2015年11月17日火曜日

中世の秋

当時のヨーロッパ社会は、オランダの文化史学者J.ホイジンガが「中世の秋」と名づけた時代です。

あたかも夕暮れの空の深みに吸いこまれているかのようで(中略)、その空は血の色に赤く、どんよりと鉛色の雲が重苦しく、光はまがいでぎらぎらする」(『中世の秋』)ようなムードが漂っていました。
この200年をざっと振り返ってみると、14世紀前半からすでに混乱がはじまっていました。

ヨーロッパ人口の約40%を占めていたイギリス・フランス間では、領土と商業権の争奪をめぐって、1338年から百年戦争がはじまっていたのです。

イギリスでは、14世紀初頭から飢饉や疫病などをきっかけに、人口減少、地代の低下、農民の逃散、賃金・加工賃の騰貴などで、封建領主の農業経営が次第に困難になり、農奴の賦役を金納化したり、直営農地を農民に貸与する動きが進んでいました。そこへ百年戦争とペストの影響が及んだため、人口は14世紀中に40%も減少しました。

その結果、穀物の価格は低落し、逆に雇用労働の賃金は高騰しましたので、15世紀には「農業労働者の黄金時代」を迎えます。だが、この繁栄する農民階級に対して、当時の政府は百年戦争の戦費を負担させようと人頭税を課しましたから、ワット・タイラーの乱を挑発することになりました。

フランスでも、百年戦争や王国内部の貴族の争いで、14世紀中葉から農村の荒廃が著しく、多くの村落が数世代にわたって放棄され、耕地や葡萄畑が森林化していました。これにペストの流行が加わったため、領主直営地の多くは経営困難に陥り、折半地代や定量地代によって小作地へと転換され、15世紀半ばには中小規模の農民経営へ移行していきます。


しかし、地代の貨幣化は、当時繰り返された貨幣の悪鋳によって、かえって領主の収入を減少させ、彼らの立場を弱めることになりました。

ヨーロッパ人口の約11%を占めるイタリアでは、キリスト教会の混乱で教皇権が衰退していました。1309年には南フランスのアビニョンに教皇庁が移され、フランス王権の強い影響下におかれたため、「アビニョン捕囚」とよばれました。77年に教皇座がローマに帰還した後も、ローマとフランスで別々の教皇が選ばれたため、1378年から40年間、「教会の大分裂」が続きました。


1417年にようやく教皇の統一がなると、ミラノ、ベネチア、フィレンツェ、ナポリとともに5大勢力が分立しますが、一連の政治的な混乱によって、農業の衰退が目立ちはじめています。

同じくヨーロッパ人口の約11%を占めたイベリア半島でも、カタルーニァ、カスティーリア、ナヴィラなどの地方では、開墾の限界化と農業技術の停滞で、農業生産の衰退農村人口の都市への移動人口の減少が進み、14世紀末から15世紀後半にかけて、領主の収入が低下し、各地で農民が蜂起した結果、農奴制は廃止されています。

以上のように中世的な農業生産の限界化は、経済構造や政治構造を大きく変えました。経済構造では、農村を荒廃させ、農業の生産を低下させましたが、それ以上に需要を縮小させ、穀物価格を下落させていきます。

逆に都市では、手工業製品価格が穀物価格に対して相対的に上昇したため、商業が活況を呈します。資本を蓄積した商人の手で、鉱山の開発や金属・繊維工業などの技術革新を進め、都市経済を繁栄に向かわせていきます。

また政治構造では、権力の復権をめざす封建領主に対抗して、農民層の多くがフランスのジャックリーの乱、イギリスのワット・タイラーの乱、南ドイツのアペンツェル戦争などで、積極的に闘争を挑むようになります。こうした新秩序の再編は、15世紀後半に経済が回復してくるとともに、その姿をいっそう明確にしていきます。

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