2016年8月26日金曜日

加工貿易文明で1億2800万人へ!

「富国強兵」体制によって、日本列島の人口容量は7300~7500万人台に達しましたが、太平洋戦争の敗戦で一旦は停止に追い込まれました。

ところが、1945年以降、人口容量は再び増加していきます。それを可能にしたのは、ハイテク化、日本型資本主義化、グローバル化の3要素を基盤とする「加工貿易国家」という新しい体制の登場でした。

この変化は、「富国強兵国家」から「加工貿易国家」へと、国家目標が一変したかのようにみえますが、必ずしもそうではありません。

工業現波の後半の「加工貿易国家」は、前半の「富国強兵国家」が形を変えて達成されたものでもあり、目標達成のための基礎的な要素はほとんど変わっていないからです。

つまり、「加工貿易国家」を支える基盤は、明治以来の文明開化、殖産興業、脱亜入欧の3大政策を、形を変えて継承したものです。



① 文明開化は戦後、アメリカ型ライフスタイルを目標とする生活構造やそれを支える西欧文明への強い憧れとなって、欧米型科学技術の導入に一層拍車をかけました。その結果、80年代後半までに、日本は世界最先端の応用型科学技術を誇るハイテク国家に成長しました。 

② 殖産興業も、戦後はアメリカ型経済・経営システムを導入し、それを基盤に独自に改良を加えた日本型市場経済や日本型経営システムを創りだしたことで、世界に冠たる経済力を誇るようになりました。

③ 脱亜入欧は、アジア諸国の目覚しい発展によって「入亜」あるいは「協亜」に変わりましたが、加工貿易体制を維持、拡大していくためには、アジア、欧米はもとより、世界各国と外交や通商を行なうグローバル化が必要、という姿勢に継承されています。

以上のように、戦前の3要素は、「文明開化」は「ハイテク化」へ、「殖産興業」は「日本型市場経済」へ、「脱亜入欧」は「グローバル化」へとそれぞれ戦後に引き継がれています。

そして、この3つに支えられた「加工貿易文明」によって、戦後のわが国は約1億2800万人の人口容量を構築することに成功しました。

つまり、資源・エネルギーを輸入して高付加価値の工業製品を製造し、それらを輸出した収益で食糧・資源を購入する、という体制を作りだし、完全な自給自足であれば7500万人程度の人口容量を約1億2800万人へ、ほぼ2倍にまで拡大したのです。









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2016年8月19日金曜日

富国強兵体制で7300~7500万人へ

工業現波を作りだしたのは、工業技術、日本型資本主義、国際交流を基本とする「加工貿易文明」でした。

この波の前半では、3要素の前段階として、文明開化殖産興業脱亜入欧を支柱とする、いわゆる「富国強兵」国家がとりあえずは人口容量を増やしました。

第1の文明開化とは、欧米の先端的な生活様式や科学技術を可能な限り導入しようとするもので、基礎科学、基盤技術、産業技術の3面でめざましい成果をあげました。

同時にこれらの技術を応用して農業生産も大きく変貌し、土地改良、肥料の増投と施用法、品種改良、農具の改良・普及などで、国内の食糧生産量を著しく拡大させました。

第2の殖産興業政策とは、西欧の市場経済システムを導入して、近代国家にふさわしい新たな産業を興そうとするもので、これまた短期間に産業革命なしとげました。

1870年代に欧米の制度を導入して生み出された〝会社”という組織は、90年代の日清戦争前後に繊維・紡績工業を中心とする軽工業部門と、政府主導による鉄鋼業などの重工業部門に分かれて、それぞれ産業革命をなしとげます。

1900年代初頭の日露戦争の後、造船、金属、機械工業などへも波及し、10年前後に全産業での革命を達成しました。

第3の脱亜入欧とは、当時、後進地域であったアジアを脱し、先進地域であるヨーロッパの国々と肩を並べよとするもので、鎖国体制が終わった後の国際感覚を明確に示しています。

この3つに支えられた「富国強兵」国家は、明治、大正、昭和前期と順調に人口容量を伸ばし、7300~7500
万人に達しましたが、1940年代に至って太平洋戦争の敗戦により一旦は停止に追い込まれました。






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2016年8月10日水曜日

人口減少社会・日本の未来・・・工業現波の減少期に向かって

日本列島における人口減少社会の様相を、石器前波、石器後波、農業前波、農業後波の、それぞれの減少期について見てきましたが、5番めは私たちの直面している工業現波、その減少期です。

(詳細については拙著『
人口波動で未来を読む』や『日本人はどこまで減るか』で詳説していますので、以下では要点を書くことにします。)

5番めの波は、西暦1800年前後から現代を経て21世紀の後半に至る人口波動です。



歴史学の区分では、江戸時代後期から明治・大正・昭和の3代を経て、平成から21世紀に至る約250年間に相当します。

この波動の開始当時、気候はなお寒冷化へ向かっていました。それにもかかわらず、人口容量が拡大し始めたのは、この時期に始まった初期的な工業化(プロト工業化)のおかげでした。

西日本の有力諸藩、いわゆる西南雄藩では、すでに17世紀中葉から西欧の科学技術を導入していましたが、18世紀に入るとそれらを積極的に応用して、都市や農村で手工業を拡大させました。

この動きは次第に瀬戸内海周辺や近畿地方へも波及し、さらには東国へも伝播しました。


それに伴って人口は徐々に拡大し、1830年前後には3263万人と農業後波のピークを超え、明治維新前後には3540万人へ達します。

維新後になると、初期的な工業化は本格的な工業化へと進み、間もなく「加工貿易文明」へと発展していきます。

この文明は、西欧から導入された近代的な工業技術を基礎に、日本型資本主義国際交流体制を加えた、3つの要素からできあがっていました。


以下では、その形成過程と飽和過程を眺めてみましょう。

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