2019年12月26日木曜日

擬人化で自然環境を活用する!

ミソロジーの5つの特徴のうち、⑤自然現象を応用する人間活動の経緯、を要約してみると、以下のようになります。

さまざまな神話の中には、多様なエネルギーの採集・利用・転換法などの識知的理解を促すものが数多く含まれており、これらが意味するのは、自然エネルギーを農耕・牧畜などへ転換させる際の、最適な対応方法を模索していることだ、と思われます。

そこで、この特性について、もう少し詳しく展開してみましょう。

第1に自然環境神々という主体に擬人化したことにより、人類とのさまざまな関わり方が細かく示唆できるようになりました。

第2には、人類が神々=自然環境に対して、より積極的に働きかける、さまざまな行為の可能性や、その影響が的確に述べられるようになりました。

第3に、人類が多様な人間集団という活動主体となって、さまざまな自然条件へ関わることにより、自然環境もまた作り直されていく可能性が生まれてきました。

以上のような経緯により、ミソロジー(mythology)リレーショナズム(relationalism:万物関係観)という時代識知が醸成されていくにつれ、人間集団が与えられた自然環境を積極的に活用して、循環的な農耕定着的な牧畜などを継続することができるようになりました。

 




それこそが、農業前波の人口容量に拡大可能性をもたらした、新たな時代識知の力だったといえるでしょう。

2019年12月14日土曜日

擬人化・文章化で関係性を把握する!

ミソロジーの5つの特徴のうち、今回は③多様な現象を擬人化した主体群による複合的物語、④自然と人為の相互関係を識知、を要約してみると、以下のとおりです。

③多様な現象を擬人化した主体群による複合的物語・・・自然現象、動物、植物などを“擬人化”した、多様な主体によって、喜怒哀楽、対立和睦などさまざまな相互関係を説明しています。

自然と人為の相互関係を識知・・・多くの神話では、自然環境に対する人類の対応作法を“文章”として述べています。

この2つについては、次のように展開できます。

第1は自然現象の擬人化です。

身分け能力が捉えた環境世界の自然現象の動きを、人間集団内部での喜怒哀楽といった相互関係に見立てて、そのアナロジーとして言語化しています。

第2は擬人化した自然現象に対する、人間の関わり方です。

天体、気象、動物、植物など人間以外の諸物を擬人化することにより、それらに対する人間の能動行動と受動行動を、言語によって表現しています。

第3は文章化による関係性の把握です。
人間の言分け能力は、擬人化された万物をまずは“単語”化し、次にそれらを繋ぐ、さまざまな関係を“文章”化によって表現しています。

この作用により、人間の行動が自然現象に影響を与えるとともに、それらの反応が人間に対して及ぼす、さまざまな影響という相互関係が表現されることになります。

こうしてみると、ミソロジーとは、擬人化と文章化によって、環境世界全体と人類の関係性を現そうとする、人間の英知ともいえるでしょう。


その意味でいえば、ミソロジー(mythology)という時代識知は、広義でのリレーショナリズム(relationalism:万物関係観)というべきかもしれません。


2019年12月4日水曜日

“象徴”言語が創り出す世界

ミソロジーの特徴を前回5つ分けて説明してきましたが、最初の2つ、①環境世界を言語で理解する観念的装置と②元型・象徴で構成する文章・物語、を要約してみると、以下のとおりです。

①環境世界を言語で理解する観念的装置・・・私たち人類は、周りの環境世界を、おのれの感覚能力によって「身分け」し、続いて言語能力によって「言分け」することで、それなりに理解していますが、ミソロジーは、そうした「言分け」行動の、最も始原的な段階です。

②元型・象徴で構成する文章・物語・・・認知世界の無意識的なドラマを、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系である「シンボル(象徴)」の連鎖によって表現したものです。

この2つについては、次のように展開できます。

 

第1は「言分け」能力で複合的に理解すること。 
ディナミズム(dynamism・・・動いている、あらゆる物体に対して、生き物や生命を感じる識知観)」や「インモータリズム(immortalism・・・動いている諸物の主体は、すべてが意思を持ち、生死を超えた、不可視の存在であるという識知観)」に対して、

ミソロジーは、「見分け」の捉えた環境世界の動態を、単純な動きとして理解するのではなく、単語や文章という「言分け」能力によって、さまざまな主体の絡み合った複合動態として捉えています。

第2は「言分け」の始原的な“象徴言語”段階であること。

ミソロジーとは、「身分け」された対象を「言分け」しようとする「言葉」そのものが、意味が固定化され、明確な表象を示す“記号”言語ではなく、それに至る以前の“象徴言語”で作られています

いいかえれば、「身分け」構造が捉えた万物、例えば太陽や月、雲や風、海や川、大樹や草花、獅子や脱兎、英雄や美女などの対象を、直観的なイメージに置き換え、さらにそれらを象徴的な音声=単語として表現たものといえるでしょう。

第3に「象徴言語=単語」を組み合わせた「文章=物語」であること。

ミソロジーとは、第1と第2の特性を組み合わすことで、「身分け」が捉えた、環境世界の複雑な構造を“記号”的言語に至る以前の“象徴”的言語によって、複合的に表現した文章=物語といえるでしょう。

3つを要約すれば、ミソロジーとは、「身分け」が捉えた環境世界を、象徴的な「言分け」によって言葉に置き換える「時代識知」なのです。

2019年11月22日金曜日

ミソロジーとは何だろうか?

