2016年7月30日土曜日

第4次情報化の時代③

江戸時代も中期(1730~1800年)は、集約農業文明が農産物増産や築城・土木技術が主導したハード拡大時代から、印刷や出版が中心のソフト深耕時代へと移行していった時代でした。

これによって、瓦版、貸本屋、地本、絵草紙屋などが広がり、社会的な関心は知識や情報へと大きく傾斜していきます。その成果を豊穣な事例によって振り返っておきましょう。



国学者でいえば、賀茂真淵が「万葉考」(明和5:1768年)を書き、本居宣長が「古事記伝・上巻」(安永7:1778年)や「玉くしげ」(天明7:1787年)を著しています。また文献学者の塙保己一が「群書類従」(天明2:1782年)を刊行しました。

蘭学系でも、博物学者の平賀源内が「物類品隲」(宝暦13:1763年)を、蘭方医の杉田玄白・前野良沢らが「解体新書」(安永3:1774年)を、そして仙台藩医の工藤平助が「赤蝦夷風説考」(天明3:1783年)を、経世論家の林子平が「三国通覧図説」(天明5:1785年)や「海国兵談」(天明6:1786年)などを刊行しています。

文芸分野では、柄井川柳が「俳諧柳多留」を明和2年(1765年)に創刊し、恋川春町が最初の黄表紙「金々先生栄花夢」(安永4:1775年)を出して大当たりをとりました。

また京都では上田秋成が「雨月物語」(安永5:1776年)を、与謝蕪村が「春風馬堤曲」(安永6:1777年)をそれぞれ刊行しました。

狂歌では大田南畝が御家人グループの中核となって「目出度尽し」の天明狂歌を流行させ、俳諧でも大名や富豪たちが後ろ楯となって、江戸風に洗練された「江戸座」を広げました。
この時代に定着した歌舞伎では、近松半二が「本朝二十四考」(明和3:1766年)、「近江源氏先陣館」(明和6:1769年)、「伊賀越道中双六」(天明3:1783年)を、奈河亀輔が「伽羅先代萩」(安永6:1777年)や「加賀美山廓写本」(安永9:1780年)を書いて、それぞれ上演されています。

絵画では、明和2年(1765年)、浮世絵師・鈴木春信が錦絵(多色刷り浮世絵)を創始し、大和絵系では伊藤若沖が「動植綵絵」(宝暦7~明和3:1757~1766年)や「雪中鴛鴦図」(宝暦9:1759年)を、円山応挙が「雪松図」(明和2:1765年)をそれぞれ完成させています。
若沖の「動植綵絵」は、鳥、鳳凰、草花、魚介類などを、多様な色彩と異形な形態で織り成す、華麗な作品群です。綿密な写生に基づきながらも、幻想的な雰囲気を漂わせており、モノが溢れる中で心がコトに執着していくという、宝暦・明和期の気分を見事に象徴しています。

これらの社会・文化的状況は、寛政の改革によって中断されますが、その後の文化・文政時代に華々しく復活し、やがて次の工業現波を受け入れる基盤を醸成していきます。

情報の蓄積が新たな文明を醸成する。・・・これこそ第4次情報化時代の歴史的な意味だった、といえるでしょう。

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2016年7月24日日曜日

第4次情報化の時代②

農業後波が停滞した江戸中期の社会(1730~1800年)は、第4次情報化ともよびうる社会でした。

当時の文明の中核は、水田稲作を中心とする集約農業文明でしたが、その基本は次の2つに要約できます。

農業文明が基盤・・・地上に降り注ぐ太陽エネルギーを、農耕や牧畜によって意図的に動植物の体内に蓄積させたうえ、人間生活を維持するエネルギーへと変換する文明

農業文明の集約化・・・粗放的な農業文明を、品種・農具の改良などによる農業技術の向上と土木・灌漑技術による農耕地の拡大によって、より高度化した文明

この2つを中核とする集約農業文明は、日本列島の人口容量を1730年前後に約3250万人まで伸ばしましたが、そのあたりが限界であったようで、以後の人口は停滞・減少していきます。

