2020年11月18日水曜日

ポスト・コロナをラスト・ミドルで展望する!

ポスト黒死病の時代をモデルとして、ポスト・コロナ時代を予測しています。

14世紀の黒死病ショックで、世界人口がピークを超えて、その後およそ6080年の間、減少を続けた時代は、農業後波下降期と位置づけられます。

当時の世界人口で1720%を占め、農業後波を主導してきたヨーロッパについては、歴史学者が「中世後期(Late Middle Ages」と名づけていますが、筆者はさらに略して「ラスト・ミドル(Last Middle」とよんでいます(所以はのちほど述べます)。

ヨーロッパエリアは、次に始まる工業現波もまたリードする主導エリアですので、この点に注目しつつ、下降期の主な変化構造を整理してみると、下図のようになります。


13001450年の間に変化が発生した、特に大きな背景は、次の3つに集約できると思います。

基本的な背景

農業後波の世界人口容量(自然環境×集約農業文明=45000万人)が限界に達した要因において、この地域が大きな比重を占めていることです。

黒死病の背景と影響を考える!】で詳しく述べているように、このエリアでは、11世紀以降の大開拓時代が終わったため、中世の農業革命の成果も一応出尽くし、人口容量が飽和へと向かっていたのです。

自然環境

1300年ころに始まった寒冷化、いわゆる小氷期の開始により、集約農業の基本である農業牧畜に多大な影響が及び、とりわけヨーロッパ諸国では大飢饉が続いています。

当時のヨーロッパでは、農地が条件の悪い土地にまで広がって、食糧生産力も飽和状態に近づいていましたから、気候条件が少し悪化しただけで、直ちに凶作と飢饉が現れるという状態だったのです。

国際環境

13世紀から続いてきたモンゴル帝国によるユーラシア大陸支配、いわゆる「パクス・モンゴリカ」が終わり、1350年代以降は大陸各地で紛争の続く「ポスト・モンゴリカ」の時代に向かっていました。

黒死病・・・人口急減の引き金を引いた!】で述べたように、13世紀にユーラシア大陸を覆っていたモンゴル帝国の支配が弱体化するにつれて、アジア各地では西アジアのオスマン帝国(1299)、中国の明王朝(1368)、中央アジアのティムール朝(1369)など、新しい国家が次々に誕生しました。

こうした変化が、ヨーロッパ諸国にも危機意識を高めさせ、それまでの封建領主制から絶対王政への意識転換を促したといえるでしょう。

6080年間にわたるこの時代を、人口容量の限界化によって起こった社会的混乱と、その中から新たに生まれてきた革新的動向の、二つの面から眺めていきましょう。

2020年11月9日月曜日

2つのパンデミックを比較する!

黒死病が壊した農業後波の「生産・社会・識知構造」を先例に、コロナ禍が今や壊そうとしている業現波の「生産・社会・識知構造」を推測してきました。

コロナ禍が壊していくのは何か?2020725日】で予告しましたように、人口波動上の相似点巨視的変化の相似点時代識知の相似点を長々と述べてきましたので、3つの次元の比較を改めて確認しておきましょう。

人口波動上の相似点

黒死病とコロナ禍という、2つのパンデミックは、飽和期から下降期へと移行する、人類史の大きな転換点を示している点で、共通の構造を孕んでいる。








巨視的変化の相似点

2つのパンデミックの共通点として、①気候変動の拡大、②国際紛争の激化、③国際的主導国の消滅、④感染症などの大流行、の4つが指摘できる。

時代識知の相似点

黒死病はキリスト教をベースとする時代識知(三位一体エネルギー観、神地二国論、教団組織化など)の破綻を示し、コロナ禍は科学的理性をベースとする時代識知(分散型無機エネルギー観、要素還元主義、数理思考など)の限界化を示している。 



要するに、黒死病(Black Deathキリスト教識知観、三圃制農業、集団生産制、純粋荘園制、封建制、教会・王権並立制などを破壊し、コロナ禍(COVID-19)科学的識知観、化石・核燃料制、企業・工場制、市場経済制、民主主義、国家連合制などに衝撃を与えたといえるでしょう。

