2016年6月28日火曜日

飽和・濃縮文化が生まれた!

飽和・濃縮社会の特徴を最も表わしているのは、宝暦~天明時代に生まれた江戸文化です。

この点については、別のブログ「平成享保のゆくえ」で詳述していますので、ここでは要点だけを再掲しておきましょう。

約40年間続いた宝暦~天明時代のうち、とりわけ田沼意次が政権を握った、明和~天明期(1764~88)の20数年間は、人口増加から減少への移行期であった、それ以前の不機嫌なムードをようやく脱して、庶民が豊かな暮らしを楽しみ、文化や芸術が充実する時代となっていきます。

その意味では、縮みながらも濃くなる「飽和・濃縮社会」の典型といえるでしょう。

明和~天明期には、商品経済の拡大で庶民の暮らしも大きく変わり、新たな消費や文化が生まれましたが、こうした動きに田沼政権はあえて統制を行なわず、むしろ自由放任政策をとりましたから、芝居、遊興、風俗から学問、文芸、美術まで、まことに多彩な社会現象が展開されています。

江戸の町には、従来の上方文化に代わって、新しい江戸文化が興隆しました。
その先頭に立ったのが、「十八大通」、つまり倉米を担保にして金融業を営む「札差」を中心になり上った18人の大通人です。

遊里や芝居小屋のパトロンになって、髪形、言葉使い、所作などでも「蔵前風」とよばれる、独自の様式を創り上げ、「江戸っ子」「」「いき」という言葉を広めました。

大通の1人、大口屋治兵衛暁雨は、江戸っ子の象徴「花川戸助六」に自らを擬して、吉原で豪放な大尽ぶりをみせつけ、2代目市川団十郎の支援者となって、舞台上の助六に自らの衣装や所作をまねさせました。

黒羽二重の無地の小袖に紅絹裏、浅葱の襦袢、綾織の帯、鮫鞘の刀に桐の下駄という、まことに〝いき〟なものでしたが、これはそのまま現代の歌舞伎に引き継がれています。

こうした風潮に乗って、新たな風俗や衣装が生まれました。衣類・装飾品では、女性向けの青紙で張った日傘丁子茶色、花簪し、木綿浴衣の藍がえし、富三染中形の浴衣、鯨帯、女芸者の振袖など、男性向けの夏合羽、表無地裏模様、細身脇差、丈短の蝙蝠羽織、大坂人形遣い風の長丈羽織などが流行しました。

食べ物では、土平飴、阿多福餅、大福餅、大仏餅、浅草餅、いくよ餅、軽焼、蕎麦切、船切、酒中花、しっぽく、生簀鯉、麩、あは雪なら茶、煎餅、塩瀬饅頭、色紙豆腐、芝三官飴などに人気が集まりました。

外食・料理屋も増加し、寄り合い茶屋では浅草の並木富士屋、深川の西之宮、洲崎の望汰欄など、料理茶屋では葛西太郎、大黒屋、武蔵屋、枡屋など、麹町獣屋、屋台見世としてすし、二八蕎麦、おでん、燗酒、てんぷら、鰻の蒲焼を扱う店が出現しました。

流行り歌では、江戸節河東節長唄新内節などが、さらに新たな遊びとして、伊勢お蔭参り、投扇、投壷、二挺鼓なども流行しました。

つまり、当時の町人文化は、表面的な華麗さを「野暮」とみなし、裏側の抑えられた趣向を「」「いき」として尊ぶ、成熟した美意識に裏付けられたものでした。

この成熟した美意識がさらに優れた絹織物、陶磁器、漆器、細工物、印籠・根付などの消費文化を生み出していきます。

新たな消費文化の拡大は当然、江戸経済にも好況をもたらしました。その成果を積極的に活用して、赤字に悩んでいた幕府財政を10数年にわたって黒字に変えていったのが、卓抜した指導者、田沼意次だったのです。
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2016年6月21日火曜日

飽和・濃縮の時代へ!

以上のような江戸中期の社会にも、下降期に特有の現象がいくつか発生してきます。

経済、文化、技術の3面から眺めてみましょう。




経済政策では、規制の強化と緩和が繰り返されています。


この期間は、八代将軍吉宗の「享保の改革」による規制強化(約40年)、側用人大岡忠光による改革調整(15年)、田沼意次による規制緩和(約14年)、松平定信による「寛政の改革」による規制強化(約6年)、11代将軍家斎による化政期の規制緩和(約40年)と、規制の強化と緩和が短期間に繰り返された時代でした。

