コロナ禍のインパクトを探るため、黒死病の影響を最も強く受けた西ヨーロッパの先例を調べてきました。
最後に述べた「時代識知」が「生産構造」や「社会構造」に、どのような影響を与えたかを確認しておきましょう。
上の図の諸関係を説明します。
①時代識知で述べた3つの事象のうち、「三位一体エネルギー観」は生産構造の「農業+牧畜」と「三圃制」へ、「神地二国論」は社会構造の「教会・王権並立制」と「封建制」へ、「教団組織化」は生産構造の「集団生産制」へ、それぞれ影響を与えたと思われます。
②生産構造であげた4つの事象では、「農耕・牧畜」が「三位一体エネルギー観」に支援されつつ、「三圃制」「鉄製農機具」「集団生産制」と合体して、中世欧州の人口容量を作り出したうえ、「集団生産制」が社会構造の「村落共同体」を生み出すなど、全体として社会構造を維持していきます。
③社会構造に含まれる3つの事象では、「教会・王権並立制」と「封建制」が「神地二国論」や生産構造全体に基盤をおきつつ、「純粋荘園制」が「集団生産制→村落共同体」を構成要素として、それぞれ成立しています。
以上のように整理したうえで、黒死病(1347~1351)が時代識知にどのようにインパクトを与えたのか、を考えてみましょう。
❶三位一体エネルギー観・・・寒冷化と黒死病で限界化
神として存在する宇宙エネルギー(父)を明確に捉えたイエス(子)が、さまざまな分野に応用しようとする主体(精霊)である、という動力譜の観念に支持されて、農業後波の生産構造は作り上げられていました。
しかし、1300年代初頭から始まった小氷期による寒冷化の影響で、生産構造の中核である農耕牧畜には大きな被害が発生し、頻発する飢饉によってヨーロッパでは1307年ころから飢饉や伝染病が広がり始め、1315~17年には150万人もの餓死者が出ていました。
そこに黒死病が襲ってきたため、1340年前後に約7,400万人に達していた人口は、その後10年間で約5,100万人へと急減し、以後1500年ころの6,700万人まで低迷していきます。
この背景をマクロに見れば、11世紀以降の大開拓時代が終わり、中世の農業革命の成果も一応出尽くして、人口容量がそろそろ飽和に向かったという事情が考えられます。
1300年を過ぎるころには、農地は条件の悪い土地にまで広がって、食糧生産力が飽和状態に近づいていましたから、気候が少し悪化しただけで、直ちに凶作と飢饉が現れたのです。
黒死病の大流行は、以上のような農業環境の悪化とそれに伴う栄養・衛生状態の混乱につけいったものでした。
これに伴って、三位一体エネルギー観にも諦観が漂い始め、その限界を示すことになったといえるでしょう。
❷神地二国論・・・調停役喪失と黒死病禍で権威失墜
黒死病の広がる前から、イギリスとフランス間で百年戦争(1339~1453)が始まっていました。
その背景には、それまで王侯間の調停役を務めていたローマ教皇が、1308年のフランスのアヴィニヨンに幽囚されていたため、クレメンス5世(在位:1305~1314)ももはや介入できなくなった、という事情がありました。
これに加えて、1348年1月頃からアヴィニョンにも黒死病が広がったため、3代後のクレメンス6世(在位:1342~ 1352)も瀕死の病人全てに赦免を与え、病気の原因を探るために死体解剖を医師に許可するなど、さまざまな努力をしましたが、ほとんど効果がなく、同年5月にはアヴィニョンを捨て北北東へと避難しました。
二つの事情が重なって、ローマ教皇の権威は次第に失墜し、3代後のグレゴリウス11世は1377年にローマへ戻りましたが、翌年没したため、1378~1417年の間、ローマ教会はアヴィニヨンとローマに大分裂となって、キリスト教の威光は大きく低下しました。
❸教団組織化・・・村落共同体の解体化
キリスト教の組織的な宗教集団化は、生産構造の集団生産制や社会構造の純粋荘園制などを醸成する基盤となっていました。
「純粋荘園」では、土地を農民(農奴)に貸し与える「開放農地化」が進み、農民自身が余剰生産物を商品化して、そこで得た貨幣を地代として上納するという形態、つまり貨幣地代が一般化していました。さらに耕地や共同牧場の管理の必要性から、農村の「村落共同体」の形成が促されていました。
しかし、百年戦争による社会的混乱に加え、黒死病の流行によって、農民人口が激減すると、労働力不足に悩んだ領主層は農民の移動の自由を奪って、再び農奴制を強化しようとしました。
そこで、農民層は農奴解放による自由を求めて、1358年のフランスのジャックリーの乱、1381年のイギリスのワット=タイラーの乱など、農民反乱を引き起こしました。
二つの反乱は間もなく鎮圧されましたが、この動きが農民一揆として長期的に継続するにつれて、農奴から解放され、自由を獲得した自営農民層が次第に増えていきました。
それとともに、貨幣所得の上昇に促されて、農村から都市へと移動する農民層も増加し、中世的な村落共同体は次第に解体されていきました。
以上のように、中世西欧の農業後波を担った、キリスト教を基盤とする時代識知は、黒死病による衝撃で急速に脆弱化し、人口容量の限界を露呈することになりました。
黒死病がもたらしたのは、単なる人口減少を越えて、社会構造そのものの溶解だったのです。
とすれば、今回のコロナ禍が壊すのは、一体どのような識知なのでしょう?