2020年5月19日火曜日

黒死病の背景と影響を考える!

黒死病というパンデミックが、農業後波の飽和化を促す要因の一つだったとすれば、今回のコロナ禍もまた工業現波の限界を暗示するのではないか、と述べてきました。

そこで、黒死病と農業後波の関係をより詳しく眺めて見ましょう。



この件については、筆者は『人口波動で未来を読む』(1996)以来、『人口減少・日本はこう変わる』(2003)や『日本人はどこまで減るか』(2008)、最近では『平成享保 ・ その先を読む』(2016)などで繰り返し述べてきました。

この中から『日本人はどこまで減るか』の中の記述を紹介しておきましょう。

中世農業革命の限界
1300年代の後半から一転して人口は急減していきます。ヨーロッパでいえば、1340年頃に約7,400万人に達した人口は、その後10年間で約5,100万人に急減し、以後1500年ころの6,700万人まで低迷しました。

直接の理由は、ヨーロッパを襲ったペスト(黒死病)でした。ペストは保菌鼠(クマネズミ)から伝染する病ですが、13世紀に十字軍が東方へ、蒙古が西方へと進んでいたため、東西を結ぶシルクロードに乗って、次第に西へと伝播しました。

1347~48年、イタリア、フランスに上陸し、3年余の間に全ヨーロッパを席巻しました。その後も1350年代、65年前後、80年代前半、95年前後と、ほぼ10年間隔で流行を繰り返した結果、ヨーロッパ全体で100年間に約2,000万人が死亡し、14世紀末まで死亡数が出生数を上回った状態が続きました。

このように書くと、ヨーロッパの人口は、ペストだけで急減したようにみえますが、そうではありません。根本的な要因はあくまでも人口容量の飽和化でした。


フランスの歴史人類学者L.R.ラデュリは「西ヨーロッパの農村社会、要するに社会全体は、紀元7世紀以来、人口増大の過程にあり、ことに10~11世紀以降は確実にそうであった。ところが、1300年代、より一般的には14世紀前半になると、危機の様相の下に、この人口増大を妨害しようとする対抗的な諸要素が現れる」(『新しい歴史』)と指摘しています。

つまり、11世紀以降の大開拓時代が終わり、中世の農業革命の成果も一応出尽くして、人口容量がそろそろ飽和に向かったということです。

このため、1300年ころのヨーロッパでは、食糧生産力が飽和状態に近づき、農地は条件の悪い土地にまで広がっていましたから、気候が少し悪化しただけで、直ちに凶作と飢饉が現れました。

また耕地面積の無理な拡大で森林、牧草地、採草地が縮小し、家畜の飼育や堆肥(たいひ)量も減少したため、地力が低下してかえって穀物生産が減少しました。こうした農業環境のもとで人々の栄養状態が悪化し、1307年ころからヨーロッパ各地ではすでに飢饉や伝染病が広がっていたのです

ペストの大流行は、以上のような農業環境の悪化とそれに伴う栄養状態や衛生状態の混乱につけいったものでした。

また貨幣経済の浸透で商業や貿易が拡大し、商業都市が発達していましたから、これがさらにペストの流行を拡大させました。ペストは国際貿易網を辿って広まったうえ、人口密度の高い商業都市に伝染すると、爆発的な流行を引き起こしています。


そうした意味で、ペストの流行は農業後波の農業技術や経済システムが辿りついた、いわば必然的な結果だったともいえるでしょう。

一方、中国では、1230年代以降、元の攻撃で約30年間戦乱が続き、国土は荒廃し人口は激減しました。1279年、ついに宋が滅亡すると、以後1367年まで中国本土は元の支配となりました。元朝の100年間は、表面的には華やかに国際化が進みましたが、政権の内部では族長たちの暗闘が続き、また中国人は下級官僚に進出できるだけでしたから、政治や経済は混乱に陥っていきました。その結果、社会は停滞し続け、人口も1200年の1億2,300万人から、13世紀末には5,400万人へと半減しました。

以上のように、商業経済や商業都市によって拡大した農業後波の人口容量、それらの限界を迎えるとともに、疾病の猛威と異国民の侵入という、東西双方で起こった自然・社会環境の変化によって限界を迎えたのです。
古田隆彦『日本人はどこまで減るか』 (幻冬舎新書,2008) 五章 人類の五つの波

いかがでしょうか。この文章では、12世紀末からの気候変動、いわゆる小氷期を過少視しているきらいがありますので、その影響を加味したうえで、農業後波の限界要因を再整理し、黒死病の占める位置を明らかにしていきましょう。

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