前回紹介したように、ミソロジーの定義や観念については、先達諸賢のさまざまな見解があります。

それらを整理したうえで、時代識知という視点から、その特性を探ってみると、次のような事項があがってきます。
 






  
①環境世界を言語で理解する観念的装置
ミソロジー(μυθολογία:mythology)とは、言語の文章による物語(イストリア:ιστορία:istoria)あるいは詩(ポイエシス:Ποίησις :poiēsis)である、と言われています。

確かに、石器前波の「ディナミズム(dynamism)」や石器後波の「インモータリズム(immortalism)」と比べてみると、ミソロジーはその名の通り「言語」の色彩が濃くなってきます

私たち人類は、周りの環境世界を、おのれの感覚能力によって最初に「身分け」し、続いて言語能力によって「言分け」することにより、それなりに理解しています。

ミソロジーは、そうした「言分け」行動の、最も初期的な段階ともいえるでしょう。

元型・象徴で構成する文章・物語

ミソロジーとは「元型が表現された一つの形態である」と、C.G.ユングが指摘しているように、人類の無意識次元のイメージを言語によって表現した物語です。

元型」というのは、私たちの意識の下に潜む「無意識」を表象する、さまざまなイメージを、幾つかのキャラクターとして抽出したものですが、これらを結び付けて、一連の流れとしたもの、ミソロジーということです。

いいかえれば、認知世界の無意識的なドラマを、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系である「シンボル(象徴)」の連鎖によって表現したものともいえるでしょう。

③多様な現象を擬人化した主体群による複合的物語
多くの神話では、自然現象、動物、植物などを“擬人化”した、多様な主体によって、喜怒哀楽、対立和睦など相互関係が説明されています。
 

例えばギリシャ神話でいえば、カオス(空隙)、ガイア(大地)、タルタロス(暗冥)、エロス(美神)、エレボス(暗黒)、ニュクス(夜)から、天界の火を盗んで人類に与えたプロメテウス、地母神パンドラ、半人半神ヘラクレス、勇将アキレウス、ミュケーナイ王アガメムノン、絶世の美女ヘレネーまで、


また北欧神話では、昼の神ダグ、夜の神ノート、太陽の女神ソール、月の神マーニなど、さまざまな登場人物が、多彩なストーリーを演じています。

このことは、自然状況や人間関係の相互作用の中で、善悪的結果への理解や多様な変化への対応など、さまざまな相互関係を示唆しているといえるでしょう。


自然と人為の相互関係を識知
神話とは「人智の及ばぬ自然現象を、文章として説明する試み」(E.B.タイラー)という言説のように、多くの神話では、自然環境に対する人類の対応作法が述べられています。

例えばヴェーダ神話では、雷神インドラは人々から祭祀を受け、それと引き換えに恩恵をもたらす現世利益神、ヴァルナは神通力と幻術を用いて人々に賞罰を下す司法神などです。


また北欧神話では、軍神オーディンは死の神でもあるとともに、文字や魔法を教える知恵の神、ニョルドは風の動きを支配する神、女神フリッグは豊饒と人間の幸福を司る神など、それぞれの持つ人類への影響力が語られています。

自然現象を応用する人間活動の経緯

さまざまな神話の中には、多様なエネルギーの採集・利用・転換法などの識知的理解を促すものが多く含まれています。

インドネシアの死体化生神話に登場する女神ハイヌウェは、自らの死体から様々な種類のを生み出して人民の主食に与えています。

ギリシャ神話デメーテルは、トリプトレモスの種を与え、天から地上に農業を広めて回らせています。

日本神話のアマテラスオオミカミは、アメノオシホミミノカミ稲穂を持たせて地上に降ろし、稲作を始めさせています。

これらの意味するものは、自然エネルギーの農耕・牧畜への最適な転換を促すことであり、それこそが農業前波の人口容量に拡大可能性をもたらしたといえるでしょう。

以上のようなミソロジー観をベースにして、「時代識知」の立場から、農業前波の環境観や世界観を考えていきましょう。

2019年11月15日金曜日

農業前波はミソロジーが作った?

石器前波を創り出した「ディナミズム:dynamism」、石器後波を創り出した「インモータリズム:immortalismに続いて、3番目の人口波動である農業前波を生み出した時代識知とは一体どのようなものだったでしょう。

農業前波は「粗放農業文明」によって生まれた、B.C.3500年頃からA.D.400年頃に至る約4000年の波です。

この時代の人類はシュメール、インダス、ミノア、古代エジプト文明などに見られるように、「神話的な世界観(ミソロジー:mythology)」によって、人口容量を約2億6000万人まで増やしてきたと思われます。

「神話」(mythまたはmythology)の定義や内容については、古代ギリシャから現代に至るまで、歴史学、民俗学、文化人類学、心理学などの諸分野で研究されており、さまざまな言説が展開されています。

その中でも「ミソロジー:mythology」とは何かについて、有力な言説を展開しているのは、イギリスの文化人類学者、E.B.タイラー(1832~1917年)、スイスの心理学者、C.G.ユング(1875~1961年)、フランスの構造人類学者、C.レヴィ=ストロース(1908~2009年)などでしょう。







E.B.タイラーの言説
(詩的な伝説の形成者と伝達者)は祖先から受け継いだ思考と言葉を神々や英雄の神話的な生へと成形し、その伝説の構造のうちに自らの精神の働き示し、自分たちが生きた時代、正規の歴史ではその記憶自体が失われていることも多い時代の技芸や慣習、哲学や宗教を記録にとどめている。

神話とは、その作り手の歴史であって、それが語る内容の歴史ではない。 超人的な英雄たちの生ではなく、詩によって語る諸民族の生を記録しているのである.
     (『原始文化〈上〉』500p、奥山倫明他訳、宗教学名著選・国書刊行会)

C.G.ユングの言説

 神話とは何よりも心の表明であり、そこに表わされているものはこころ(ゼーレ)の本質である(中略)。

未開人は太陽が昇り沈むのを見ているだけでは満足しない。この外的な観察は同時にこころ(ゼーレ)の中の出来事でもなければならない。すなわち太陽の動きは、間の心の中に必ずや住んでいるはずの神や英雄の運命を示している違いないのである。

夏と冬、月の満ち欠け、雨季といったすべての自然現象の神話化は、これらの客観的な経験の比喩であるというよりは、むしろこころ(ゼーレ)の内的無意識的なドラマをシンボルによって表現したものである
                   (『元型論』30p、林道義訳、紀伊国屋書店)