つまり、集約農業文明はハード面では限界に達したということです。しかし、ここで発展がとまったというわけではなく、以後はソフト面でなおも発展を続けます

その中核が製紙技術と木版印刷でした。



製紙技術でいえば、農耕技術の総合的な進展と並行して、和紙技術が急速に発展しました。すでに戦国時代、群雄割拠した戦国大名衆はそれぞれの文通手段を確保するため、和紙の生産を奨励していました。

江戸時代に入って世の中が安定してくると、文通・読み書き需要の拡大に伴って、従来からのガンピ(雁皮)に加えてミツマタ(三椏)などの新原料による製紙が普及し始め、生産量も急増しました。

もう一方の印刷技術も、社会が安定した寛永期(1624~1645)のころから、築城や寺院建築などで培われた、高度な木材加工技術を応用して、わが国独自の木版印刷が進展してきます。

この技術を用いて摺物(すりもの)が広がり始めると、江戸・大坂・京都の三都を中心に書物問屋、地本問屋、貸本屋が急増しました。


それぞれの店頭では、武家や僧侶など知的階層向けに、仏教、歴史、伝記、暦、医学書、漢籍、教養書、医術書などの専門的な書物も拡大しました。

また庶民向けには、草双紙、人情本、細見(案内書)、狂歌絵本、洒落本、音曲正本、歌舞伎絵本など、文字本はもとより、挿絵入りの摺物も広がりました。

このような印刷文化を可能にしたのは、表現上の制約の少ない、江戸型の木版印刷技術でした。明和期(1764~1771)になると、多色刷りによる東錦絵(浮世絵版画)へと進展し、それと並行するように、多色刷りの書物も急増しました。

以上のように、集約農業文明は人口容量の限界に突き当たると、農産物増産や築城・土木技術が主導したハード拡大時代から、一転して印刷や出版が中心のソフト深耕時代へと移行していったのです。

これこそ第4次情報化の真相といえるでしょう。


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2016年7月13日水曜日

第4次情報化の時代①

農業後波が停滞した江戸中期の社会(1730~1800年)は、第4次情報化ともよびうる社会でした。

当時の社会を支える技術の中核が、物質的拡大よりも情報的充実の方へ向かっていったからです。

先に述べたように、農業後波の人口容量を作りだしたのは、集約農業技術でした。

その内容については、別のブログ(
平成享保のゆくえ・集約農業技術)で詳しく述べていますので、ここでは要点だけを整理しておきましょう。

農業技術の向上・・・水田や畠の二毛作化、肥料の多様化と拡大、稲の品種多様化、牛馬耕作の開始、鳥獣駆除の進展、農具の改良など。

農耕地の拡大・・・新田の開墾・拡大、水利・堤防技術の向上など。

この2つの技術は、鎌倉・室町時代に育まれましたが、戦国時代に入ると、領主間の競争的な関係の中で急速に発展していきます。

常に勢力拡大をめざす戦国領主は、自分の領地内で食糧生産を最大化するため、武具作りで発展した製鉄技術を農機具へ、あるいは砦や城造りで発達した土木・建築技術を水利・開墾へと、競い合うように応用していきます。


こうして進展した集約農業技術は、江戸幕府の成立による社会的安定化で、日本列島の隅々にまで浸透し、それに伴って人口容量を3倍へと拡大させました。

しかし、17世紀末から18世紀初めになると、この技術もまた物理的限界に達したため、人口容量を伸ばすことが次第に困難になってきました。

その結果、18世紀の技術開発は、物理的拡大よりも情報的充実へ向かっていきます。

こうした意味で、江戸中期とは、石器前波の情具(第1次情報化)、石器後波の情具(第2次情報化)、農業前波の製紙技術(第3次情報化)に続く、第4次情報化の時代であったといえるでしょう。

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