粗放工業文明の次にくるのは、もう一段階高度化した工業文明、つまり「集約工業文明」だと思います。

2015年7月30日木曜日

世界人口も5つの波を打ってきた!:

世界人口の推移を振り返ってみると、やはり5つの波動が見えてきます。 

歴史的な人口推計については、さまざまな学者の研究がありますが、それらを取捨選択して整合性のある数字を選び出し、それをグラフ化してみると、約4万年前を基点に古代、中世、近代を経て、現代から22世紀に至る、ほぼ5万年間の推移が得られます。

 
この数値をそのままグラフにしてみると、左図のような極端な急カーブになります。いわゆる指数曲線です。
(Population Trends of the World)  




そこで、日本人口と同様に、Y軸を正対数、X軸を逆対数にして作図しなおしてみますと、右図に描いたような、幾つかの波が浮かんできます。これまた、かなり明確な5つの波です。
(Population Waves of the World)

 
 
これもまた、人間の作り出す文明によって、人口容量が次々に拡大した結果です。
世界の人口容量=地球の自然容量×文明〕という式で、右辺の文明が石器文明、農業文明、工業文明と進むにつれて、人口容量が次第に増加してきました。
それゆえ、日本波動と同様に、石器前波、石器後波、農業前波、農業後波、工業現波と名づけますと、それぞれの波の特徴は次のように整理できます。
 
  • 紀元前4万年に始まる「石器前波」は約600万人の波
  • 前1万年に始まる「石器後波」は約5000万人の波
  • 前3500年に始まる「農業前波」は約2億6000万人の波
  • 西暦700年ころに始まる「農業後波」は約4億5000万人の波
  • 西暦1500年ころに始まる「工業現波」は約90~110億人の波

1番めと2番めの波は旧石器と新石器という石器文明が、3番めと4番めは粗放農業と集約農業という農業文明がそれぞれ作り出したもの、また最後の波は工業文明が生み出したものです。 
 
人口波動とは、世界人口から日本人口まで、広く共通する現象なのです。

2015年7月28日火曜日

日本人口の5つの波

日本列島の人口容量=列島の自然容量×文明
 
この式の右辺である自然容量のうち、天候・気候条件は時代とともにかなり変動してきました。地球の気象変動に連動して気温の高低や降雨量の増減などを繰り返してきたからです。
 
しかし、地形・地勢条件については、この3万年の間、比較的安定していた、といえるでしょう。旧石器時代の地勢変動を除けば、地形に大きな変動はありません。また国境が大幅に変わったり、国土が分断されるといった社会的変化も比較的少なく、ほぼ同一の環境下で推移してきました。
 
とすれば、人口容量を変えてきた主な要因は、日本列島に働きかけた文明の変化ということになります。つまり、5つの波の成立要因は、石器文明、農業文明、工業文明などによって作られてきたということです。
 
それゆえ、5つの波を石器前波、石器後波、農業前波、農業後波、工業現波と名づけますと、それぞれの波の特徴は次のように整理できます。

  • 紀元前3万年に始まる「石器前波」は「旧石器文明」に基づいて成立した約3万人の波
  • 前1万年に始まる「石器後波」は「新石器文明」によって形成された約26万人の波
  • 前500年に始まる「農業前波」は「粗放農業文明」で作られた約700万人の波
  • 西暦1300年に始まる「農業後波」は「集約農業文明」で新たに作りだされた約3250万人の、
  • 1800年から始まる「工業現波」は「近代工業文明」で作られた約1億2800万人の波
 
5つです

 いいかえれば、これらの波はさまざまな文明の作りだした、5つの人口容量に基づいて生まれたものです。

それが故に、それぞれの人口容量が延び続けている間は、人口は増加しますが、容量の壁に突き当たると、停滞や減少に向かっていきます。これが人口波動の起こる要因です。

こうした人口波動は、日本列島を超えて、地球全体、つまり世界人口の
推移にも見られます。

2015年7月21日火曜日

日本列島の人口は波を打ってきた!