C.レヴィ=ストロースの言説

神話の実体は、文体や話法の中にもまた統辞法の中にもなく、そこで語られる物語の内に見出される

神話は一個の言語であるしかし、きわめて高い水準ではたらく言語活動であって、そこでは、いってみれば、意味がまずその上で滑走をはじめた言語的基礎から、離陸することに成功するのである。

われわれが達した暫定的諸帰結を要約しよう。それらは三つある。


⑴神話が意味をもつとすれば、その窓味は、神話の構成にはいってくる個々の要素にではなく、それらの意味か結びつけられている仕方にもとづいている。

⑵神話は言語の種類に属し、その構成部分をなしている。とはいえ、神話の中で用いられる言語は特殊な諸性格を示す。

⑶これらの諸性格は、言語表現の通例の水準より上にしかもとめることができない。換言すれば、それらは、他の何らかの言語表現の中に見いだされるものよりも複雑な性質のものである。
 
              (『構造人類学』232p、川田順造他訳、みすず書房)

以上のような諸見解を参考にしつつ、時代識知としての「ミソロジー」の位置付けを改めて考えていきましょう。

2019年11月5日火曜日

インモータリズム(immortalism)の時代へ

石器前波を創り出した「ディナミズム(dynamism)=動体生命観」とは、【動体生命観が石器前波を創った!:2019年9月13日】で述べたように、

動いているものであれば、あらゆる物体に対して、「生き物」や「生命」を感じる、という時代識知でした。

いいかえれば、人類は「ディナミズム」によって、時間の推移とともに動いたり変化する、あらゆる物の中に「動力」や「活力」を認め、その延長上にそれらを生み出す「生命力」を想定していたのです。

これに対し、石器後波を創り出したと思われる「アニミズム(animism)」は、【
アニマは人間を超える!:2019年10月23日】で述べたように、

動いている諸物の主体は、すべてが意思を持ち、生死を超えた、不可視の存在である、とみなしていました。

要するに、「アニミズム」とは、前時代の「ディナミズム」の上に、①生命力のあるものはすべて意志や感情という意思」を持つ主体であり、②その主体は生死を超えて継続する、目には見えない存在である、という新たな観念を重ねたものでした。

こうした観念はいささか神秘的な特性とも思われるがゆえに、これまでは「アニマ(霊魂)」とか「アニミズム(汎霊説)」とよばれてきたのですが、客観的な識知論の次元に立てば、むしろ生死を超えた主体論「インモータリズム(immortalism:造語=生死超越観)」とでも名づけた方がふさわしいと思います。

ともあれ、以上のような特性を持つインモータリズムこそ、「石器後波」時代(B.C.9000~B.C.3500年頃)の時代識知、略して「石後識知」であった、と筆者は推定しています。


その理由として推定できるのは、石前識知のディナミズムが自然界のエネルギーを“一方向的”な動きとしてとらえていたのに対し、石後識知のインモータリズムでは“循環的”な動きとして理解しようとしていたことです。



ディナミズムでは、動いている物体に対して感じた「生命」力を、やはり“一方向的”な道具である石矢石槍などを利用して狩猟し、あるいは石核石刃を用いて採集して、自らの生命の維持や拡大に応用するという、いわゆる旧石器文明を創り出しました。

これに対して、インモータリズムでは、動いている生命力には意志や感情を持つ主体があり、目には見えないものの、生死を超えて循環的に存続していると理解したうえで、そのエネルギーをなど(農耕)、あるいは囲いなど(牧畜)を用いて“反復的”に利用し、村落住民の生命の維持や拡大に応用するという、いわゆる新石器文明を創り出しました。

ディナミズムからインモータリズムへ、人類は新たな時代識知の出現によって、より大きな人口容量を作り上げていったのです。

2019年10月23日水曜日

アニマは人間を超える!

「アニミズム」の7つの特徴を、「識知」論の視点から再検討しています。

今回は「霊魂」の超人間性、⑥超自然性、⑦霊的人格性の3つです。

この3つは、人間の特性として想定された「霊魂」を、人間以外の諸物へと大胆に展開してゆく論理を示しています。


 ⑤アニミズムは、人間の霊魂に類似する観念を、類推的に動植物や自然物など人間以外の諸存在にも押し広げ、広く認めるものである。

前回、提唱した【霊魂=主体(動体+意思)×(生前+死後)】のうち、主体を人間のみならず動植物や自然物などにまで拡大しています。

つまり、上記の数式の「主体」を次のように変えたのです。

霊魂=(人間+諸存在)×(動体+意思)×(生前+死後)

「識知」論的にいえば、人間とそれ以外の諸物をひとまず「分節化」し、そのうえで、改めて両者を「合節化」した視点、ともいえるでしょう。 

 
⑥霊魂はさまざまな物に宿っている限り、それらを生かしているが、物が死滅した後も、それらを超えて独自に存在し続けるから「超自然的存在(super-natural beings)とみなされる。
 
この特性は、上記の【霊魂=(人間+諸存在)×(動体+意思)×(生前+死後)】のうち、人間以外の諸物についても、(生前+死後)の項目を改めて確認するものです。

消滅してしまった物体は、人間の感覚による「認知」では捉えられませんが、言語能力による「識知」次元ではそのまま存続しています。

つまり、動物次元の「自然的存在」を超えて、人間特有の「超自然的存在」に昇華していく、ということです。

 
⑦さまざまな霊魂は通常、不可視的存在であるから「霊的(spiritual)とされ、人間と同じように喜怒哀楽の心意を持っているから「人格的(personal」ともみなされる。

霊魂は人間の感覚能力の「視覚」では捉えることはできませんが、言語能力が創り出した「幻想力」では「不可視」物として確かに捉えられていますから、そのこと自体が「霊的」とみなされるのです。

また霊魂は不可視であるにもかかわらず、「意思」を持った存在と理解されており、そのこと自体もまた「識知」次元の存在であることを意味しています。

とすれば、上記の数式は、次のように展開されるでしょう。

【霊魂=(人間+諸存在)×(動体+意思)×(生前+死後)=不可視+人格】

 


このようなアニミズムが、石器後波の人口容量をいかにして作り上げたのか、さらに考察を進めていきましょう。

2019年10月12日土曜日

アニマは人格を持って、生死を超える!

