2016年3月29日火曜日

人口減少社会・日本の先例・・・農業前波の停滞期

3番目の事例が、農業前波の後半、900~1200年の約300年間です。この時期の人口は減少までは至らず、ほぼ横ばいの停滞状況を続けています。その背景を考えてみましょう。

農業前波とは、紀元前500年から西暦1200年ころまで、歴史学の区分では弥生時代から古墳、奈良、平安時代を経て、鎌倉時代に至る約1700年間の波です。


前500年ころの自然環境は、平均気温が現在より1度ほど低く、やや冷涼で湿潤な気候でした。そうした環境の中で、日本列島の縄文人は少しずつ進歩を重ねて「縄文系弥生人」へと移行していましたが、それに加えて、動乱の続く大陸や半島から「渡来系弥生人」が流入し、両者が混合して「弥生人」という、新しい日本人が形成されました。

この人々は「粗放農業」という新たな文明によって、最終的には700万人の人口容量を作りあげていきます。

粗放農業文明の中核は2あり、1つは初歩的な水田水稲技術を中心に金属器技術や土木技術を含む、いわゆる「弥生文化」、もう1つはそれらを定着させ、かつ安定させた「統一国家制」でした。

このうち、水田稲作技術は遅くとも縄文時代晩期から紀元前3~2世紀の間に北部九州地方に伝わり、瀬戸内海から陸路を通って、西暦100年ころまでに伊勢湾地方から関東地方へ、さらに日本海に沿って東北地方の北部にまで到達した、と推定されています。

水稲技術の伝播に伴って、日本列島の人口容量は〔自然環境×粗放農業文明〕の極限にまで拡大が可能になりました。石器・土器技術と比べて、水稲技術は自然変動への対応力がはるかに優れていました。稲作自体の生産性も天候や気候に影響されますが、耕地の拡大や品種の改良などで、それらに対抗する手段を幾つか持っていたからです。

一方、統一国家制度は、中国大陸の進んだ制度を積極的に導入する形で進展しました。当初、多数の小国に分かれて倭国大乱を続けていた弥生人たちは、3~5世紀に大陸や半島の先進国家を見習って、統一国家をめざようになります。

4世紀後半から6世紀初頭に大和盆地に統一王権が成立すると、いわゆる「大和朝廷」へと発展しました。大和朝廷は645年、大化改新によって、中国の制度に習った律令国家制度へと踏み切り、701年の大宝律令の施行で、公地公民を基礎とする中央集権国家を達成しました。

統一国家の出現により、農地の開墾や生産性の向上が促進された結果、農業前波の人口は安定的に増加し、飛鳥・奈良・平安前期までは伸びましたが、平安時代後期に700万人を超えたあたりから停滞し始め、鎌倉時代までほぼ横ばいとなっていきます。

おそらく、このあたりが農業前波の人口容量の限界であったと思われます。

2016年3月21日月曜日

“情具”の重視が人口を減らした?:

日本列島の新石器人(=縄文人)は、狩猟採集・可食範囲を拡大した土器・漁労を3本柱とする縄文文明の応用によって、列島の人口を26万人にまで伸ばしました。しかし、紀元前2000年を過ぎると、自然条件の悪化に触発されて、それ以降は急速に人口を低下させていきました。

このような推移から、人口容量と人口実数の関係については、さまざまな推測ができます。もっとも、実証するだけのデータがありませんので、あくまでも仮説として、次のような背景が考えられます。

ある時代・ある空間の人口は、人口容量(自然環境×文明)の上限までは増加していきますが、上限に達した後は、人口抑制装置の作動によって減少していきます。

縄文時代についても、気温の低下とともに人口容量そのものが低下し、それに比例して人口そのものも減少した、と推測できます。

もっとも、平均気温の低下は-2~-3°であり、現在より-1~-1.5°程度であったと推定されています。もしその程度であれば、数千年の間にすでに高度な水準に達していた縄文文明は、なおそれを補って、容量をある程度維持させる可能性があったのではないでしょうか。

だが、それができなかった。一体なぜだったのか、次の3つの仮説が考えられます。

①狩猟採集・可食範囲を拡大した土器・漁労を基礎とする縄文文明では、どれだけ高度化しても、気温低下への対応力が弱かった

②対応力はあったものの、高度化の方向が精緻化へ向かっていたため、環境変化の影響を覆せなかった

③人口容量の極限をすでに味わっていた縄文人たちは、環境悪化にも関わらず、それ以上の物量的拡大を望まず、縄文文明を情報的充実の方へ向けていった。

3つのうち、どれが当たっているのか、現在のところ実証するまでに至っていませんが、筆者としては③に共感を覚えます。その理由は次のようなものです。

一定の人口容量(自然環境×文明)の下で生きられる人口は、人口容量/一人当たりの生活水準 で決まります。


人口容量が拡大する時には、一人当たり水準が上がっても、容量にゆとりがありますから、人口は増え続けます。

だが、満杯になった社会で、なお一人当たり水準が上がっていけば、容量には余裕がなくなり、人口は減ります。

つまり、一つの文明のもとで、物質的豊かさを一度享受した人々は、もしそれが崩れてきたとしても、その水準を落とすことを嫌いますから、ゆとりはますます減って、もはや人口が増えることはりません。

いいかえると、人口容量のピークを過ぎた時代の人々は、人口容量の回復よりも、むしろ精神的・情報的豊かさの方へ傾斜、あるいは逃避していく、ということかもしれません。


人口減少期に急増した、火炎型土器、土偶、岩偶、儀礼的な弓など“情具”の重視は、実用的な土器や狩猟・漁労具といった“用具”の改善・改良を諦め、あるいは後回しにしていった結果ではないか、と思えるのです。そして、それこそが人口抑制装置の作動を意味している、と思います。


未熟な推理ですが、こうした構造の中に、人口減少社会の本質が潜んでいるような気がします。

2016年3月8日火曜日

縄文文明も用具から情具へ!

石器後波が下降過程に入った要因には、自然条件人為的条件の両方が考えられます。

自然条件でいえば、前3000年以降、気候最適期が終って寒冷・湿潤化が徐々に進み、前2000年ころの平均気温は現代とほぼ同じ水準になりました。

他方、人為的条件では、縄文文明そのものが中期以降、生産を拡大する方向から外れていったのではないか、と推定されます。

当時の社会では、食物獲得技術で培われた基本的な知識や技術を、彼らの生活の隅々に浸透させていました。一方では、定着的な生活拠点である集落の形成、木製品の加工、漆工芸の拡大、アク抜き処理技術の発達などの生活技術の高度化、他方では宗教的目的のための大規模な土木建造物の構築などに向けています。

ところが、自然条件が悪化するに従って、技術の方向は生産力を維持する方向には向かわず、むしろ非実用的な道具(情具)、例えば高度な文様と奇抜なデザインの火炎型土器、装飾性の強い土偶や岩偶、黒や朱の漆を塗った儀礼的な弓、彫刻の施された櫂といった方向へ傾斜していきました。

それはまさしく、石器文明の最高段階である「成熟せる採集社会」(佐々木高明)を出現させるものでしたが、逆にいえば、もはや生産力の拡大をもたらすものではなく、むしろ非生産的な部分の肥大化に向かうものでした。石器前波の後半と同様、用具(実用器)より情具(心理器)の比重を高めたのだ、ともいえるでしょう。

それゆえなのか、後期~晩期の縄文社会は、自然環境の悪化に対抗するだけの力を失いました。というより、気候の悪化に触発される形で、自ら人口容量の拡大を放棄し、拡大型社会から濃縮型社会へ転換していったものと思われます。