日本列島の人口容量の推移、つまり日本列島の人口推移については、拙著『日本人はどこまで減るか』や『人口波動で未来を読む』などで詳しく述べています。以下では、その要旨を一通り紹介しておきましょう。

日本の人口をできるだけ古くまで遡って調べてみると、古代の聖徳太子行基から中世の日蓮、近世の新井白石勝海舟らを経て、現代の文化人類学者歴史人口学者に至るまで、多くの先人たちのさまざまな推計があります。


この中には、現代統計学の水準からみて必ずしも正確な数字とはいえないものも含まれていますが、前後の整合性から取捨選択してみると、大局的な流をつかむことができます。




それは約3万年前に始まり21世紀末に到る、おおまかな推移といえるものですが、この数値をそのままグラフにしてみると、左図のような極端な急カーブになります。いわゆる指数曲線です。





そこで、Y軸を正対数、X軸を逆対数にして作図しなおしてみますと、右図に描いたような、幾つかの波が浮かんできます。大きな流れはロジスティック曲線のように見えますが、よく見ると、かなり明確に5つの波を読みみとることができます。





筆者は、この波を19年前、初めて「人口波動」と名づけました(『人口波動で未来を読む』1996)。

5つの波動が生まれた要因は、列島の人口容量が〔V(人口容量)=n(自然容量)×C(文明)〕という式で動いてきたからだ、と思います。いいかえれば、〔日本列島の人口容量=列島の自然容量×文明〕ということです。

文明の変化によって、どのような波動が生まれてきたのか、その推移をこれから考えていきます。

2015年7月13日月曜日

1億2800万人以下で増減を繰り返すだけだ!

総期待肥大値が2030年代に1億2800万人ラインを割り、その後、人口容量に徐々に余裕が出てくると、総人口は2070年代に底を打って、80年頃から再び上昇していきます。

・・・という甘い期待が持てるわけですが、ただ、この回復は何時までも続くわけではありません。私たちの作り上げてきた、1億2800万人という人口容量の上限に再びぶつかると、その時点からまた減っていくからです。

その後、50~80年の間隔で、また上がって、また落ちるというように、いつまでも波を繰り返していくことになります。そうなると、もっと本格的に人口を増加させていくためには、何をすればいいのか、という問題が生まれてきます。

その解決策はただ一つ、人口容量をさらに拡大することです。人口容量とは【自然環境×文明】ですから、日本の場合は【日本列島の自然環境×文明】となります。この式で【日本列島の自然環境】にさほどの変化がないとすると、大きく影響するのは【文明】の方ということになります。


私たち日本人は、次の【文明】を新たに創り出すことができるのでしょうか

それを考えるため、これまで日本列島の人口容量を作ってきた、さまざまな文明の推移を、歴史的に振り返ってみましょう。

2015年7月5日日曜日

人口は再び増加する!

総期待肥大値が2030年代に1億2800万人ラインを割ると、その後は人口容量に徐々に余裕が出てきます。私たちの生活意識にも、すぐには無理としても、少しずつゆとりが広がっていきます。

その結果、一貫して落ちていく普通出生率が底を打って上がり始め、あるいは一貫して上がっていくはずの死亡率が逆に下がっていく、という可能性が生まれてきます。

具体的にいえば、2030年から2110年の間に、普通出生率と普通死亡率が、ともに1960年代の水準までに戻ると仮定すると、出生数と死亡数は逆転し、人口が増加に転じることも予想できます。

こうした展望によって、いつごろから人口増加が可能になるのか、大ざっぱなシミュレーションを試みてみましょう。仮定となる条件は、次のようなものです。

①1960年代に総期待肥大値が1億2800万人台を超えたころから、普通出生率は下がり、普通死亡率は上がるという傾向を見せ始め、これはほぼ現在まで、50~60年間続いています。

②そこで今度は、総期待肥大値が1億2800万人台を割った2030年から80年後の2110年に、普通出生率は1960年代の水準を回復し、普通死亡率は1960年代の水準まで落ちていく仮定します。

③これを前提に、予想普通出生率と予想普通死亡率の双方に、1980年と2110年を結ぶ2次曲線を想定してみますと、予想普通出生率と予想普通死亡率は、それぞれ下図に示したような曲線となります。

④図を見ると、2075年頃に普通出生率が普通死亡率を追い抜いていますから、その後はその差だけ人口は増加することになります。両者の比率から実数を算定すると、総人口は2070年代に底を打って、80年頃から再び上昇していきます。
こうしてみると、日本の人口は減り続けるのではなく、現在のまま推移したとしても、70~80年後には再び増加してくる可能性がある、といえるでしょう。

2015年6月30日火曜日

総期待値を2110年まで展望する !

