2019年7月17日水曜日

システム(体系)でなくストラクチャー(構造)で捉える!

「時代識知」という言葉に求められる要件について、第1は「認知」次元でなく「識知」次元で捉える、第2は言語表現と未言語表現の両面を捉える、などと述べてきましたので、第3に移ります。

第3の要件は、網状(networking)の「システム(system)」ではなく、分節的(articulating)な「ストラクチャー(structure)」で捉える、ということです。

システム」と「ストラクチャー」はどのように違うのでしょうか。

「システム」という言葉は、ギリシャ語syn(共に)とhistanai(置く)の合成語systēmaに由来し、一つの対象を部分部分(要素)が結合して構成される全体として認識する状態を意味しているようです(平凡社/世界大百科事典・第2版)。



一方、「ストラクチャー」は、ラテン語のstruo(組み立てる)と-tura(もの)の連結が語源ですが、struoは印欧語根 sterh-(広げる)が語源のようです(語源英和辞典)。


システムとストラクチャーの比較については、現代言語学の父、F・ド・ソシュールの立場、いわゆる「構造主義」に立つと、図に示したような差異が見つけられます。



つまり、システム(体系)とは全体を点と線で把握する観念であるのに対し、ストラクチャー(構造)とは分割された面で把握する観念ということです。

このような視点に立つ時、「システム」と「ストラクチャー」の間には、次のような違いが表れてきます。
 
①「システム」では、個々の要素を想定したうえで、それらが繋がった網として全体を把握しますが、「ストラクチャー」では全体をまず一つの要素で分割(分節)し、さらに次の要素でも分割するなど、次々に分割を続けることで全体を把握していきます。

②巨大な対象をとりあえず全体的に把握するには「システム」が適していますが、すべての対象とりこぼさず把握するには「ストラクチャー」の方が適しています。

特定の目的を達成するには、体系的な「システム」が適していますが、全体的・本質的な中身をつかむには構造的な「ストラクチャー」の方が適しています。

以上のように、「システム」が全体から漏らした分野を、そっくりつかみ取ることができる概念こそ「ストラクチャー」ということになります。

この発想こそ、「言葉が識知の仕組みを決める」という「構造主義」の原点になっているものです。

それゆえ、「識知」という行動もまた「ストラクチャー」の視点に立つことが求められるでしょう。

2019年7月5日金曜日

「識知」が作り出す、3つの世界とは・・・

識知」とは、動物類に共通する「身(み)分け」能力=「認知」で理解した「モノ」的世界を、人間が彼ら特有の「言(こと)分け」能力で捉え直し、「コト」的世界として理解することだ、と述べてきました。

このように書くと、「識知」が把握する対象とは「コト」的世界の内側だけだ、と思われるかもしれませんが、そうではありません。
 
「言分け」とは、「言葉」という認識装置によって、周りに広がる環境世界を理解することですが、その名称どおり「言葉」によって捉えられる領域捉えられない領域を「仕分ける」ことを意味しているからです。

つまり、言葉という認識装置の内側に入り「コト」となった対象と、内側に入らないで「モノ」的世界に残ったままの対象の、2つに仕分けられる、ということです。

このように「言分け」を理解すると、その具体的な行動である「識知」もまた、言葉で把握される対象と把握されない対象を生み出すことになります。

つまり、「識知」とは、言語で表現できる言語世界と、言語では表現できない、未言語世界の、両方の世界を生み出す行動ということです。

別の表現をすれば、筆者の別のブログ
【生活学マーケティング】で詳しく述べているように、人間という種はそれが持つ本能の「身分け」能力によって、「物界=フィジクス:physics」から「モノ界=ピュシス:physis」を捉えます。そのうえで、さらに独自の「言分け」能力によって、改めて言葉によって理解される限りでの「コト界=コスモス:cosmos」を作り上げています。