前々回のブログで抽出しておいた、「アニミズム」の7つの特徴を、「識知」観の視点から再検討してみましょう。

今回は「霊魂」の③精神性・人格性④個人・生死性です。


③「霊魂」とは、人間の物質的・身体的特質や機能に対し、精神的・人格的特質や機能を独立の存在としてとらえたものである。

この文章は「霊魂とは、人間の感覚器の捉えた“認知”的世界に対し、人間独自の言語的能力が捉えた“識知”的世界を独立の存在として“分節化”したものである」と言い換えることができます。

周りの環境世界を理解する時、人間は他の動物と同様に“種”に付属した感覚器により、それなりの世界を“認知”していますが、それに加えて人間独自の言語能力により、もう一つ別の世界を“識知”しています。

霊魂とは、こうした二重構造の存在を前提にして、初めて“識知”的世界が出現し、それが精神性や人格性を人類の「集団幻想」として、幅広く定着させたことを意味しているのです。

④「霊魂」とは、人間の身体に宿って彼を生かしているものであるが、その宿り場(身体)を離れても独自に存在しうるものである。

この文章は「霊魂とは、個人の感覚器の捉えた“認知”的世界が消えた後も、個人の言語的能力が捉えた“識知”的世界を引き続き存続させるものである」と言い換えることができます。

「霊魂」の存在によって、次の2つの事象が現れるということです。

一つは、集団と個人という主体の“分節化”です。霊魂の存在によって、人間や人類という集団的主体を分散させ、個人や私人という個々の主体を浮上させます。

もう一つは、生と死という区分の“分節化”です。霊魂の宿る主体の行動について、生存し目覚めている「生体(organism)」の“認知”に加え、死後や夢想の中にも継続する“識知”の「主体(subject)」を、改めて抽出しています。

この2つを数式で表わせば、

霊魂=主体(動体+意思)×(生前+死後)
ともいえるでしょう。


以上のように、③と④の特徴が示しているのは、「霊魂」という観念の発明によって、初めて“識知”的世界が独立し、その世界において個人という主体生死という観念が浮上したことです。


さらにいえば、そうした観念が当時の人々の間で共通認識となって、いわば霊魂」という「集団幻想」を定着させた、といえるのではないでしょうか。

2019年10月1日火曜日

時代識知としてのアニミズム

アニミズムを、石器後波を創り出した「時代識知」と考える時、「宗教」や「信仰」という先入観はひとまず棚に上げ、その性格や内容をあらためて確認することが必要です。

前回のブログで抽出しておいた、この観念の7つの特徴を、「識知」観の視点から再検討してみましょう。


①アニミズムとは、ラテン語の「気息」とか「霊魂」を意味するアニマ(anima)に由来する造語で、神霊、精霊、霊魂、生霊、死霊、祖霊、妖精、妖怪などさまざまな「霊的存在(spiritual beings)への信仰」を示す観念であり、宗教的な営為の最も原始的な形である。

先に述べた石器前波時代の時代識知と比べてみると、【ディナミズム(dynamism):動体生命観】が、動いている物体の全てに対して「生き物」や「生命」を認めるという、即物的な“識知”であったのに対し、アニミズムはそれらに加えて、さらに「気息」とか「霊魂」を認めるという、より観念的な“識知”です。

 「生き物」や「生命」という概念のうえに、「気息」や「霊魂」という、「意志」や「感情」を付加している、といってもいいでしょう。

その意味では、アニミズムとは「生命」+「意思」を意味することで、物質次元に“人格”的な精神次元を重ねた時代識知なのです。

②当時の人々は、死、病気、恍惚、幻想、とりわけ夢などにおける浮遊体験を省みて、身体から自由に離脱しうる非物質的な実態=「霊魂(soul)」の存在を確信していた。

この文章は「霊魂とは認知”的世界と“識知”的世界の隙間から生まれるものだ」と言い換えることができます。

人間は言語能力を持ったがゆえに、感覚の把握した“認知”的世界と、言語に置き換えられた“識知”的世界の、両世界の間に、微妙に両方の入り混じった、曖昧な世界を生みだしました。

感覚では確かに捉えているものの、言葉では表現できない、未言語的、無意識的な表象次元です。

そこで、人間は言葉に代えて、イメージ、カラー、サウンドなど、非言語的な表象によって、それらを表わそうとします。

それらが表わすのものが、言葉に代わるシンボル(象徴)や、シンボルが絡み合ったミソロジー(神話)ということになります。

これこそ「霊魂」の発生源です。つまり、頭脳の中で言葉にならないまま、自由奔放に浮遊する認識行動を、あえて「霊魂」と名づけたということです。

とすれば、「霊魂」という概念もまた、“識知”的世界の生み出した、一つの結果ともいえるでしょう。




こうした発想の背後には、言語による世界識知が人間集団に共通の認識能力として定着したことによって、「霊魂」的発想が、当時の人々の間に集団幻想仮想現実として広く認められたという事情が読み取れます。

2019年9月25日水曜日

石器後波はアニミズムが作ったのか?