今後の日本では、私たちが到達した1億2800万人という人口容量を、減っていく人口で巧みに利用しなければならなりません。

人口が減れば、1人当たりの容量は拡大してきますから、この利点をうまく利用する方向を探すことが必要なのです。

そこで、人口と総期待値が今後、どのように変わっていくのか、2015~2110年の展望をおおまかに描いてみましょう。前提は次の3つです。

①人口予測値は、国立社会保障・人口問題研究所の2012年推計のうち、もっとも低いケース(低位値)を採ります。最も低く推移した場合でも、総期待肥大値がどこまで増えていくのかを知るためです。

②年齢別の期待肥大値は、それぞれの生まれた年の総人口が人口容量(戦前は7500万人、戦後は1億2800万人)に対する割合です。数字が大きいほど、期待が高いことを示しています。

③各年の総期待肥大値(=総期待値)は、上記の低位推計値の年齢別人口と、年齢別の期待肥大値を掛け合わせ、すべてを合計した数値です。

これをグラフ化したものが下図です。





 

この図から、次のような指摘ができます。

①総期待肥大値は、1960年代に1億2800万人ラインを超えた後、どんどん膨れ上がって、1990~2000年には1億5~6千万人台にまで上昇しました。

②しかし、2008年以降、人口減少に伴って、総期待肥大値も低下しはじめます。しかし、各年齢別の期待肥大値がまだまだ高いものですから、しばらくの間、人口に対応する動きは出てきません。

③2030年代に至って、総期待肥大値が1億2800万人ラインを割るところまで低下してくると、ようやく人口容量には本質的なゆとりが生まれてくることが予想できます。

このゆとりが出生率と死亡率に影響し、前者は上昇、後者は低下へと移行させることができれば、総人口を再び増加へ転じさせる可能性が生まれてきます。

2015年6月26日金曜日

総期待値が1億2800万人ラインを超えた時

期待肥大値の総量は、これまでどのように推移してきたのでしょうか。

各年の年齢別人口に年齢別期待肥大値を掛け合わせたうえで、全体を集計すると、全国民の総期待肥大値(以下、総期待値が年毎に推計できます。

1920年代から現在に至る、この数値の推移をグラフ化してみると、下図のようになります。



総期待値は、終戦前後にやや落ちていますが、その後は急上昇して、人口に先だって1960年前後に1億2800万人のラインを超えています。これによって、何が起こったのでしょう。

上の方の普通出生率をみると、1970年にかけて多少上がっていますが、これはいわゆるベビーブーマー2世の人たちが生まれた結果であり、それが終わると急速に下がっています。下の普通死亡率の方も1960~70年あたりまでが底のようで、80年代からは徐々に上がり始めています。

要するに、総期待値が1億2000万人を超えたあたりから、出生率は下がり、死亡率は上がるというトレンドが生まれていたものと思われます。

総期待値が上昇し、人口に先だって、人口容量の上限に近づいた結果、私たちの生活の中でさまざまな抑制装置が作動し始めたということです。

生理的な次元いえば、日本人全体の生殖能力が下がってきた。病気の増加や寿命の停滞、あるいは胎児や乳幼児の生存能力の衰退などが絡み合って、死亡数もまた増加してきました。

文化的な次元でも、直接的には妊娠を抑制する、出産を抑制する、あるいは自殺が増えてきました。間接的にも生活の圧迫、結婚の抑制、家族の縮小などで出生数が減ってきました。過食や飽食によって病気が増加し、生活習慣病も増えてきたという現象も目立ちました。


政策的な次元でいえば、今では行われなくなりましたが、かつて行われた産児制限の影響が、年齢構成の波となって、じわじわと響いてきているともいえるでしょう。老人ホームもまた、ある種の老人遺棄施設になってきているのではないでしょうか。

しかし、社会の構造は変わってきています。人口が増加する社会から、満杯の社会、そして減少する社会へ変わってきています。


次に何が起こるかといえば、満杯から減っていく方向へ動いていきます。

逆に言えば、少なくなった人間で、私たちの作り上げた1億2800万人という人口容量・・・今後は多少減ってくることもありえますが・・・この容量を巧みに利用できる社会になっていくはずです。 

2015年6月17日水曜日

現代日本の総期待肥大値を計る!