およそ700年離れた、2つの時代に以上のような相似点があるとすれば、これから始まるポスト・コロナ時代にも、おそらく似たような現象が現れるのではないでしょうか。

そこで、ポスト黒死病の時代をモデルとしつつ、ポスト・コロナ時代を大胆に予測していきましょう。

2020年11月3日火曜日

コロナ禍が暴露した近代社会の限界

黒死病が壊した農業後波の「生産・社会・識知構造」を先例に、コロナ禍が今や壊そうとしている工業現波の「生産・社会・識知構造」を推測してきました。

生産構造社会構造識知構造と順番に考えてきましたので、相互の関連を整理しておきましょう。



一番基底にある「科学」という時代識知は、分散型無機エネルギー観要素還元主義数理思考の、3つを主要構成要素としつつ、生産構造や社会構造にさまざまな影響を与えています。

分散型無機エネルギー観は、宇宙エネルギーを蓄積した鉱物を物理学的、多角的に利用しようとするエネルギー観ですが、「生産構造」の化石・核燃料や工業技術を支えている基本基盤となっています。

要素還元主義は、細かく「分析」することで全体が明らかになるという思考方法ですが、分析結果を「統合」するという視点を忘れたまま、「生産構造」の工業技術や資本・労働・消費制を生み出し、さらには「社会構造」の民主主義制や国家連合制などの制度構造にも及んでいます。

数理思考は、数学や統計学的な思考方法こそ唯一の科学的態度だという思い込みですが、主に「生産構造」の工業技術資本・労働・消費制、さらには「社会構造」の市場経済制などでも、基底的な思考法となっています。また資本・労働・消費制を通じて、「社会構造」の資本主義管理通貨制などにも及び、市場経済制を支えています。

以上のように、工業現波の生み出した近代社会は、「科学」的理性という識知観であれば、環境・世界の全てが認識できるだろう、という集団幻想によって支えられています。

いいかえれば、私たちの世界を動かす基本エネルギーを分散型無機エネルギーに依存しつつ、生産や社会を動かす理性もまた、数理思考や要素還元主義に基づく発想に基づいて、分析・分散型の構造を創り上げていく、というものです。

その結果、理性を追求する学問の構造もまた、自然科学、社会科学、人文科学に大別されたうえ、それぞれの内部をさらに細分化し、さまざまな学群・学類などに分けられてしまいました。

しかし、このような構造では、個別・分断化された知識を一つ一つ深めることはできたとしても、それらを全体的に統合して、実際に具現化するという思考行動については、ほとんど不可能なようです。

現実の世界を見ると、化石燃料系は大気汚染を引き起こし、核燃料系は高濃度放射能を拡散させ、巨大化した資本では寡占化や横暴化が進み、所得格差の慢性的拡大、大量生産-大量消費の害毒化物質的拡大限界化で情報化の台頭などが始まるとともに、ポピュリズムの拡大による民主制の危機コニュミズムの倒錯による全体主義の拡大中央統治機構の弱体化、そして国際機関の空洞化など、工業現波による国際的人口容量の限界化が際立ってきています。

これらの課題に対応していくには、経済学、社会学、法律学、行政学などの専門諸学はもとより、応用数学、システム科学、情報科学などの数理諸学といえども、細かく分離された学問ではもはや不可能でしょう。より統合化され、集中化された、もっと新たな思考行動が求められているのです。

私たちは現代社会の科学的思考法を唯一無二の理性だと思いがちですが、少し視点を広げて、4~5万年単位で振り返れば、せいぜい600年ほどの時代識知にすぎません。環境-世界を眺める識知は、時代とともに大きく変わってきているのです。

このように考える時、今回のコロナ禍によって、いみじくも露呈したのは、科学的理性をベースとして分野別に分離させられた、私たちの思考行動の破綻、そのものだったのではないでしょうか。