前回までの石器前波に続き、今度は石器後波を創り出した「時代識知」について、さまざまな視点から考えていきます。

石器後波」はB.C.9000年ころに始まる約5000万人の波ですが、これを創り出した「時代識知」とは、【
人口波動は5重の精神史を示す!:2019年3月15日】で述べましたように、人類学などで考察されている「アニミズム(animism)が最も近いのでは、と筆者は推定しています。

もっとも、この理論の主張する「霊的存在への信仰」とか「宗教の原点」などという「宗教」論はできるだけ排除し、当時の人々がどのように周りの世界を理解していたか、という「時代識知」を抽出してみたいと思います。

当時の人々の世界観を後世の人間の世界観で判断して、自分たちの識知とは異なっているから、宗教とか信仰など、別次元の観念と決めつけるのは甚だ不当だと思うからです。

さて、アニミズムとは、周知のように、1871年、イギリスの人類学者、E.B.タイラーがその著書『原始文化(Primitive Culture)』の中で提起した観念であり、生物・無機物を問わず、あらゆるモノの中に霊魂あるいは霊が宿っている、という考え方です。

 

この理論の主な特徴を、先学諸賢のさまざまな解説をベースにしつつ、とりあえず整理しておきましょう。

①アニミズムとは、ラテン語の「気息」とか「霊魂」を意味するアニマ(anima)に由来する造語で、神霊、精霊、霊魂、生霊、死霊、祖霊、妖精、妖怪などさまざまな「霊的存在(spiritual beings)への信仰」を示す観念であり、宗教的な営為の最も原始的な形である。

②当時の人々は、死、病気、恍惚、幻想、とりわけ夢などにおける浮遊体験を省みて、身体から自由に離脱しうる非物質的な実態=「霊魂(soul)」の存在を確信していた。

③「霊魂」とは、人間の物質的・身体的特質や機能に対し、神的・人格的特質や機能を独立の存在としてとらえたものである。

④「霊魂」とは、人間の身体に宿って彼を生かしているものであるが、その宿り場(身体)を離れても独自に存在しうるものである。

⑤アニミズムは、人間の霊魂に類似する観念を、類推的に動植物や自然物など人間以外の諸存在にも押し広げ、広く認めるものである。


霊魂はさまざまな物に宿っている限り、それらを生かしているが、物が死滅した後も、それらを超えて独自に存在し続けるから「超自然的存在(super-natural beings)」と見なされる。

⑦さまざまな霊魂は通常、不可視的存在であるから「霊的(spiritual)」とされ、人間と同じように喜怒哀楽の心意を持っているから「人格的(personal)ともみなされる。

以上のようなアニミズム観をベースにしつつ、「時代識知」の立場から、石器後波の環境観、世界観を考えていきましょう。

2019年9月13日金曜日

ディナミズム=動体生命観が石器前波を創った!

ディナミズム(dynamism」は、「万物生命観」というよりも、「動体生命観」と名づけるべきかもしれません。

動いているものであれば、あらゆる物体に対して、「生き物」や「生命」を感じるという識知であるからです。

五感の「
認知」した内外、明暗、遠近などを、人類特有の「識知」能力で自他、昼夜、天地などに「分節」したうえで、それらが「時間」の推移とともに少しずつ変化することを知って「動」と「不動」を分節し、その起因を「活力」、さらには「生命力」とみなしたのではないでしょうか。

その結果、この時代の人々は、人間、鳥獣、昆虫、樹木、花々などはもとより、天空を横切る太陽や月、雲や風、雨や雪や雷などを、あるいは地上に広がる海原や大河、波濤や風力や野火、転がる岩や流れる枯れ木などにも、「生きている物」や「生命」を読み取っていたものと思われます。

このような「動体生命観」によって、彼らは周りの自然環境を理解したうえで、さらには積極的にそれらへ働きかけ、一定の「
人口容量:Population Capacity」を創り出そうとしました。



例えば、不動の「石」に人力の「動」を「合節」化することで「石礫」や「石矢」という「生命力」を創り出し、それによって果実や獲物という、新たな「生命力」を獲得し、自らの「生命力」に「合節」化することに成功しました。

あるいは雷や野火という「生命力」を「調理」という行動と「合節」化することで、自らの「生命力」を増加させることに気づきました。

彼ら一人一人の行った、このような「合節」化行為が積み重なって、「狩猟・漁猟・採集」文明が形成され、この時代に生きた人々の人口の上限、つまり器前波の「人口容量」が生み出されたものと推定されます。

考古学の定説によれば、旧石器時代(約260万年前~約1万年前)は、前期(約260万年前~- 約30万年前)、中期(約30万年前~ 約3万年前)、後期(約3万年前~ 約1万年前)に分けられていますが、クロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が主流となった後期以降に石器が急速に高度化・多様化したといわれています。

人口波動上の「
石器前波」(BC40000年=3万年前~BC9000年=約11000年前)を創り出したのは、まさしく以上のような「動体生命観」、つまり「石前識知」であった、といえるでしょう。

2019年9月5日木曜日

アニマティズム(animatism)よりディナミズム(dynamism)がふさわしい!

前回【アニマティズムという時代識知:2019年8月24日】で紹介したように、イギリスの人類学者、R.R.マレットは原始社会の世界観として「アニマティズム(animatism)を提唱し、「人間、事物、動植物、諸現象の作用や活動とは、活力、威力、生命力、呪力、超自然力である、と感じる心理や態度である」と説明しています。

さらに「活力や生命力という観念が、歴史的にも心理的にも霊魂や精霊という観念に先行している」とも述べていますから、別名である「ディナミズム(dynamism:学術用語としてはダイナ・・・ではなくディナ・・・)の方がよりふさわしいのか、とも思います。



この「ディナミズム(dynamism)」こそ、「石器前波」時代(BC40000~BC9000年頃)の「時代識知」、略して「石前識知」であった、と筆者は推定しています。

宇宙や地球という自然環境に放り込まれた人間は、まずはその身に備わる五感、つまり「認知」能力によって内外、明暗、遠近などを捉え、そのうえで言語、つまり「識知」能力によって、自他、昼夜、天地などを「分節」したのではないか、と思います。

つまり、「混沌」とした世界を見分けるには、まずは「」と「」を分節し、続いて「自」は「」と「」に、「他」は「」と「」に分け、そして「物」は「空間」と「時間」に分節することが必要でした。