この時、「言分け」の網の目によって、モノ界からコト界へくみ上げられなかったものが「コトソト界=カオス:chaos」になります。

 
このような仕分け行動こそ「識知」の本質だと理解すれば、それが把握する世界は次のように分かれてきます。
 
 ①「識知」によって「モノ界=ピュシス」の中から「コト界=コスモス」が識別され、それとともに、私たち人間の内部には意識自我もまた生まれてきます。

②「識知」できなかった「モノ界=ピュシス」の部分は、そのまま「コトソト界=カオス」として浮遊していますが、この部分がエス(心の無組織状態)無意識という形で心の底に沈潜していきます。

③「識知」という認識行動によって、私たちの生きている、現実の世界は、コスモスとカオスのせめぎ合う世界、あるいはモノとコトの行き交う世界、つまり「モノコト界=ゲゴノス(gegonós)」となります。

以上のように、「識知」を「認知」から分けることによって、私たちは周りの環境世界より正確により柔軟に仕分けることができるようになるのです。

2019年6月22日土曜日

「識知」と「認知」の差を考える!

識知」という言葉は、1970年代から日本の思想界で使われてきました。

最近では類似の言葉として、「認知」が多用されています。

両者はどのように違うのでしょうか?

人間が周りの環境世界を理解する場合、すでに【
人類は世界をどのように理解してきたのか?:2019年3月24日】で述べていますが、「身(み)分け」という網と「言(こと)分け」という網の、2つの網の目を通して対応しています。

身分け」の網とは、人間が自らの本能という「網」の目によって、周りの外界を理解した世界像、つまりヒトという「種」に特有のゲシュタルト(Gestalt:部分の集まりを越えた、全体的な構造)を意味しています。

言分け」の網とは、人間が「身分け」の網の上に、もう一つ「シンボル化能力とその活動」、つまり広い意味でのコトバ(言語)を操る能力によって生みだされる、もう一つ別の外界像「コスモス:cosmos」を示しています。

このように、人間はまずは本能・感覚の網で世界をつかみ取り、さらにもう一度、コトバやシンボル(絵や形)の網によって世界を捉え直しています。

いいかえれば、私たちは生物次元の「身分け」構造と、人類次元の「言分け」構造の“二重のゲシュタルト”によって、周りの外界を把握しているのです。

この二重構造から「知」と「知」の差異が生まれます。






図に示したように、まず周りの物質的世界の「物」は、人間自身の「身分け」能力の作動によって、本能や感覚が捉えた限りでの「モノ」として理解されます。

この理解こそ「」です。

他の動物でも、それに特有の「認知」能力によって、それぞれの「モノ」的世界を理解しています。

一匹の狐は視覚や聴覚などの捉えた情報をもとに、餌や天敵や逃げ道などを理解していますが、まさしく動物次元の「認知」能力です。

ところが、人間はこのように理解した「モノ」的世界を、彼ら特有の「言分け」能力によってさらに捉え直し、コト」として理解しています。

この理解こそ「知」です。

一人の人間は食用植物や大風や蝉の声を「貢物」や「神風」や「初夏」として理解していますが、これこそ人間次元の「識知」能力です。

他の動物でも、それぞれの「身分け」能力に加え、種特有の方法でさらに環境世界を嗅ぎ分ける能力を持っている可能性も考えられますので、人間に特有のそれが「言分け」能力である、ともいえるでしょう。

このように人間という動物が、「知」+「知」という、二重の知覚処理能力によって周りの環境世界を理解している以上、両者を分けて考えることが必要となります。

今回はとりあえず、「認知」と「識知」の基本的な違について考えてきましたが、この視点をベースとすると、「識知」という概念にはさらに幾つかの特性が考えられます。

2019年6月13日木曜日

「識知」という言葉を誰が使ったのか?

5つの人口波動を創り出した、時期別の環境観や世界観を一言で表現する言葉として「時代識知」を提唱したいと思いますが、「識知」とは何を意味するのでしょうか?