2020年10月25日日曜日

コロナ禍に手も足も出せない分散型無機エネルギー観

コロナ禍が今や脅かそうとしている、工業現波の「時代識知」を推測しています。

現代の「科学」を構成している、3つの主要要素のうち、3番めに「分散型無機エネルギー観」について考えてみましょう。

人類のエネルギー観を振り返ると、石器前波の「ディナミズム(dynamism):動態生命観、石器後波のインモータリズム(immortalism):生死超越観、農業前波のリレーショナズム(relationalism):万物関係観)、農業後波のインテグレーショニズム(integrationism)=万物統合観といった識知観の中に、人間社会を動かす、基本的なエネルギー観を読み取ることができます。いずれも宇宙エネルギーを動植物を媒介として、有機的に利用する識知でした。

しかし、工業現波のエネルギー観は、【コロナ禍が壊す生産構造とは・・・:202083】の①でも指摘したように、「要素還元主義」に基づく「分散型無機エネルギー観」とでもいうべきものでした。

モノを動かす力を物理学的な「エネルギー」とみなす発想は、15世紀イタリア・ルネサンスの巨匠、レオナルド・ダ・ビンチ(L. da Vinciの梃や滑車の活用研究を基礎に、16世紀末から17世紀初頭、ドイツのケプラー(J.Kepler、イタリアのガリレイ(G.Galilei)らによる力学や天体運動に関する研究を経て、フランスのデカルト(R.Descartesが主張した「運動量保存の法則」によって体系化されました。

デカルト派の主張した「力の測度は運動の量である」との理論に対し、ドイツのライプニッツ(G. W. Leibnizは「活力」であると主張したため、18世紀半ばまで論争が続きましたが、フランスのダランベール(J.L.R.d'Alembertらによって決着がつけられ、19世紀初頭、イギリスのヤング(T. Youngが「活力」を初めて「Energy」と名づけました。

こうした理論展開に裏付けられ、19世紀に産業革命がヨーロッパ全体に広がると、蒸気機関の普及と鉄道の発達が、エネルギー転換装置の典型として認知されるようになり、熱力学が成立します。さらに化学や生物学でもエネルギー転換に関心が高まり、電磁気学の成立によって、「エネルギー保存の法則」も生まれました。

かくして19世紀中葉に物理学で確立されたエネルギー概念は、力学的エネルギー熱エネルギー電磁気的エネルギーなどを統一的にとらえるようになりました。初期の蒸気機関では、熱源として石炭が用いられていましたが、19世紀後半にアメリカで石油が発見され、精製技術が発達するとともに 徐々に石油や天然ガスの比重が高まってきました。

20世紀に入って、エネルギー概念が普遍的かつ基本的な自然法則として維持されるようになると、より直接的に熱エネルギーを力学的エネルギーへ変換する内燃機関(エンジンなど)の動力が発達し、さらに蒸気機関や内燃機関で得られる力学的エネルギーを電気エネルギーへと変換する電気動力(モーターなど)も急速に発展しました。

20世紀中葉に至ると、核分裂エネルギーが登場しました。これは蒸気機関や内燃機関が化学物質の燃焼であるのに対し、核分裂反応の利用によって莫大なエネルギーを取り出すことを可能とするもので、原子力発電として用いられるようになりました。

さらに1980年代からは、核分裂よりも大きなエネルギーが得られる核融合が研究されています。放射線や放射性廃棄物を生み出すものの、核分裂よりもリスクが少ないため、核融合炉などによる発電用途に向けて、実用化の研究開発が進められています。これは科学という識知が把握した世界像、つまり太陽を初めとする宇宙のエネルギー源を、人類の手で直接生み出し、熱源として利用しようとする発想といえるでしょう。

以上のように、工業現波の世界では、物理学がリードする諸科学に基づいて、さまざまな無機エネルギーが利用されています。まさに分散型エネルギー構造ともいえるものです。



しかし、その限界も多方面に現れ始めています。1970年代以降、化石燃料系大気汚染を引き起こし、また核燃料系高濃度放射能を拡散させるなど、地球環境や生活環境を破壊する恐れも高まって、さらなる拡大には懸念が生じています。