「空間」の上に識知された、さまざまな「物」は、時間」の推移とともに少しずつ変化しますから、その変化を引き起こすものが「動力」であり、それを生み出すのが「活力」、さらには「生命力」ではないか、と考えたのでしょう。

このような経緯によって、「石前識知」は時間の推移とともに動いたり変化する、あらゆる物の中に「動力」や「活力」を認め、その延長上にそれらを生み出す「生命力」を想定していたのです。

この「石前識知」を、先に【
時代識知」の要件を考える!:2019年6月3日】で挙げた、5つの要件によって確認してみましょう。

①「認知」次元ではなく、「識知」次元を捉える言語網。

五感の「認知」した環境世界の事物のそれぞれを、「可動」か「不動」か分節化し、前者を「活力」や「生命力」のあるものとして「識知」しています。

②「言(こと)分け」による言語表現と未言語表現の両面を捉える言語網。

「可動」する対象を「活力」や「生命力」として言語化する一方、「不動」な対象については「静止」や「死」として潜在化させています。

③網状(networking)の「システム(system)」ではなく、分節的(articulating)な「構造(structure)」を捉える言語網。


ディナミズムは、周囲の環境世界を「動」か「静」の既定の網よって仕分ける関係的な識知行動ではなく、「動かない」ものの中に「動く」ものを身分ける分節的な識知行動です。

④世界を理解する受動的な次元に加え、世界に働きかける能動的な次元もまた意味する言語網。


ディナミズムは、さまざまな物質の中に「活力」や「生命力」として認めるとともに、それらを動かそうとする意識の存在を認めています。

⑤学問、思想、科学などの次元を超えて、より根底的な認識次元を捉える言葉。


ディナミズムは、学問、思想、科学などの理念的な言語次元はもとより、霊魂や精霊など宗教的な言語次元もまた超えて、環境に対する人間の素朴な認識次元を示しています。

以上のような「石前識知」の登場によって、人類初期の人口波動である「石器前波」が瑞々しく生み出されたものとわれます。

2019年8月24日土曜日

アニマティズムという時代識知

石器前波を生み出した「時代識知」に最も近い観念とは、人類学などで使われている「アニマティズム(animatism)」ではなかったか、と筆者は推定しています。

イギリスの人類学者、R.R.マレット(Robert Ranulph Marett:1866~1943)が提唱した観念形態で、「プレアニミズム(pre-animism」、「マナイズム(manaism)」、「ディナミズム(dynamism」ともよばれています。


アニマティズムとは、動植物のみならず無生物や自然現象など、すべてのものに生命があり,生きている、とする考え方です。

アニマ(anima)とは 霊魂を意味するラテン語ですが、アニマティズムでは、霊魂の存在は否定したうえで、生命は認めると考え方が、人類の初期段階に存在した、と主張しています。


「人間、事物、動植物、諸現象の作用や活動とは、活力、威力、生命力、呪力、超自然力である、と感じる心理や態度である」と考えて、「活力や生命力という観念が、歴史的にも心理的にも霊魂や精霊という観念に先行している」と述べられています(Pre-animistic Religion:1900) 。

マレットによると、メラネシアやポリネシアの先住民が抱いているマナ(mana)という観念は、超自然力や呪力であり、神や人間はもとより自然現象全てに含まれており、物から物へと転移していきます。例えば戦士が敵を倒せるのは、槍に強力なマナが付加されているからです。

南アフリカのコーサ人(Xhosa)は、暴風が吹きよせる時には、丘に登って風の進路を変えるように呼びかけます。暴風に霊魂を認めているのではなく、暴風そのものを生き物とみなして反応しているからだ、と説明しています


要するに、未開時代の人間は、動物や事物そのものを非人格的な威力や活力を認めたうえで、それらに情動的に反応し、驚異や恐怖、さらには尊敬や畏敬の念を抱いていた、と考えているのです。

マレットの「アニマティズム」は、彼の師であるE.B.タイラー(Edward Burnett Tylor: 1832~1917)の提唱した「アニミズム(animism)」を補完するものとして提起されました。

タイラーのアニミズムは、人物や事物その他に宿り、その宿り場を離脱できる霊魂や精霊を意味しており、これこそ宗教の起源とみなすものです。

これに対してアニマティズムは、霊魂や精霊のような観念的な実態が識知される以前に、人間が事物や現象に情動的に反応して、「生きている=力」ととらえた段階があったと主張しているのです。

アニミズムが事物や現象に内在する霊魂や精霊などの霊的存在を強調しているのに対し、アニマティズムは万物に潜んでいる活力や作用の面に注目した、ともいえるでしょう。

両説の違いについては従来、宗教や信仰の比重という視点から議論されてきました。

マレット自身の提起もまた、宗教の動的な面と呪術的要素を重視して、霊的存在への信念にまで抽象化されていない状態を、狭義のアニミズムとは区別するため、新たにアニマティズムという類型を設定したもの、とも解釈されています。

しかし、当ブログが議論している「時代識知」という視点から見る時には、アニマティズムについても、宗教や呪術などの既成の観念範疇を一旦離れて、純粋に環境把握の差異分節化と合節化の違いとして考えていくことが必要ではないか、と考えています。

その意味では、「アニマティズム(animatism)」というより、「ディナミズム(dynamism)という名称の方がふさわしいのかもしれません。

2019年8月19日月曜日

ホモ・サピエンスは何時から言語能力を持ったのか?