経済の基盤である米作が限界化したため、基本的には奢侈や浪費を抑えて、一定の制約下に適応していかざるをえませんでした。

だが、そればかりでは、庶民大衆の支持が得られなかったため、時々タガを緩めことも必要でした。

その結果、経済政策では、デフレ政インフレ政策が交互に実施されています。

②文化面では、江戸型の文化が新たに生まれています。

享保の改革の締め付けが緩むにつれて、宝暦・明和・安永・天明期(1751~1789年)には、いわゆる「宝暦・天明文化」が興隆しています。

この文化は、元禄文化までの上方主導文化に代わって、江戸という大都市が、主に遊里と芝居小屋で独自に生み出した、通」「粋」「いき」といった美意識を重んじる、新しい都市文化でした。

つまり、江戸中期とは、物質的な成長や経済的な拡大が滞り人口が停滞したが故に、かえって芸術や文化が深まった時代でもあったのです。

③技術面では、新たな産業技術の芽が育まれています。

享保以降、医療や生産に役立つ実用の学問を求めて、いわゆる徳川吉宗の解放策によって蘭学が興隆し、医学、物理学、化学から天文学や地理学、あるいは和算学や物産学などにまで広く普及していきます。


代表的な出版でいえば、例えば野呂元丈訳『阿蘭陀本草和解』(1742年)、前野良沢訳『解体新書』(1774年)、大槻玄沢『蘭学階梯』(1788年)などです。

こうした西欧的知識の導入で、幾つかの藩では、手工業(マニュファクチャー)の生産技術を急速に発達させ、財政基盤の回復に努めた結果、明治維新への足がかりをつかんでいきます。

以上のように、農業後波の下降期(1730~1800年)には、政治・経済的には閉塞した社会の下で規制の強化と緩和が繰り返されていきましたが、その間に文化の成熟とそれに基づく新技術の蓄積が進んでいます。

いいかえれば、それまでの「成長・拡大」とは正反対の「飽和・濃縮」ムードが高まった時代といえるでしょう。


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2016年6月11日土曜日

緊縮と弛緩が繰り返された!

農業後波の飽和・停滞期は1730~1800年、いわゆる江戸中期です。

この時代の社会状況を、人口、政治、経済の3面から描いてみると、下図のようになります。

農業後波が飽和に近づいた1716年(享保元年)ころ、八代将軍に就任した徳川吉宗は「享保の改革」(1717~45)を実施して、綱紀粛正、倹約・消費抑制、行・財政改革などを断行し、元禄バブルの崩壊で混乱に陥っていた社会を、安定成長路線へ切り換えていきます。

この改革は、一旦は成功するかにみえましたが、享保の飢饉やそれに起因する江戸打毀しの発生などで、再び社会不安が高まり、同時に幕府財政も悪化して、人口も減少に転じていきます。

さすがの吉宗も1743年(寛保3年)に有毛検見取法を施行して課税の強化に転じ、また元文金銀という悪貨を新鋳してインフレ政策へと転換して、米価の安定化をめざしました。この政策転換は成功し、その後幕府の歳入は徐々に増加していきます。

吉宗の譲位後、将軍が家重から家治に変わると、1767年(明和4年)に政治の実権を握った御側衆の田沼意次は、一転して規制緩和を押し進めていきます。

財政の立て直し策では、折から拡大しつつあった商品・流通市場の力を利用しようと、豪農や商人の再編成、貿易・鎖国体制の見直しなど「重商主義」的な政策を断行して、大きな成果を上げました。景気は上昇し、スモールバブルの様相まで呈し、人口もなんとか持ち直しました

ところが、運悪く気候の悪化で天明の大飢饉が発生し、庶民の生活基盤を脆弱化させたため、1786年(天明6年)に将軍家治が没すると、やむなく失脚していきました。

続いて1787年(天明7)年、老中首座に着いた、吉宗の孫の松平定信は、翌年から「寛政の改革」(1788~93)を主導し、再び規制強化へと向かいます。

具体的には、米穀や貨幣相場への介入、旧里帰農奨励令、物価引下げ令、石川島人足寄場の設置、七分積金令などですが、これに加えて、朱子学以外の儒学を禁ずる「寛政異学の禁」や、蝦夷地の地勢調査といった海防対策にも努力しました。

彼の強権的な改革で、社会的な混乱はひとまず落ち着きを取り戻し、深刻な財政危機も一応は回避できました。

だが、倹約令を中心とする極端な抑制策で幕府の歳入は増えたものの、世間の景気は消沈し、人口も減少しました。


そのうえ、隠密を駆使した陰湿な教戒政治が、庶民層はもとより武士階級からも不評をかったため、1793年(寛政5年)年、定信は将軍補佐役ならびに老中を解任されました。

代わって幕政の実権を握った11代将軍、徳川家は、文化・文政期から天保初期までの約40年間、規制緩和や放漫財政によって、いわゆる「化政時代」を作り出してゆきます。

この時代には、華美・驕奢な大奥生活に象徴されるように、爛熟・頽廃の世相は極みに達し、それに伴って町民層の消費も拡大し、人口も増加に転じていきます。

このように人口が停滞・減少した、18世紀の江戸社会は、政治や経済が小刻みに揺れた時代でした。

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