最初に検討すべきは「認知」と「識知」の違いです。

人間が周りの環境世界を理解する言葉として、通常使われているのは「認識」や「認知」でしょう。

辞書(大辞林 第三版:三省堂)によると、哲学や心理学では、次のように説明されているようです。

認識】・・・〘哲〙〔cognition; ドイツ erkenntnis〕 人間(主観)が事物(客観・対象)を認め、それとして知るはたらき。また、知りえた成果。感覚・知覚・直観・思考などの様式がある。

認知】・・・〘心〙〔cognition〕 生活体が対象についての知識を得ること。また、その過程。知覚だけでなく、推理・判断・記憶などの機能を含み、外界の情報を能動的に収集し処理する過程

これらの言葉は、欧米語の翻訳語として、近代日本に定着したものです。

一方、「識知」という言葉については、他の辞書(精選版 日本国語大辞典:小学館)で次のように解説されています。

識知】・・・〘名〙知ること。認めること。

識知のおよばざるより同生して、識知のおよばざるを住持し、識知のおよばざるに実帰す。(正法眼蔵:1231~53年、巻:神通)

これを見ると、「識知」という言葉は一般的ではなく、仏典のような、ごく特殊な分野で使われているようです。


しかし、日本の思想界では、1970年代からしばしば「識知」が使われています。


これらのことをいいつのるに必要なヨーロッパの文化にたいする輪廓ある識知をわたしはまったくもっていない。吉本隆明『悲劇の解読』1979)。

野獣は、なわばりといった領域を、いわば〈身分け〉として識知しているが、これは、空間的表象をそれが持っていることを意味する。(竹田青嗣『意味とエロス―欲望論の現象学』1986)

こうした使用法が始まったのは、おそらく中村雄二郎の翻訳による、ミシェル・フーコー『知の考古学』(1970)主要用語解説によるところが大きいのでは、と筆者は推察しています。中村は次のように述べています。

識知 savoir はふつうは、広く「知」とか、「知識」という意味だが、フーコーはとりわけ『言葉と事物』以来(すでに『狂気の歴史』中にも見えているが)、サヴォワールにエピステーメー:épistémè に対してと同様、それも非常によく似た、特殊で重要な意味を与えている。
すなわち、それは、一つの時代、一つの文化の共通の基盤をなす認識系ともいうべきもので、個々人の知識や思想を超えて存在するものである。

このようなフーコーの意図を考える時、中村は「savoir」の訳語として、汎用されている【認知:cognition】よりも、仏教の唯識論や東洋哲学などで使用されてきた「識知」を当てる方がよりふさわしいと考えたのではないでしょうか。

識知」の意味を論じる前に、この言葉が思想界で普及し始めた背景をひとまず考えてみました。

2019年6月3日月曜日

「時代識知」の要件を考える!

このブログで提唱しようとしている「時代識知」とは、人類史上に5つの人口波動を創り出した、5つの時期別の環境観や世界観を一言で表現する言葉です。

あるいは、超長期的な世界観の変化の中で、それぞれの時代別の環境・世界観を端的に表す用語ともいえるでしょう。

このような言葉や概念を、西欧の思想や哲学の中に探してきましたが、ニュアンスや範疇などではかなり近似はしているものの、ぴったり的中する言葉となると、浅学のゆえか見つけることは甚だ困難でした。


①比較的新しい「パラダイム(Paradigm)という言葉は、アリストテレスからアインシュタインまでの観念転換を捉えてはいますが、科学という「機械論的自然観」の中での世界観の変容を示しているにすぎません。

②「エピステーメー(epistēmē) 」という言葉も、主として17~18世紀以降の学問や文化の推移を対象にした考察や分析から生まれた用語や概念であり、また言葉とは別次元に現れる表現行動や精神活動などには及んでいません。

③「ツァイトガイスト(Zeitgeist)という用語も、狭いものは観念的・学問的な次元の言葉として、広いものは「時代の心」を捉える用語として、それぞれ使われるなど、提唱者によって定義が異なっており、その概念が曖昧なままです。