人類はどのように環境世界を理解してきたのでしょうか。

およそ240万年前に生まれた原人、約35万年に生まれた旧人に続き、25万年前に現れ現在に至っている新人は、それぞれに応じた捉え方で周りの世界を理解してきたものと推定されます。

このうち、私たち新人ホモ・サピエンス(homo sapiens)の世界理解は、時代の流れとともに少しずつ変わってきたようです。

ホモ・サピエンスという生物の特性である「認知」能力「識知」能力、この2つの能力の変化や向上によって、世界理解の対応はさまざまに変わってきたからです。

とりわけ後者の「識知」能力の変化は、自然環境として与えられている環境世界をどのように利用するかによって、人類が棲息できる上限値、つまり「人口容量」を変えてきました。

その軌跡をおおまかに振り返ってみると、【
人口波動は5重の精神史を示す!:2019年3月15日】に示したように、5回ほど大転換をなしとげてきました。

このうち、最初の波動である石器前波(BC40000~BC9000年)を生み出したのは、おそらく「アニマティズム(animatism)」や「プレアニミズム(pre-animism」といった「認知」革命であった、と思われます。

この識知革命はほぼ間違いなく、言語能力の発達によって生み出された、といえるでしょう。

自然言語の起源については、およそ5万年前に起こった頭脳の突然変異の結果である(不連続性理論:チョムスキー:Avram Noam Chomsky)とか、人類の超長期的な情報処理能力の蓄積の結果である(連続性理論)、などの諸説があります。

そこで、考古学、人類学、神経生理学など十数冊の文献を踏査してみましたが、その中でS.オッペンハイマーの著作(『人類の足跡10万年全史』( Stephen Oppenheimer:Out of Eden: The Peopling of the World:2003に、以下の表現を見つけました。




(本書について通俗本とのご批判もありますが、筆者は学術書にも通俗本にもこだわらない性分ですので、敢えて引用させていただきます。)

要するに、哲学者が現生人類とチンパンジーのあいだの質的なちがいとして出してきた精神的、実用的な技術のうち、残るのは人類が話すことだけなのだ。

知的能力に大きな量的ちがいはあるが、類の知力は3万5000年前のヨーロッパの上部旧石器時代にとつぜん開花したわけではなく、それ以前の400万年にわたって進化してきた。

過去300万年のあいだ、人類は脳を使い、歩く類人猿のモデルを改良してきたが、話すことにうながされた脳の大きさの共進化が、その助けになったのかもしれない。

象徴的な概念などを操作する人類の新しい脳の高い能力は、話すこと以外の複雑な仕事へもむけられた。

いずれにしろ5~3万年前ころに起こった言語能力の発達が、4万年前からの人口増加を引き起こしたものと思われます。

この言語能力によって外部環境の分節化が次々に行われるようになり、それにつれて石器前波を支える「時代識知」が組み立てられ始めました。

それが同時代の人類に定着するにつれ、アニマティズムプレアニミズムとよばれるような「時代識知」が初めて生み出されたものと推定されます。

2019年8月4日日曜日

「識知」は根底的な認識行動!

「時代識知」という言葉に求められる、第5の要件は「学問、思想、科学などの次元を超えて、より根底的な認識次元を捉える言葉である」ことです。

「識知」という言葉を誰が使ったのか?2019年6月13日】で述べたように、M.フーコーは「savoir」(識知:中村雄二郎訳)という言葉を、「一つの時代、一つの文化の共通の基盤をなす認識系ともいうべきもので、個々人の知識や思想を超えて存在するもの」として使っているようです。

人間という動物は、【
「識知」と「認知」の差を考える!:2019年6月22日】で触れたように、「認知」+「識知」という、二重の知覚処理能力によって周りの環境世界を理解しています。

この二重構造によって、環境世界は最初に「認知」行動によって「モノ界:ピュシス:physis」として把握され、次に「識知」行動によって「コト界:コスモス:cosmos」として把握されます【
「識知」が作り出す、3つの世界とは・・・:2019年7月5日】。

だが、「識知」が把握できなかった領域は「コトソト界:カオス:chaos」として残ったままです。

それゆえ、私たちの対面している、現実の世界とは、コスモスとカオスのせめぎ合う「モノコト界:ゲゴノス:gegonós」ということになります。
 
コスモスの内側において、「識知」という行動は【システム(体系)でなくストラクチャー(構造)で捉える! 2019年7月17日】で示したように、全体を点と線で把握する「システム」としてではなく、全体を分割された面で把握する「ストラクチャー」として作動しています。

またストラクチャーを造り出す「識知」行動は、【
分節化から合節化へ!:2019年7月26日】で書いたように、一方では「分節化」として対象を分割しますが、他方では「合節化」として対象を合体させるという、両面性を持っています。

以上のように、「識知」という行動は、「言語」という、人類独自の知覚装置によって環境世界を認識する行動です。

それがゆえに、学問、思想、科学などの高度な認識次元はもとより、学習や訓練などの行動次元、さらには衣食住から遊びや休養までも含む日常次元までの、あらゆる次元も含む、より根底的な認識基盤である、といえるでしょう。

「識知」は人類の根底的な認識行動を意味していますが、その認識パターンは時代とともに少しずつ変化してきました。この変化を一定の時間で区切った時、時代毎の「識知」構造が見えてきます。

これこそ「時代識知」という言葉が究極的に意味するものです。

2019年7月26日金曜日

分節化から合節化へ!

「時代識知」という言葉に求められる、第4の要件は「世界を理解する受動的な次元に加え、世界に働きかける能動的な次元もまた意味している」という事項です。

第3の要件であった、世界を「分節的(articulating)なストラクチャー(structure)」で捉える行為というと、さまざまな対象を言葉によって細かく分節化することで理解を深めていく、というように、どちらかといえば、受動的な行為のように思われがちです。

しかし、言葉による「識知」には、まずは「分節化」で仕分けした対象へ、今度は「合節化(conjugating)」によってさまざまに組み合わせるという能動的な側面があります。

「合節化」という言葉は、哲学史や思想史の中で当然使用されていると思っていたのですが、浅学菲才の筆者の探索では見つかりませんでした。それゆえ、この言葉は筆者の造語ですので、以下はその前提でご笑覧ください。

