2019年6月22日土曜日

「識知」と「認知」の差を考える!

識知」という言葉は、1970年代から日本の思想界で使われてきました。

最近では類似の言葉として、「認知」が多用されています。

両者はどのように違うのでしょうか?

人間が周りの環境世界を理解する場合、すでに【
人類は世界をどのように理解してきたのか?:2019年3月24日】で述べていますが、「身(み)分け」という網と「言(こと)分け」という網の、2つの網の目を通して対応しています。

身分け」の網とは、人間が自らの本能という「網」の目によって、周りの外界を理解した世界像、つまりヒトという「種」に特有のゲシュタルト(Gestalt:部分の集まりを越えた、全体的な構造)を意味しています。

言分け」の網とは、人間が「身分け」の網の上に、もう一つ「シンボル化能力とその活動」、つまり広い意味でのコトバ(言語)を操る能力によって生みだされる、もう一つ別の外界像「コスモス:cosmos」を示しています。

このように、人間はまずは本能・感覚の網で世界をつかみ取り、さらにもう一度、コトバやシンボル(絵や形)の網によって世界を捉え直しています。

いいかえれば、私たちは生物次元の「身分け」構造と、人類次元の「言分け」構造の“二重のゲシュタルト”によって、周りの外界を把握しているのです。

この二重構造から「知」と「知」の差異が生まれます。






図に示したように、まず周りの物質的世界の「物」は、人間自身の「身分け」能力の作動によって、本能や感覚が捉えた限りでの「モノ」として理解されます。

この理解こそ「」です。

他の動物でも、それに特有の「認知」能力によって、それぞれの「モノ」的世界を理解しています。

一匹の狐は視覚や聴覚などの捉えた情報をもとに、餌や天敵や逃げ道などを理解していますが、まさしく動物次元の「認知」能力です。

ところが、人間はこのように理解した「モノ」的世界を、彼ら特有の「言分け」能力によってさらに捉え直し、コト」として理解しています。

この理解こそ「知」です。

一人の人間は食用植物や大風や蝉の声を「貢物」や「神風」や「初夏」として理解していますが、これこそ人間次元の「識知」能力です。

他の動物でも、それぞれの「身分け」能力に加え、種特有の方法でさらに環境世界を嗅ぎ分ける能力を持っている可能性も考えられますので、人間に特有のそれが「言分け」能力である、ともいえるでしょう。

このように人間という動物が、「知」+「知」という、二重の知覚処理能力によって周りの環境世界を理解している以上、両者を分けて考えることが必要となります。

今回はとりあえず、「認知」と「識知」の基本的な違について考えてきましたが、この視点をベースとすると、「識知」という概念にはさらに幾つかの特性が考えられます。

2019年6月13日木曜日

「識知」という言葉を誰が使ったのか?

5つの人口波動を創り出した、時期別の環境観や世界観を一言で表現する言葉として「時代識知」を提唱したいと思いますが、「識知」とは何を意味するのでしょうか?

最初に検討すべきは「認知」と「識知」の違いです。

人間が周りの環境世界を理解する言葉として、通常使われているのは「認識」や「認知」でしょう。

辞書(大辞林 第三版:三省堂)によると、哲学や心理学では、次のように説明されているようです。

認識】・・・〘哲〙〔cognition; ドイツ erkenntnis〕 人間(主観)が事物(客観・対象)を認め、それとして知るはたらき。また、知りえた成果。感覚・知覚・直観・思考などの様式がある。

認知】・・・〘心〙〔cognition〕 生活体が対象についての知識を得ること。また、その過程。知覚だけでなく、推理・判断・記憶などの機能を含み、外界の情報を能動的に収集し処理する過程

これらの言葉は、欧米語の翻訳語として、近代日本に定着したものです。

一方、「識知」という言葉については、他の辞書(精選版 日本国語大辞典:小学館)で次のように解説されています。

識知】・・・〘名〙知ること。認めること。

識知のおよばざるより同生して、識知のおよばざるを住持し、識知のおよばざるに実帰す。(正法眼蔵:1231~53年、巻:神通)

