2016年5月31日火曜日

4番めの壁とは何か?

農業後波の停滞・減少要因として、3つの原因が考えられます。

第1は農業生産の飽和化です。
速水融の推計(「概説一七―一八世紀」『日本経済史1 経済社会の成立』所収)によれば、実収石高は1700年の3063万石から1730年の3274万石へ211万石増えたものの、17世紀の年間伸び率0.32~0.56%に比べると、0.22%へ低下しています。

耕地面積も1700年の2841千町から1730年の2971一千町へ130千町増加したものの、17世紀の年間伸び率0.26~0.38%に比べると0.15%へほぼ半減しました。

つまり、耕地の拡大と労働集約的・土地節約的進歩で急速に発展してきた集約農業は「17世紀末から18世紀初めのころになると、天井に到達するようになっていた」のです。



第2は気象の悪化です。
18世紀後半は著しい寒冷期となり、大飢饉が連続して発生しました。

1755年の宝暦の飢饉、74年の安永の飢饉、82~87年の天明の飢饉などは、いずれも夏季の気温低下が引き起こした冷害でした。

当時の集約農業技術は、粗放農業技術に比べてかなり高度化しており、通常の気候不順には十分に耐えられる水準にありました。

だが、もともと亜熱帯性の植物である稲を東北地方にまで普及させていましたから、気候が良好な時はともかく、大規模な気候不順が発生すると、その被害は甚大なものになったのです。
 
第3は貨幣経済化の急進と限界です。
17世紀末から18世紀初頭にかけて、貨幣経済が全国に浸透すると、それまで自給経済に閉じ込められていた農村部でも、各地の特産物を中心に商品生産が開始され、富裕な農民層が出現してきます。

だが、こうした農村の商業生産化は、年貢収入の停滞や減少、物価の上昇を引き起こして、領主層の財政を悪化させたり、零細農民の一揆を招きました。

一方、都市部、とりわけ江戸では商業経済の急拡大で物価が高騰し、町人の打毀し起こったため、徳川幕府は強力な物価統制に踏み切り、1724(享保9)年の物価引下げ令、18~24年の株仲間結成の公認など、新たな商業統制に追い込まれていきます。

貨幣経済の波は幕府財政にも波及し、収支を急速に悪化させました。貨幣による出費が年々増える一方で、財源が減少したからです。

18世紀には鉱山からの金銀の採掘量が湧水対応や通気技術の停滞で次第に低下し、19世紀半ばには銅の採掘量も最盛期の3分の1まで落ちました。

また幕府の年貢率も17世紀の六公四民~五公五民から、18世紀には四公六民まで低下しました。その結果、幕府財政は慢性的な赤字に陥りました。

以上のように、貨幣経済は米を基準とする石高経済を越えて、新たな経済構造を作り出しはしましたが、他方では農村の疲弊、階級格差の拡大、飢饉被害の増幅、一揆や打毀しの頻発などを引き起こしたのです。

これら3つの原因が重なって、当時の人口は1730年代から減少し始め、1790年前後には3000万人を割るところまで落ちていきます。

これこそ4番目の人口波動、つまり農業後波の飽和化という、4番めの壁だったのです。
 
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2016年5月18日水曜日

人口減少社会・日本の先例・・・農業後波の減少期

日本の人口減少社会の様相を、石器前波、石器後波、農業前波の、それぞれの減少・停滞期で見てきましたので、4番目は農業後波の減少です。

4番めの波は、西暦1200年頃から1800年に至る「農業後波」で、歴史学の区分では、鎌倉時代中期から室町・安土桃山時代を経て江戸時代中期に至る約600年間です。

この時期の気候をみると、15世紀から19世紀中葉にかけての平均気温は現在より1~2度低く、とりわけ18世紀は小氷期とよばれるほど低温でした。

それにもかかわらず、再び人口容量が拡大できたのは、当時の人々がわが国独自の方法で水田稲作技術を高度化させ、新たに「集約農業文明」ともいえる文明を成立させたからです。

この文明では、集約農業技術の発展貨幣経済の進展大名の領地支配の3要素が基軸となっています。


3要素が絡み合って、1200年ころから徐々に増え始めた農業後波の人口は、1600年ころから急上昇に転じ、江戸中期の1730年前後に約3250万人でピークを迎え、その後は減少していきます。

詳しくは拙著『人口波動で未来を読む』や『日本人はどこまで減るか』などの中でで説明していますので、以下では要点だけを述べていきます。



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2016年5月14日土曜日

第3次情報化の時代:粗放農業技術は大建築から製紙へ!

農業前波の停滞期であった、900~1200年の約300年間は、技術の分野でも大きな変化が見られた時代でした。

水稲技術を中核に灌漑、開墾、土木、建築などを中心に進展してきた粗放農業文明は、人口容量の限界に突き当たると、その中核は豪壮な寺院建築から優美な寝殿造りや簡素な武家造りへ、あるいは生産技術から情報技術へと移行していきます。

建造物でみると、人口増加期である飛鳥~奈良時代には、中国大陸や朝鮮半島やから伝来した技術を応用して、飛鳥寺、四天王寺、法隆寺、薬師寺、東大寺など、巨大で豪壮な「唐様」寺院が建てられていました。

しかし、人口容量の制約が強まった、平安時代の中期以降になると、優美で穏やかな「和様」様式が登場し、平等院鳳凰堂や法界寺阿弥陀堂などの寺院や、東三条殿を代表とする寝殿造の公家邸が造られるようになります。

平安末期には厳島神社の大規模な社殿が造営され、また鎌倉初期には中国の影響を受けて、東大寺大仏殿や南大門の再建など、一時的に豪放な建物が造られましたが、その影響は広がらず、むしろ質実剛健を旨とする禅宗寺院や出家僧や隠遁者が侘び住まう草庵など、精神性の高い簡素な建物が広がってきます。

こうした建造物の濃縮化と相携えて、製紙技術もめざましい進展を遂げます。

6世紀半ば、大陸や半島から伝わってきた製紙技術は、平安京遷都直後の大同年間(805~809年)に設立された、官立の製紙工場「紙屋院」で「流し漉き」に進展し、和紙が大量生産されるようになります。

この和紙を使用して、華麗に開花したのが物語・日記・随筆・説話などの国風文学であり、同時に絵解き文化として『源氏物語絵巻』『伴大納言絵巻』『信貴山縁起』『鳥獣人物戯画』という四大絵巻に発展していきます。


このことは、同時代の人々の関心が絵と詞で巧みに表現される情報に傾いたことを示しています。


おそらく彼らに取って、絵巻の登場はテレビの出現に匹敵する大事件だったでしょう。農業前波の停滞期とは、まさに第3次の情報化時代だったのです。

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