以上のように、西欧の思想・哲学史の中には、「時代識知」にぴったり当てはまる言葉は見当たりませんでした。

とすれば、「時代識知」という言葉を新たに提唱し、その意味するところを明らかにしなければなりません。

それには、この言葉に求められる、幾つかの要件があると思いますので、主なものを列記してみました。










①「認知」次元ではなく「識知」次元を捉える言葉である。

②「言(こと)分け」による言語表現と未言語表現の両面を捉える言葉である。

③網状(networking)の「システム(system)」ではなく、分節的(articulating)な「構造(structure)」を捉える言葉である。

④世界を理解する受動的な次元に加え、世界に働きかける能動的な次元もまた意味する言葉である。

⑤学問、思想、科学などの次元を超えて、より根底的な認識次元を捉える言葉である。

とりあえず、この5つを提起したうえで、順番に考えていきたいと思います。

2019年5月21日火曜日

「ツァイトガイスト」で時代識知を捉えられるか?

3番めはドイツ語のツァイトガイスト(Zeitgeist)

ツァイトガイストという言葉は、ドイツ哲学界を代表する学者たちが提唱した概念で、主に一時代に支配的な知的・政治的・社会的動向を表す全体的な精神傾向を意味しており、日本語には「時代精神」と訳されています。

最初にこの言葉を提唱したのは哲学者・文学者のJ.G.ヘルダー(Johann Gottfried von Herder)です。

『フマニテート促進のための書簡(Briefe zu Beförderung der Humanität)』(1793-1797)において、「時代精神」とは、時代の根底にあって、すべての人間とその営為を包容し,時代を動かすとともに時代の志向を集約する、いわば「時代の心」とも称すべき実体と述べています。

この概念は、過去から現在を経て未来に向かう歴史の潮流の基底に潜在して、持続と秩序を本質としつつ、混乱と分裂を統一するような、時代の共通項ともいえるものです。

続いてドイツ観念論を代表する哲学者のG.W.F.ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)が、1822~1831年の講義録『歴史哲学講義(Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte)』において、「時代精神」を歴史の過程と結び付けて論述しています。

「時代精神」とは、個々の人間精神を超えた普遍的世界精神が、歴史の中でおのれを展開していく各過程において現れる、精神の形態である、というものです。

この定義が広まったことから、普遍的な人間精神が特殊的、歴史的現実に展開・具現するところに、ある時代の精神文化を表す時代精神の存在をみる、という見方が確立されることになりました。

ところが、20世紀初頭になると、「生の哲学」の創始者W.C.L.ディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig Dilthey)が、『精神諸科学における歴史的世界の構成』(Der Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften,1910)において、ヘーゲルの概念中心主義を批判し、よりも具体的に生活体験という視点から出発して、その中に時代精神を了解するのが精神科学(Geisteswissenschaft)の使命である、との見解を表明しました。

人間の精神活動を知・情・意の「作用連関」としてとらえ、価値体系を中核にした作用連関の表出のうちに「時代精神」を了解(Verstehen)するのが精神科学である、と提唱したのです。

以上のように、「ツァイトガイスト(Zeitgeist)」という言葉も、提唱者によって、かなり異なる意味を与えられているようです。

果たしてこの言葉で、超長期にわたる「時代識知(savoir de l'époque)」の変容を捉えることができるでしょうか。次のような課題が浮かび上がってきます。

 定義がさまざまで、定まっていません

時代の変化、提唱者の立場によって、言葉の意味や定義がかなり変化しています。

観念的・学問的次元に留まっています。


最も影響力のあるヘーゲルの定義においても、精神史や精神文化などの言葉が示す通り、「ツァイトガイスト」は観念的・学問的な次元の言葉として扱われており、より根底的な「識知」を捉えるには適切ではありません。

より広い概念もやや曖昧です。


ヘルダーのいう「時代の心」やディルタイのいう「生活体験という視点」であれば、超長期的な「識知」を捉えることも可能かもしれませんが、実際に適用しようとすると、やや曖昧な定義だといえるでしょう。

以上のように、「ツァイトガイスト」という概念もまた、超長期的な「時代識知(savoir de l'époque)」とは微妙に異なっている、と考えるべきでしょう。

2019年5月14日火曜日

「エピステーメー」で時代識知を捉えられるか?

