ポスト黒死病の時代をモデルとして、ポストコロナ時代を予測しています。
14世紀の黒死病ショックで、世界人口がピークを超えて、その後およそ60~80年の間、減少を続けた時代は、農業後波の下降期と位置づけられます。
当時の世界人口で17~20%を占め、農業後波を主導してきたヨーロッパについては、歴史学者が「中世後期(Late Middle Ages)」と名づけていますが、筆者はさらに略して「ラストミドル(Last Middle)」とよんでいます(所以はのちほど述べます)。
ヨーロッパエリアは、次に始まる工業現波もまたリードする主導エリアですので、この点に注目しつつ、下降期の主な変化構造を整理してみると、下図のようになります。
①基本的な背景 農業後波の世界人口容量(自然環境×集約農業文明=4億5000万人)が限界に達した要因において、この地域が大きな比重を占めていることです。 【黒死病の背景と影響を考える!】で詳しく述べているように、このエリアでは、11世紀以降の大開拓時代が終わったため、中世の農業革命の成果も一応出尽くし、人口容量が飽和へと向かっていたのです。 ②自然環境 1300年ころに始まった寒冷化、いわゆる小氷期の開始により、集約農業の基本である農業牧畜に多大な影響が及び、とりわけヨーロッパ諸国では大飢饉が続いています。 当時のヨーロッパでは、農地が条件の悪い土地にまで広がって、食糧生産力も飽和状態に近づいていましたから、気候条件が少し悪化しただけで、直ちに凶作と飢饉が現れるという状態だったのです。 ③国際環境 13世紀から続いてきたモンゴル帝国によるユーラシア大陸支配、いわゆる「パクス・モンゴリカ」が終わり、1350年代以降は大陸各地で紛争の続く「ポスト・モンゴリカ」の時代に向かっていました。 【黒死病・・・人口急減の引き金を引いた!】で述べたように、13世紀にユーラシア大陸を覆っていたモンゴル帝国の支配が弱体化するにつれて、アジア各地では西アジアのオスマン帝国(1299)、中国の明王朝(1368)、中央アジアのティムール朝(1369)など、新しい国家が次々に誕生しました。 こうした変化が、ヨーロッパ諸国にも危機意識を高めさせ、それまでの封建領主制から絶対王政への意識転換を促したといえるでしょう。 |
60~80年間にわたるこの時代を、人口容量の限界化によって起こった社会的混乱と、その中から新たに生まれてきた革新的動向の、二つの面から眺めていきましょう。
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