また、石油や天然ガスは、21世紀中に枯渇に向かい始め、200300年程度は可能と言われてきた石炭もまた、22世紀には供給量がピークとなるなど、22世紀には化石燃料の資源枯渇が予想されています。

このため、風力、太陽光など自然系エネルギーに再び注目が集まっています。二酸化炭素などの環境汚染物質をほとんど出さず、継続的に利用可能であることから再生可能エネルギーとよばれていますが、未だシェアは広がっていません

さらに地熱、波力、海洋温度差などの無機系エネルギーに、有機系のバイオマス燃料を加えて、さまざまな研究開発が進められてはいますが、未だ実用化するまでには至っていません

こうしてみると、工業現波を支えているエネルギー発想の基本は、宇宙エネルギーを蓄積した鉱物を物理学的、多角的に利用しようとする「分散型無機エネルギー観」といえるでしょう。

今回のコロナ禍が問いかけているのは、無機的発想が生物的・有機的な障害にどこまで対応できるのかという、宇宙・人類観への反省だったのかもしれません。

2020年10月10日土曜日

コロナ禍で露呈した専門家の限界

コロナ禍が今や脅かそうとしている、工業現波の「時代識知」を推測しています。

現代の「科学」を構成している、3つの主要要素のうち、2番めに「要素還元主義」について考えてみましょう。

工業現波を主導している近代科学は「要素還元主義」を基盤にしています。

この主義は、近代科学の祖といわれるルネ・デカルトRené Descartes)の思想をベースにして、近代科学の父ともよばれるアイザック・ニュートンIsaac Newton)が展開した識知観です。



基本となる観点は、全体は要素の集合から構成されているという前提に立って、さまざまな方法で対象を細かく「分析」してゆけば、最終的には全体が明らかになる、というものです。

この主義によって、私たちを取り巻く環境頭脳内の観念で把握できる、という革命的な方法論が生み出され、さまざまな分野で科学と応用技術が結びついて、学問や産業の繁栄をもたらしました。

確かに物理学統計学などで進められた、自然現象の理念化は、生物学、医学、農学、工学などにも応用され、驚異的な発展を導きました。

この分野の成功が著しかったため、要素還元主義という観点は自然科学から他の分野へも広がり、瞬く間に工業現波の基盤的識知観となりました。

いかなるものもまずは細分化するという「分析」思考法によって、私たちの思考方法もまた細かく「分断」され、「科学」という名称のもとに、自然科学、社会科学、人文科学に大別されたうえ、さらに幾つかに分けられました。

自然科学は物理学、化学、生物学、天文学、地球科学などの「理学」系や医学、農学、工学などの「応用科学」系に、社会科学は政治学、法学、経済学、経営学、社会学、社会福祉学などに、人文科学は哲学、言語学、倫理学、歴史学、地理学、心理学、教育学、文化人類学などに、それぞれ分割されています。

その結果、さまざまな学問分野では専門化深耕化が著しく進行し、高度な成果を生み出すようになったのは確かなことです。

しかし、その一方では、さまざまな自然現象や社会現象に対して、極めて狭い視野でしか対応できない、という傾向も生み出しました。

例えば、望ましい未来社会を考えようとする時、経済学、社会学、法学、行政学など個々の視点から考えざるをえなくなっています。学際的とかシステマテイックとかいう場合も、統計学や数学的視点に利き足をずらしているにすぎません。

要するに、「分析」主義から「分断」主義への移行なのです。工業現波を生きる、私たちの知性とは、細かく分断された観点の中で、それぞれの理想を考えつつも、それらを全体的に統合できない、という隘路に陥っているのです。

もっとも、要素還元主義の原点には、細かく「分析」してゆけば、最終的には全体が明らかになるという「統合」視点が含まれていたはずです。

ところが、「分析」視点だけが図らずも膨張した結果、「統合」視点はいつしか忘れられ、跛行的な結果を招いている、ともいえます。

このため、「分断」主義を超えようと、これまでにも、言語主義的統一や還元主義的統一をめざす「統一科学」論システム的な統合論といった反省も繰り返し提案されてきましたが、いずれも挫折しています。詳細は別の機会に譲りますが、物理学的言語観自体の狭隘さ「システム」観の誤解などによるものです。