超長期にわたる「時代識知(savoir de l'époque)の変容を的確に現す言葉として、思想史学の中からツァイトガイスト(Zeitgeist)、エピステーメー(epistēmē)、パラダイム(Paradigm)などの用語を見つけましたが、これらで果たして捉えられるものでしょうか。

2番めはギリシャ語のエピステーメー(epistēmē)

もともとはプラトンやアリストテレスが、単なる感覚的知覚や日常的意見である「ドクサ(doxa:憶見)に対立させ、確かな理性的認識を意味する言葉として使用したものでした。

この言葉を1960年代に、フランスの哲学者ミシェル・フーコー(Michel Foucault)がさまざまな時代に固有のものの考え方の枠組み、思考の台座、つまり時代を支配するメタ知構造として使用したことから、構造主義思想の基本用語となりました。



フーコーは『言葉と物』(Les mots et les choses,1966)の中で、エピステーメーとは「ある時代におけるさまざまな学問の成立を可能にならしめる、その時代固有の知の深層構造」(渡辺一民・佐々木昭訳書の解説)を意味する言葉として使っています。

この定義に基づいて、本書では、「表象」の自律性のもとに博物学、一般文法、富の分析などを可能にしていた17~18世紀(古典時代)のエピステーメーから、生命、言語、労働に関する諸科学、人間に関する経験的探求の出現を可能にした19世紀以降(近代)のエピステーメーへの変化が分析されています。

3年後に出版された『知の考古学』(L'archéologie du savoir,1969)になると、上記の定義をベースにしつつ、さらに方法論的・認識論的(哲学的)考察を展開し、その概念を発展させています。

「〈エピステーメー〉なる用語によってわれわれの解するのは、或る与えられた時代において、認識論的諸形像、諸科学、そしてときには形式化された諸システムを生ぜしめるさまざまな言説的実践を統一しうる諸連関の総体」(中村雄二郎訳)とされています。訳者によると、「一時代の文化全体の基底にある『認識の糸』あるいは『根底知』と解されています。

エピステーメーがもしこのような意味だとすれば、当ブログの求めている「時代識知(savoir de l'époque)」にごく近い概念のようにも思えます。

だが、細かく読み返してみると、必ずしもそうとはいえないようです。

40年前の1970年代、筆者もまた『言葉と物』の翻訳書を初めて読んだ時には、「エピステーメー」という、斬新な発想に大変共感を覚えたものでした。

それゆえ、続いて出た『知の考古学』には、エピステーメーの具体的な変遷を期待したのですが、それは見事に裏切られました。


この本の内容は概念的な論説に始終しており、実際にそれが通時的にどのように変わってきたかという、考古学的な考察はほとんどなされていなかったからです。

これでは『知の考古学』というタイトル自体が無理なのではないか、とも思ったものでした。

そんなわけで、エピステーメーによって「時代識知」を捉えようとすると、次のような限界が浮かび上がってきます。

 超長期の変化を捉えられるのか
エピステーメーは、主として17~18世紀以降の学問や文化の推移を対象にした考察や分析から生まれた用語や概念です。中世や古代、さらには原始社会までを連続的に把握するには、かなり不安が残ります。

言葉以前の表象活動をどこまで捉えられるのか。

「さまざまな言説的実践を統一しうる諸連関の総体」である以上、言説とは別の次元に現れる表現行動や精神活動などは把握できないのではないでしょうか。

パラダイムに比べ長所・短所が残る。
トーマス・クーンの「パラダイム」と比べると、エピステーメーの対象は科学一般から博物学、哲学、経済学など諸学問に広げられていますが、時間的な視点になると逆に狭まり、主に17~18世紀以降におかれています。

となると、「エピステーメー」という用語にも、超長期的な「時代識知(savoir de l'époque)」の変容を意味させるのは、やはり荷が重いのではないか、と思います。