具体的な事例を挙げておきましょう。

①「」という対象を分節化した「石刃」と、「」を分節化した「」を「合節化」することで、新たな対象「石槍」を創り出します。

②「」という対象を分節化した「粘土」と、「物いれ」を分節化した「」を「合節化」することで、新たな対象「土器」を創り出します。

③「」という対象を分節化した「家畜」と、「山野」を分節化した「牧地」を「合節化」することで、新たな対象「牧畜」を創り出します。

④「大気」を分節化した「蒸気」と、「動き」を分節化した「回す」を「合節化」することで、新たな対象「蒸気機関」を創り出します。

①と③を図化しておきましょう。


つまり、「識知」という行為は「分節化」と「合節化」の合体したものということができるでしょう。

それゆえ、「識知」によって、新たな技術新たな考え方、つまり新たな文明が生み出されることになるのです。

これこそ「時代識知」という言葉が求めてきたターゲットの一つでしょう。

人類の発展は言葉によるものか道具によるものか、という議論があちこちで行われていますが、以上のような視点に立てば、道具の発展の前に言葉による思考があったと考えるべきでしょう。

勿論、ここでいう「言葉」には、【
識知」が作り出す、3つの世界とは・・:2019年7月5日】で述べましたように、言語に育つ前の未言語も含まれています。

つまり、「言葉」能力とは未言語を含む識知状態、いわば想念や観念を意味しているのです。

2019年7月17日水曜日

システム(体系)でなくストラクチャー(構造)で捉える!

「時代識知」という言葉に求められる要件について、第1は「認知」次元でなく「識知」次元で捉える、第2は言語表現と未言語表現の両面を捉える、などと述べてきましたので、第3に移ります。

第3の要件は、網状(networking)の「システム(system)」ではなく、分節的(articulating)な「ストラクチャー(structure)」で捉える、ということです。

システム」と「ストラクチャー」はどのように違うのでしょうか。

「システム」という言葉は、ギリシャ語syn(共に)とhistanai(置く)の合成語systēmaに由来し、一つの対象を部分部分(要素)が結合して構成される全体として認識する状態を意味しているようです(平凡社/世界大百科事典・第2版)。



一方、「ストラクチャー」は、ラテン語のstruo(組み立てる)と-tura(もの)の連結が語源ですが、struoは印欧語根 sterh-(広げる)が語源のようです(語源英和辞典)。


システムとストラクチャーの比較については、現代言語学の父、F・ド・ソシュールの立場、いわゆる「構造主義」に立つと、図に示したような差異が見つけられます。



つまり、システム(体系)とは全体を点と線で把握する観念であるのに対し、ストラクチャー(構造)とは分割された面で把握する観念ということです。

このような視点に立つ時、「システム」と「ストラクチャー」の間には、次のような違いが表れてきます。
 
①「システム」では、個々の要素を想定したうえで、それらが繋がった網として全体を把握しますが、「ストラクチャー」では全体をまず一つの要素で分割(分節)し、さらに次の要素でも分割するなど、次々に分割を続けることで全体を把握していきます。

②巨大な対象をとりあえず全体的に把握するには「システム」が適していますが、すべての対象とりこぼさず把握するには「ストラクチャー」の方が適しています。

特定の目的を達成するには、体系的な「システム」が適していますが、全体的・本質的な中身をつかむには構造的な「ストラクチャー」の方が適しています。

以上のように、「システム」が全体から漏らした分野を、そっくりつかみ取ることができる概念こそ「ストラクチャー」ということになります。

この発想こそ、「言葉が識知の仕組みを決める」という「構造主義」の原点になっているものです。

それゆえ、「識知」という行動もまた「ストラクチャー」の視点に立つことが求められるでしょう。

2019年7月5日金曜日

「識知」が作り出す、3つの世界とは・・・

識知」とは、動物類に共通する「身(み)分け」能力=「認知」で理解した「モノ」的世界を、人間が彼ら特有の「言(こと)分け」能力で捉え直し、「コト」的世界として理解することだ、と述べてきました。

このように書くと、「識知」が把握する対象とは「コト」的世界の内側だけだ、と思われるかもしれませんが、そうではありません。
 
「言分け」とは、「言葉」という認識装置によって、周りに広がる環境世界を理解することですが、その名称どおり「言葉」によって捉えられる領域捉えられない領域を「仕分ける」ことを意味しているからです。

つまり、言葉という認識装置の内側に入り「コト」となった対象と、内側に入らないで「モノ」的世界に残ったままの対象の、2つに仕分けられる、ということです。

このように「言分け」を理解すると、その具体的な行動である「識知」もまた、言葉で把握される対象と把握されない対象を生み出すことになります。

つまり、「識知」とは、言語で表現できる言語世界と、言語では表現できない、未言語世界の、両方の世界を生み出す行動ということです。

別の表現をすれば、筆者の別のブログ
【生活学マーケティング】で詳しく述べているように、人間という種はそれが持つ本能の「身分け」能力によって、「物界=フィジクス:physics」から「モノ界=ピュシス:physis」を捉えます。そのうえで、さらに独自の「言分け」能力によって、改めて言葉によって理解される限りでの「コト界=コスモス:cosmos」を作り上げています。

この時、「言分け」の網の目によって、モノ界からコト界へくみ上げられなかったものが「コトソト界=カオス:chaos」になります。

 
このような仕分け行動こそ「識知」の本質だと理解すれば、それが把握する世界は次のように分かれてきます。
 
 ①「識知」によって「モノ界=ピュシス」の中から「コト界=コスモス」が識別され、それとともに、私たち人間の内部には意識自我もまた生まれてきます。

②「識知」できなかった「モノ界=ピュシス」の部分は、そのまま「コトソト界=カオス」として浮遊していますが、この部分がエス(心の無組織状態)無意識という形で心の底に沈潜していきます。

③「識知」という認識行動によって、私たちの生きている、現実の世界は、コスモスとカオスのせめぎ合う世界、あるいはモノとコトの行き交う世界、つまり「モノコト界=ゲゴノス(gegonós)」となります。

以上のように、「識知」を「認知」から分けることによって、私たちは周りの環境世界より正確により柔軟に仕分けることができるようになるのです。