以上のように、近代科学を支える基本要素、「要素還元主義」は、私たちの暮らしや社会を支えてはいるものの、全体がどうなっているのか、どこに向かっているのか、などを明確に提示できないという限界に突き当たっているのです。

今回のコロナ禍対応で散見された専門家といわれる人々の偏狭さ、幼稚さ、説明力・言語力不足などは、まさしく専門化・分断化しすぎた学問の欠陥を露呈したものといえるでしょう。

2020年10月3日土曜日

コロナ禍に対応できない数理思考

現代の「科学」を構成している、3つの主要要素のうち、最初に「数理思考」について考えてみましょう。

まず問題提起をしておきます。今回のコロナ禍で突然躍り出た言葉に「実効再生産数」があります。「1人の感染者が平均して何人に感染させるか」を表す指標です。

統計学者などからは「数学用語の拡散だ!」と自慢する動きもありますが、一般市民にとってはどこか違和感が漂います。「生産」という日本語の肯定語感を、「感染」という否定語感に使っているからです。

この言葉は「effective reproductive number」という英語の翻訳で、「reproductive」を日本語に直訳すれば、確かに「再生産」です。

英語圏の統計学者が、生物学の用語を安易に援用して「reproductive」を使い、なぜ「reinfection(再感染)」を使わなかったのか、疑問も残ります。

だが、日本語でもちょっと英和辞書を手繰ってみれば、「reproductive」には「複製、複写」や「再生、再現」の翻訳語もあり、語意を鑑みれば 「感染、伝染」と意訳することもできるはずです。

つまり、「実効再“生産”数」ではなく、「実効再“感染”数」と訳すべきなのです。

この訳語であれば、それが意味するところは、より広く日本人の間に伝わったでしょう。

にもかかわらず、統計学者はもとより、医学関係者からも何の指摘もありません。伝達を使命とするはずのマスメディアでさえ、なんの配慮もなく使用しています。

さらに問題なのは、送り手だけでなく受け手の私たちまでが、いかなる批判もそれなりの抗議もせず、唯々諾々と受け入れていることです。

ここに数理思考の驕りがあります。否、数学や統計学などを基盤とする数学的認知観の危機が潜んでいると思います。

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数学は、物を数えたり測ったりする、数・量に関する識知活動として、古代のエジプト数学,バビロニア数学,ギリシア数学,アラビア数学などで始まり、中世においても西洋数学,インド数学,中国数学,日本の数学 (和算) などで、それぞれ独自の発展を遂げてきました。

1516世紀近代が始まると、これらの中から、西洋数学が物理学や天文学などと連携して急速に発展し、自然現象を解明する、最も基本的な学問となりました。

日本では、江戸時代初期に独自の数学「和算」が生まれ、後期までに多彩な発展をとげてきました。しかし、幕末期に至り、天文学や暦学を始め、砲術、築城術、造船術などを通じて、西洋数学が紹介されたため、明治維新後の明治5年(1872)の学制公布で初等教育の数学を西洋数学に定め、和算から洋算への移行が比較的スムーズに行われました。

こうして西洋数学という学問は、洋の東西を問わず、自然現象の解明はもとより、経済現象や社会現象一般にまで応用され、工業現波の時代識知の中核として位置づけられるようになっています。

しかし、冒頭で述べた通り、その限界もまた見え始めています。

「数字」という観念もまた、自然言語と同様に、人間の「身分け」が捉えた事物などを「言分け」によって特定する記号の一種であり、「数理言語」とよぶことができます。

言語学によると、記号とはシニフィアン(signifiant:意味するもの:音声)シニフィエ(signifié:意味されるもの:意味内容)の一体化したものです。

数理言語でいえば、1.2.3という音声記号=シニフィアンは、●、●●、●●●というイメージ=シニフィエを表しているのです。

この時、言語学では、一つのシニフィアンが一つのシニフィエが、どのように結びついているかを考える「セマンティクス(semantics:意味論・表象論)」と、いかなる形で結びつくかという「シンタックス(syntax:統辞論・文法論)」の、2面性を考えています。

