2016年2月26日金曜日

新石器文明=縄文文明の特徴とは?

石器後波は新石器文明(日本列島では縄文文明)によって創られた人口波動です。この文明の特徴として、つの事象をあげることができます。

① 細石器を進化させて、弓矢の使用を始めたこと。これによって、狩猟技術が飛躍的に進歩し、食糧資源が拡大しました。

② 石器に加えて土器の使用を始めたこと。いわゆる縄文土器ですが、この使用は、生食不可能であった植物性食物の多くを煮炊きによって食べられるようにしたうえ、栄養的かつ衛生的にも食生活の水準を上げました。

漁業の開始。各地の貝塚が示しているように、この時期には海産物の採集、つまり漁撈が開始されています。これによって、陸上に限られていた食物獲得が海水水産資源へ広がり、魚類、貝類、海藻類なども食物に加わってきました。

3つの技術開発が食糧環境を急速に安定させ、人口容量を一気に拡大させ、前1万年ころからいわゆる縄文時代が始まったと推定されます。

早期から前期にかけて徐々に増加した石器後波の人口は、縄文文化の高度化とクライマティック・オプティマム(気候最適期)とよばれる自然環境に支えられて、前3000~前2000年ころに人口26万人のピークを作りだしました。

ところが、前2500年を過ぎるあたりから、成長・拡大にやや翳りが見え始め、前1200年ころには16万人に急落しました。この背景には一体何があったのでしょうか?

2016年2月16日火曜日

人口減少社会・日本の先例・・・石器後波の減少期

2番目の事例が、石器後波の紀元前2000年から前500年に至る約1500年間です。

石器後波とは、前1万年から前500年に至る波で、考古学や歴史学の時代区分では縄文前期から晩期にあたる約9500年間に相当します。
 当時の人口推移については、文化人類学者の小山修三が、早期(前8000~前4000年)28万人、前期(前4000~前3000年)11万人、中期(前3000~前2000年)26万人、後期(前2000~前1000年)16万人、晩期(前1000~前500年)8万人、弥生時代60万人と推計しています(『縄文時代』)。
石器後波が生まれた、基本的な背景は次の3つです。

気候の変化・・・最終氷期が終った紀元前1万3000年ころから、気温が上昇し始め、これに伴う海水面の上昇で、前1万1000年ころに日本列島は大陸から切り離されて、ほぼ現在の地勢となりました。

縄文人の誕生・・・自然環境が変化する中で、列島の旧石器人は大陸人の特徴を温存しつつも、内外から幾つかの影響を受けて、縄文人に進化しました。

縄文文明の成立・・・縄文人は従来の旧石器文明を発展させて、列島独自の新石器文明、つまり考古学でいう「縄文文化」を作りだしました。文化と文明の区別については諸説がありますが、ここでいう文化は文明とほぼ同義語として使われていますから、「縄文文明」とよぶことにします。

気候の変化、縄文人の誕生、縄文文明の成立の3つが絡まって、前1万年ころから始動した石器後波の人口は、前3000~前2000年にピークに達した後、急減していきます。

その時代の社会はどのようなものだったのでしょうか。

2016年2月9日火曜日

用具から情具へ!

一つの人口波動を生み出す文明は、前半は人口容量を拡大させますが、後半により高度な段階に達すると、もはや容量の拡大よりも技術そのものの精緻化や言語化(情報化)の方向へ向かっていく、と述べてきました。

前半は用具(実用器=利器や武器など)が中心になりますが、後半になると情具(心理器=儀器や祭器など)が増えてくる、ということです。

実際、日本列島の石器前波では、後半の約2万年前頃の遺跡から、さまざまな儀器祭器が発掘されています。

① 耳取ビーナス

鹿児島県曽於市・耳取遺跡・約2.4万年前・・・頭部や手足を省略したイメージで、女性像を線刻した石器

② こけし形石偶

大分県豊後大野市・岩戸遺跡・2万年前・・・頭部と体を表す形態で女神像を表現した石器

③ 女神石

愛媛県美川村・上黒岩岩陰遺跡・1.2万年前・・・乳房などで女神像のイメージを線刻した石器
旧石器という文明もまた、実用器から心理器へ利器から心器へ、つまり用具から情具、というプロセスを踏んでいるのです。

人間にとって、文明とはモノの拡大をもたらすとともに、ココロの進化をもたらすものといえるでしょう。