これを見ると、「識知」という言葉は一般的ではなく、仏典のような、ごく特殊な分野で使われているようです。


しかし、日本の思想界では、1970年代からしばしば「識知」が使われています。


これらのことをいいつのるに必要なヨーロッパの文化にたいする輪廓ある識知をわたしはまったくもっていない。吉本隆明『悲劇の解読』1979)。

野獣は、なわばりといった領域を、いわば〈身分け〉として識知しているが、これは、空間的表象をそれが持っていることを意味する。(竹田青嗣『意味とエロス―欲望論の現象学』1986)

こうした使用法が始まったのは、おそらく中村雄二郎の翻訳による、ミシェル・フーコー『知の考古学』(1970)主要用語解説によるところが大きいのでは、と筆者は推察しています。中村は次のように述べています。

識知 savoir はふつうは、広く「知」とか、「知識」という意味だが、フーコーはとりわけ『言葉と事物』以来(すでに『狂気の歴史』中にも見えているが)、サヴォワールにエピステーメー:épistémè に対してと同様、それも非常によく似た、特殊で重要な意味を与えている。
すなわち、それは、一つの時代、一つの文化の共通の基盤をなす認識系ともいうべきもので、個々人の知識や思想を超えて存在するものである。

このようなフーコーの意図を考える時、中村は「savoir」の訳語として、汎用されている【認知:cognition】よりも、仏教の唯識論や東洋哲学などで使用されてきた「識知」を当てる方がよりふさわしいと考えたのではないでしょうか。

識知」の意味を論じる前に、この言葉が思想界で普及し始めた背景をひとまず考えてみました。

2019年6月3日月曜日

「時代識知」の要件を考える!

このブログで提唱しようとしている「時代識知」とは、人類史上に5つの人口波動を創り出した、5つの時期別の環境観や世界観を一言で表現する言葉です。

あるいは、超長期的な世界観の変化の中で、それぞれの時代別の環境・世界観を端的に表す用語ともいえるでしょう。

このような言葉や概念を、西欧の思想や哲学の中に探してきましたが、ニュアンスや範疇などではかなり近似はしているものの、ぴったり的中する言葉となると、浅学のゆえか見つけることは甚だ困難でした。


①比較的新しい「パラダイム(Paradigm)という言葉は、アリストテレスからアインシュタインまでの観念転換を捉えてはいますが、科学という「機械論的自然観」の中での世界観の変容を示しているにすぎません。

②「エピステーメー(epistēmē) 」という言葉も、主として17~18世紀以降の学問や文化の推移を対象にした考察や分析から生まれた用語や概念であり、また言葉とは別次元に現れる表現行動や精神活動などには及んでいません。

③「ツァイトガイスト(Zeitgeist)という用語も、狭いものは観念的・学問的な次元の言葉として、広いものは「時代の心」を捉える用語として、それぞれ使われるなど、提唱者によって定義が異なっており、その概念が曖昧なままです。

以上のように、西欧の思想・哲学史の中には、「時代識知」にぴったり当てはまる言葉は見当たりませんでした。

とすれば、「時代識知」という言葉を新たに提唱し、その意味するところを明らかにしなければなりません。

それには、この言葉に求められる、幾つかの要件があると思いますので、主なものを列記してみました。










①「認知」次元ではなく「識知」次元を捉える言葉である。

②「言(こと)分け」による言語表現と未言語表現の両面を捉える言葉である。

③網状(networking)の「システム(system)」ではなく、分節的(articulating)な「構造(structure)」を捉える言葉である。

④世界を理解する受動的な次元に加え、世界に働きかける能動的な次元もまた意味する言葉である。

⑤学問、思想、科学などの次元を超えて、より根底的な認識次元を捉える言葉である。

とりあえず、この5つを提起したうえで、順番に考えていきたいと思います。