個々の数字の意味するものと、それらがいかに結びついているか、という両面性です。

前者は「1や2が何を示しているか」という「意味」であり、後者は「1+2は3になる」という「論理」です。

数学は、自然言語に加えて、このような数理言語を創造したことで、人類の思考方法を飛躍的に進展させました。

とりわけ「身分け」できる範囲でしか捉えられなかった世界を、「数字」という「言分け」方法で捉え直し、さらに「数学」という「論理」によって考察することを可能にしたからです。

物理学者の中谷宇吉郎が「基本的な自然現象の知識を、数学に翻訳すると、あとは数学という人間の頭脳使って、この知識を整理したり、発展させたりすることができる。したがって個人の頭脳ではとうてい到達し得られないところまで、人間の思考を導いていってくれる。そこにほんとうの意味での数学の大切さがある。」(『科学の方法』1958,P121)と述べているとおりです。

だが、そこにこそ限界があるようです。中谷は続けて、次のように述べています。

1つ注意すべきことは、今日の科学は数学を使う関係上、量の科学にいちじるしく傾いている。形も科学の対称になり得るものであるが、今日の科学の中には形の問題はほとんどはいっていない。」(同:P195

要するに、どれだけ詳細かつ精密な数式を使った思考とはいえ、それ自体が人間の「言分け」活動の一つにすぎない、ということです。公式や定理という数学的論理もまた、「言分け」が創り出したシンタックスの一つなのです。

そうなると、数理思考や数理的識知の限界点が見えてきます。詳しく論述すると、今回のテーマを超えてしまいますので、とりあえず限界事項を列記しておきましょう。

①「身分け」能力で把握している限りでの世界を、数字というデータで「言分け」した世界にもまた、数字で捉えられない事物については排除するという、二重の排除性が潜んでいる。

②数理言語という統辞ルールの中で展開される計算やシミュレーションは、現実世界の一部を抽象化した部分的論理にすぎず、全体を見通しているわけではない。

③「身分け」能力が直観的に把握した現象を、数理という「言分け」能力で改めて把握しているが故に、データ的理解が直観的理解に勝るとは限らない

④数学を基盤とする「システム思考」もまた、網目状の思考法であり、より全体に接近する「ストラクチャー思考」の細胞的な思考法には到達していない。

⑤極度の専門化による偏狭性ゆえに、自然言語との乖離が広がり、表現力が衰えている。

以上のような問題点を無視して、数学や統計学的な思考方法こそ唯一の科学的態度だという思い込み自体が、科学という時代識知の限界を示唆しているといえるでしょう。

コロナ禍が衝いているのは、その一端なのです。

2020年9月21日月曜日

コロナ禍に現代科学は対応できるのか?

黒死病が壊した農業後波の「生産・社会・識知構造」を先例に、コロナ禍が今や脅かそうとしている工業現波の「生産・社会・識知構造」を推測しています。

「生産構造」「社会構造」と述べてきましたので、いよいよ「識知構造」です。

工業現波の「生産・社会構造」を創り上げてきた主因は、おそらく「科学」という時代識知であった、と思います。

「科学」という日本語は、明治時代に science という英語が入ってきた際、啓蒙思想家の西周が当てた訳語だ、といわれています。

元々のscienceは、ラテン語のスキエンティア(scientia:知識全般)から生まれた言葉で、まずはフランス語に取り入れられ、続いて英語に採用されました。

人類は太古の昔から、自分たちをとりまく自然現象や自らの身体構造などへ関心を抱き、古代オリエント、古代インド、古代中国などの文明圏では、これらを説明するための知識や経験を蓄積し、「学」として体系化してきました。

