ポスト黒死病の時代特性を、ラストミドルのヨーロッパをモデルとして、社会的混乱と革新的動向の、2つの面から眺めています。
今回はまず社会的混乱。
①教会大分裂(1378~1417年) 黒死病(1347~51年)が蔓延する前の1309年から、ローマ教皇クレメンス5世はフランスのアヴィニヨンに幽囚されて、神聖ローマ帝国に侵略されたローマには帰れない状態が続いていました。 黒死病の蔓延で幽囚が膠着しましたが、ようやく終息した後の1377年、教皇グレゴリウス11世はローマへ戻りました。 しかし、翌年没したため、1378~1417年の間、ローマ教会にはアヴィニヨンとローマに教皇が並び立つという大分裂となって、その権威は次第に失墜しました。 ②英仏百年戦争(1339~1453年) 14世紀初頭から地球の平均気温低下、つまり小氷期が始まり、19世紀半ばまで続きました。寒冷化の影響で、ヨーロッパでは飢饉が頻繁し、1315~17年に150万人もの餓死者が出ています。 飢饉が進む中で、1339年、イギリス王家とフランス王家が領土問題や国王継承権などを巡って抗争を始め、黒死病が収まった後の1360年に一旦は講和が成立しました。 しかし、1369年から再び戦乱が始まり、休戦、再戦を繰り返して、1453年の終結まで、ほぼ百年の間、戦争を続けました。 要因の一つは、①で述べたように、王侯間の調停役を務めていたローマ教皇が、アヴィニヨン幽囚や教会大分裂で、まったく介入できなかったためです。 ③英・仏農民反乱(1358年、1381年) 百年戦争による社会的混乱に加え、黒死病の流行によって、農民人口が激減すると、労働力不足に悩んだ領主層は農民の移動の自由を奪って、再び農奴制を強化しようとしました。 そこで、農民層は農奴解放による自由を求めて、フランスでは1358年にジャックリーの乱、イギリスでは1381年にワット=タイラーの乱など、農民反乱を勃発させました。 二つの反乱は間もなく鎮圧されましたが、この動きが農民一揆として長期的に継続するにつれて、農奴から解放され、自由を獲得した自営農民層が次第に増えていきます。 それとともに、貨幣所得の上昇に促されて、農村から都市へと移動する農民層も増加し、中世的な村落共同体は次第に解体されていきます。 |
以上で見てきたように、黒死病の大流行によって、すでに綻びの目立ち始めていた、農業後波のヨーロッパ社会は、その限界をいみじくも露呈させたといえるでしょう。