戦前生まれは7500万人の容量意識で生きてきた人々、戦後生まれは1億2800万人が生きられる社会を前提にして生きてきた人々、と仕分けたうえで、1人当たりの生きられる期待値(人口容量/出生年の総人口)を算出し、これを「期待肥大値」と名づけます。

例えば1880年生れの人は、総人口が3646万人でしたから、上限の7500万人まで 2.057倍生きられる可能性を持っていました。1930年生れの人は6445万人でしたから1.164倍は生きられるというわけです。

この期待肥大値を、戦前生まれと戦後生まれを比較すると、6月3日付けのブログの「出生年別の期待肥大値」で示したように、一人ひとりの期待肥大値には大きな差があることがわかります。


そこで、この出生年別の期待肥大値に、2015年の年齢構成を掛け合わせてみますと、2015年時点における「年齢別の期待肥大量」が下図のように浮かび上がってきます。

 これをみると、次のような点が指摘できます。

①およそ70代以上の世代では、年齢別人口と年齢別期待肥大値の間には大きな差はみられない

②70歳以下の、とりわけベビーブーマー世代から40代のベビーブーマー2世を経て30代中ほどまでは、年齢別人口に比較して、年齢別期待肥大値が大きく伸びている

③30歳以下の世代では、再び年齢別人口と年齢別期待肥大値の間に大きな差はみられなくなっている

とすれば、現代日本の総期待肥大値を押し上げているのは、30代中ほどから60代のベビーブーマー1世ということになるでしょう。

2015年6月3日水曜日

生活欲望の変化が人口に影響する!

人口抑制装置の作動を抑えるには、①人口容量を増やすか、あるいは②1人当たりの人口容量(=生息水準)を落とすか、の2つが基本的な選択肢です。

人口容量を増やすには、新たな文明の創造や導入をしなければなりませんが、それには少なくとも50~100年の時間が必要でしょう。

一方、1人当たりの生息水準を落とせば、それだけゆとりが出てきますから、全体の人口容量が変わらなくても、人口増加は可能です。


国民の誰もが現在よりも欲望(生活願望)を抑えることができれば、都会でも田舎でもまだまだ出生数は増えるはずです。夫婦の願望が低ければ、子どもを増やしても、さほど生息水準は変わりませんし、生まれてくる子どももまた高望みしなければ、さほどお金もかかりません。

とはいえ、こうした想定はまず無理でしょう。一旦享受した水準を低下させるとなると、かなりの抵抗があります。先見的な、一部の人たちが選択したとしても、その動きが大きく広がることはありえないでしょう。

そうなると、人口抑制装置の作動を停止させ、人口を再び増加へ転換することなどは、まずは不可能と思えてきます。

しかし、ここにきて、もう一つ、別の選択肢が見えてきます。それは、③の方向として、人口減少が進んでいく以上、人口容量を維持できさえすれば、容量にはゆとりが生まれてくるから、生活水準を落とさなくても、人口が増えるという可能性です。


 
果たして③の方向は実現できるのでしょうか? ミクロな予測は不可能ですので、よりマクロな視点に立って、以下では日本列島の将来人口を展望してみましょう。

これまでの日本は、人口容量が1億2800万人ぐらいまで伸びるという社会の中で、私たちの生活の枠組みも、あるいは国家経済の枠組みも、その全てが「成長・拡大」へと向かってきました。その中で、人口もまた、ある程度の増加を続けることができました。

しかし、人口容量の飽和した社会では、上限となる枠組みがもう伸びなくなっています。にもかかわらず、1970年代以降も人口は伸びてきました。人口が増えるだけでなく、1人1人の欲望もまた、過去の延長線上でとめどなく膨らんできました。

その結果、人口が増えたのと同時に、1人1人の欲望もまた非常に膨れ上がっています。そうした人々の集まる社会を、筆者は「自己肥大化社会」と名づけました。人口が満杯になっただけでなく、欲望もまた満杯になった社会という意味です。

ところが、状況が変わってきました。人口が急速に減ってきたからです。今後もなお自己肥大化が続くとしても、人口そのものは減っていきます。人口が減り、人口容量が一定であるとすれば、その分だけ余裕が生まれてきます。どうやら2010年代という時代には、私たちの生活感覚が「限界」から「余裕」へ、ちょうどその変曲点にさしかかっているのだ、と思います。

現代日本人の欲望状況をおおざっぱにグラフ化してみますと、下図になります。


戦前生まれの多くは、多分、その時の日本列島の限界であった「7500万人ぐらいまでは生きられる社会」、それが「俺の人生だなあ」と思っていたはずです。

ところが、戦後生まれはもっと欲望を伸ばしています。戦争に負けて、その後、ユニセフから緊急物資を援助してもらって、海外から食糧を持ってくればまだまだ生きられる、と気づきました。食べ物や生活資源などを輸入できれば、いくらでも生きられる。「1億人あるいは1億2000万人ぐらいは生きられる社会」を期待するようになりました。そうした意識を持った人々が、ほぼ1950年代から生まれてきました。

以上のような仮説に立つと、戦前生まれは7500万人ぐらいの容量意識で生きてきた人々、戦後生まれは1億から1億2000万人ぐらいは生きられる社会を前提にして生きてきた人々、と仕分けられるでしょう。

こうした容量意識を「期待肥大値」と名づけますと、これがこれからの人口推移に大きく影響してくると思います。

2015年5月26日火曜日

「人口激減社会」は悪いことばかりじゃない!