時代が下るにつれ、古代ギリシアと古代ローマでは自然哲学が深まり、中世になるとイスラム科学が勃興して、それぞれ後世に大きな影響力を残しています。

1617世紀のヨーロッパで、いわゆる「科学革命」(Scientific RevolutionH.バターフィールドの提唱)がおきると、Scienceの意味は大きく変わりました。

それまでは、体系化された知識や経験の総称、つまり「知識全般を意味する言葉として用いられてきました。

しかし、その後は、一定の目的や方法のもとにさまざまな事象を研究し、そこで得られた認識を体系的な知識とする「知的営為」を意味するようになりました。

この時期に起こった革命は、ポーランドのコペルニクス(M.Kopernik)による宇宙観の変革、つまり天動説から地動説への転換から始まり、ドイツのケプラーJ.Kepler)、フランスのデカルトR.Descartes)、イタリアのガリレイ(G.Galilei)、イングランドのニュートン(I.Newton)らにより達成されました。

コペルニクス1543年、「惑星は太陽を中心とする円軌道上を公転する」という地動説を唱え、それを継承したケプラー1609年、「天動説より地動説の方がより精密に惑星の運行を計算できる」ことを明示しました。

またガリレイ1604年に自由落下運動の法則などの力学的な発見を行い、それまでの目的論的自然観(物体がそれぞれの目的に向かって運動するというアリストテレス的な自然観)に変更を迫りました。

1633年、デカルトは、三試論(光学、気象学、幾何学)の序文として『方法序説』を提唱しました。

これらを継承したニュートン1687年に万有引力の法則を発見し、近代的な機械論的自然観への道を開きました。

以上のような知識革命で、それまで神(天)を二分してきたキリスト教的世界観が覆された結果、数多くの技術革新が推進され、産業革命へと繋がっていきました。

1730年代に紡績機から始まった産業革命は、1750年代以降に各国へ広がり、1850年代からは蒸気機関を軸とした鉄道の建設や鋼鉄の拡大、1890年代からは電気・化学・自動車の浸透、1970年代からはICT(情報通信技術)やバイオテクノロジーなどの進展と、次々に新技術を生み出してきました。

しかし、1990年代を超えるあたりから、地球環境問題の激化災害・事故への対応不能、軍事応用の拡大などが広がるにつれて、その限界が見えてきました。

なぜそうなったのか、さまざまな背景を考えてみると、「科学」という時代識知そのものの限界が浮かび上がってくるようです。

要素還元主義の限界・・・
近代哲学の祖デカルトと近代科学の父ニュートンが展開した「要素還元主義」は、全体は要素の集合から構成されているという前提に立って、さまざまな分析を行えば、究極的には全体の理解に及ぶという思考方法を生み出しました。

この発想によって、科学と応用技術が多彩な次元で結びつけられ、学問と産業の繁栄がもたらされましたが、それが行き過ぎて、あまりにも専門分化しすぎた結果、全体を見失うという弱点が露呈してきました。

記号・数字的思考の限界・・・
身分け」できる範囲内での自然現象しか分析できないという、人間の思考限界を突破するため、「数字」や「記号」を応用することで数学や物理学・化学などを発展させてきました。

しかし、あまりにもそれらの多用によって、量だけの科学に傾いた結果、形、質、全体などを把握することが困難になってきました。

科学万能主義の限界・・・
科学は自然の実態を探るという建前にもかかわらず、その実態は人間の利益に役立つか否かという視点から、自然の姿を追求しています。

それゆえ、科学やそれに基づく技術は、人類の生活や生産力を大きく向上させはしましたが、他方では、理解力を超える災害や予測不能な事故などに出会うと、より大きな災厄を生みだす、という二面性を内在させています。

あるいはあまりにも肥大化し、あらゆる分野の知識基礎となった結果、人間の思考能力さまざまな制約を与え始めています。

以上のような限界状況は薄々自覚され、批判的な論文や警告的な書籍なども幾つか出されていますが、未だ正論となるまでには至っていません。

しかし、今回のコロナ禍によって、感染予測の不可能性、対応施策の不十分性、関連科学の脆弱性などが露呈され、「科学」という時代識知そのものの限界が暗示されました。