2017年1月20日金曜日

子どもを作るか・生活水準を守るか?

人口容量が限界に達した社会で生きる人々は、自らの生活水準をいかに維持するかということに、極めて敏感になってきます。

とりわけ出産適齢期の夫婦では、それが強く意識されます。つまり、子どもを作るか、自分たちの生活水準を維持するか、という厳しい選択を問われるからです

人口抑制装置という視点から見ると、この選択には2つの次元が含まれています。

一つはマクロな次元・・・

人口容量が増えない以上、夫婦は自らの生活水準を削って子どもを作るか、生活水準を優先して子どもを作らないかという選択を迫られます。

人口容量の上限に近づくにつれて、一人当たりの生活水準が抑えられてきますから、前者より後者を選ぶ夫婦が次第に増えてきます

もう一つはミクロな次元・・・

多くの夫婦は自らが享受している生活水準とほぼ同じ水準を子どもにも与えたい、と考えていますが、人口容量の分け前が急減している社会では、ほとんどそれが不可能になってきます。

前者は夫婦自身が生まれた時の「自我肥大度」(
自我肥大度こそ結婚忌避の真因!・参照)がほぼ達成された水準ですが、後者は子ども自身の「期待肥大値」(現代日本の総期待肥大値を計る!・参照)であり、前者に比べてはるかに低い水準となります。


マクロ、ミクロの両面から、多くの夫婦は自らの立場とともに、子ども自身の立場を考えても、常にこうした選択を迫られます

そのことが多くの夫婦に対して、出産へ踏み切ることを躊躇させるようになるのでしょう。 

2017年1月7日土曜日

「75歳高齢者制」がようやく認知されてきた!(番外)

新たな年が始まり、マスメディアには、今後の社会を展望する記事や番組が溢れています。
そこで、今回は人口抑制装置論の展開を一休みし、あちこちで大きく取り上げられた「75歳高齢者制」について、筆者の感想を述べておきます。

1月6日の新聞各紙は、次のような記事を一斉に掲載しています。
 【75歳で高齢者、65歳は「准高齢者」・学会提言】 
日本老年学会など5日、現在は65歳以上と定義されている「高齢者」を75歳以上に見直すよう求める提言を発表した。医療の進展や生活環境の改善により、10年前に比べ身体の働きや知的能力が5~10歳は若返っていると判断した。
前期高齢者とされている65~74歳は、活発な社会活動が可能な人が大多数だとして「准高齢者」に区分するよう提案。社会の支え手と捉え直すことが、明るく活力ある高齢化社会につながるとしている。
65歳以上を「支えられる側」として設計されている社会保障や雇用制度の在り方に関する議論にも大きな影響を与えそうだ。(中略)
内閣府の意識調査でも、65歳以上を高齢者とすることに否定的な意見が大半で、男性は70歳以上、女性は75歳以上を高齢者とする回答が最多だったことも考慮した。
(日本経済新聞・2017年1月6日より抜粋)

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「75歳高齢者制」については、筆者も19年前に『
凝縮社会をどう生きるか』(NHKブックス、1998年)という本の中で初めて提唱して以来、一貫して主張してきました。

当初は反論や批判が多かったと記憶していますが、その後少しづつ賛成意見も増えてきました。ここにきて、ようやく多くの賛同者を得られたという思いです。

同書から関連部分を抜き出してみましょう。

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75歳高齢者制へ
もっとはっきりいえば、65歳以上の人たちを一律に高齢者とよぶこと自体が間違っている。国連統計や日本の人口統計でもほとんどがそうなっているから、つい確定的だと思いがちだが、決してそうではない。発展途上国では60歳以上の場合もあるし、先進国では70歳以上の場合もある

実をいうと、この定義は今から30年前の1960年代に、世界保健機構(WHO)が定めたものだ。当時のわが国では、平均寿命が男68歳、女73歳、平均70歳だったから、65歳で高齢者となっても、余生は僅か5年だった。そのうえ、当時は工業社会で筋肉労働が中心であり、65歳くらいが生産年齢の上限というのも頷けた。

だが、90年代の平均寿命は、男76歳、女83歳、平均80歳で、65歳で老人扱いでは、余生は15年にもなる。また産業構造はソフト化・情報化しているから、筋力や敏捷性が多少衰えても、頭脳が大丈夫ならまだまだ働ける。現に老人医療の第一線から、65〜74歳の身体は「中年のそれと大して変わらない」という証言もある。

そのうえ、21世紀の初頭からは、先の答申が指摘しているとおり、労働力人口も減少し、慢性的な人手不足となるから、中高年はもとより、専業主婦やフリーターの若者たちも、積極的に労働市場へ参加してもらわねばならない。そうなると当然、65歳以上の高齢者も有効に活用する体制が求められる。

このように見てくると、高齢者の定義は、60年代なみに余生5年を基準にして、75歳にまで上げるべきだろう。そうなれば、96年の高齢者比率(65歳以上は15.1%)は、2025年(75歳以上は16.1%)でもほとんど変わらず、年金問題などは縮小してしまう。

さらに国立社会保障・人口問題研究所の想定では、2025年には平均寿命が男78.8歳、女85.8歳に達するというから、 この変更は充分可能だろう。もっとも、1度に上げるのが 大変だというなら、図9―3に示したように、生産年齢人口を全体の約70%に維持するように、高齢者の下限を徐々に引き上げていけばよい。


これに伴って、今後の高齢化対策では、年金改革や増税対策以上に、高齢者の能力開発雇用機会の拡大などが重要な課題になる。例えば、職場環境を高齢者向けに整備したり、就業条件にも時間短縮、ジョブシェアリング、フレックスタイムなどを導入することだろう。

あるいは、体力知力に応じて、国・公立学校の教師や公務の一部などには、高齢者の雇用枠を義務付けたり、高齢者を雇う企業には減税をおこなうなどの対策も有効であろう。減少していく労働供給の中で、良質の若年労働力を生産性の高い分野に集中的に投入するためにも、こうした対応は絶対に必要になってくる。

結局、今後の高齢化対応政策では、若年労働力尊重、終身雇用、60歳定年制といった人口増加社会の常識を捨てて、中高年活用、人生数回定年制、高齢者再雇用など、人口減少社会に見合った方向へ、大胆に移行していくことが必要なのである。


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本書では、こうした発想を前提に、「年金制度の改革」「自己責任による積み立て方式」「65歳以上の就労枠拡大へ」「自ら新しい職場を創る」「生涯現役の多毛作人生へ」など、具体的な提案もしていました。

あれからすでに19年が過ぎましたが、この提言は今もなお十分に通用する思います。

というより、19年前にもし日本の政府が、社会の目標や諸政策の方向をこうした方向へ転換していたとすれば、人口減少社会や少産・長寿社会への不安など、とっくに消え去っていたのではないでしょうか。

そうと思うと、もっと強く主張するべきだった、と大変残念な気もしています。