週刊新潮(4月30日号)巻頭特集「人口激減社会の利点検証」に、幾つかの利点をコメントしました。https://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/backnumber/20150422/
おもな内容は http://homepage1.nifty.com/gsk/insist15.htm です。

これが英訳、仏訳されて、世界中の皆様からご意見やご批判をいただきました。

英語:https://www.japantoday.com/smartphone/view/kuchikomi/a-shrinking-population-not-all-bad-news

仏語:

http://www.nipponconnection.fr/une-diminution-de-la-population-japonais-nest-pas-forcement-une-mauvaise-nouvelle/

















ありがとうございました。厚く御礼申し上げます。
Thank you very much. I am deeply grateful.

2015年5月21日木曜日

9年前にも書いています!

人口抑制装置の作動を抑えるには、人口容量を増やすか、あるいは1人当たりの人口容量(生活水準)を落とすか、どちらの選択しかありません。このことは、先に述べた下記の式が明確に示しています。







実をいうと、こうした選択については、すでに9年前の毎日新聞(2006年2月4日)論壇「どうする少子化」(古田隆彦)で一通り述べています。以下に再掲しますので、改めて確認していただきましょう。

政府の少子化対策は、その意図とは裏腹に出生数を減らしているのではないか

人口が減るのは、「少子高齢化」のためではなく、出生数を死亡数が追い越す「少産多死化」のためだが、この背景には「人口容量(キャリング・キャパシティー)」の飽和化がある。


容量が一杯になると、原生動物から哺乳類まで、ほとんどの動物は生殖抑制、子殺し、共食いなどで個体数(動物の人口)抑制行動を示し、容量に確かな余裕が出てくるまで続ける。さすがに現代人はそこまではしないが、動物である以上、生殖能力や生存能力の低下とともに、避妊、中絶、結婚減少など人為的な抑制を行う。

他方、人間の人口容量は、国土の自然・社会環境をいかなる文明で利用するか、で決まる。歴史を振り返ると、日本列島の人口容量は、旧石器文明で3万人、縄文文明で30万人、粗放農業文明で700万人、集約農業文明で3300万人程度であったと推定される。この壁にぶつかる度に、日本の人口は停滞もしくは減少を繰り返してきた。

人口容量が拡大している時には、1人当たりの人口容量である「生活水準(経済、環境、自由度などを統合した水準)」が伸びても、なお容量にゆとりがあるから、親世代は自らの水準を落とさないで、子どもを増やせる。が、容量が限界に近づくと、許容人口は生活水準が高ければ少なく、水準が低ければ多くなる

そこで、親世代は自らの水準を下げて子ども増やすか、水準を維持して子どもを諦めるか、の選択を迫られる、すでに一定の豊かさを経験している親世代は、それを落とすことを嫌うから、事前に晩婚や非婚を選んだり、結婚後も避妊や中絶を行って出生数を減らしていく。

現代日本は工業製品を輸出して食糧・資源を輸入する〝加工貿易〟文明によって1億2800万人の人口容量を作り出してきたが、これが今、頭打ちになった。


そこで、多くの日本人は無意識のうちにも人口抑制行動を開始し、過去の減少期と同様、出生数を減らしはじめている。つまり、「晩婚化・非婚化」や、「子育てと仕事の両立が難しい」という理由の背後には、「飽和した人口容量の下での自らの生活水準を維持しよう」という、隠れた動機が働いているのだ。

ところが、エンゼルプラン以来の少子化対策は生活水準を上げてしまう。人口容量が伸び悩んでいる時、水準をあげれば、許容量はますます縮小し、その分、出生数を減らし死亡数を増やして、人口を減らす。ミクロの増加がマクロの減少を招くのだ

「子育てと仕事の両立を進めるな」といっているのではない。「この種の政策で出生数の回復は無理」といっているのだ。
政府がお金をかければ、一時的に出生数は増える。が、少し手を抜けば1990年代のスウェーデンのようにたちまち減少する。

本格的に出生数を回復させるには人口容量の拡大しかないが、それには文明次元の転換が必要だから、少なくとも30~40年はかかるだろう。 

いかがでしょうか。こうした考え方にたって、私は今もなお、新たな社会構想を進めています。