黒死病と農業後波のトータルな関係については、前々回の【黒死病・・・人口急減の引き金を引いた!】で一通り眺めてきましたが、より深く見直すには、最も影響を受けた西ヨーロッパの状況を考察する必要があると思います。
そこで、西ヨーロッパを対象に、農業後波の成立状況、つまり【自然環境×集約農業文明】で作られた、史上3番目の人口容量の成立条件について、さまざまな要素間の関係を整理してみると、下図のようになります。
この図の中からまずは、集約農業文明の生み出した「生産構造」について、農耕・牧畜、三圃制、鉄製農機具、集団生産制など諸要素の関連を考えてみましょう。
①農耕・牧畜(Farming and livestock)
①農耕・牧畜(Farming and livestock)
最も基本となる生産要素は、一つ前の農業前波を支えた粗放農業技術を巧みに継承・発展させた、集約的な農耕と牧畜である。
農耕では整地された畑で、大麦、小麦、オート麦、ライ麦などが、さまざまな野菜や果物とともに栽培されていた。
牧畜では休耕地を利用した牧草地で、羊が羊毛(衣料)用に、豚が食肉用に飼育され、さらに牽引用動物として牛と馬が使用されていた。
農耕では整地された畑で、大麦、小麦、オート麦、ライ麦などが、さまざまな野菜や果物とともに栽培されていた。
牧畜では休耕地を利用した牧草地で、羊が羊毛(衣料)用に、豚が食肉用に飼育され、さらに牽引用動物として牛と馬が使用されていた。
② 三圃制(three fields system)
9世紀頃までは、南ヨーロッパ型二圃制農業(二分した小耕地の一方に麦を作付け、他方を休耕として、一年ごとに入れ替える農法)を続けていたが、10~11世紀になると、北ヨーロッパの気候風土(夏雨型)に適した三圃制農業が拡大した。
三圃制とは、耕地を三分割して、春耕地(春蒔き―夏畑―秋収穫)では豆・燕麦・大麦を育て、秋耕地(秋蒔き―冬畑―春収穫)では小麦・ライ麦を栽培し、後の一つを休耕地として、毎年毎に替えていく農業形態をいう。
休耕地を家畜の共同放牧に利用することで、人工的な肥料を用いなくとも地味を維持することが可能となった。
三圃制とは、耕地を三分割して、春耕地(春蒔き―夏畑―秋収穫)では豆・燕麦・大麦を育て、秋耕地(秋蒔き―冬畑―春収穫)では小麦・ライ麦を栽培し、後の一つを休耕地として、毎年毎に替えていく農業形態をいう。
休耕地を家畜の共同放牧に利用することで、人工的な肥料を用いなくとも地味を維持することが可能となった。
③鉄製農機具(Iron farm equipment)
12世紀頃、木製の犂(すき)を牽引する家畜が牛から馬に代わるにつれて、耕作スピードが次第に向上した。
13世紀になると、農村に生まれた鍛冶屋が鋤の刃や斧など鉄製農機具を供給するようになり、大型の重量有輪犂(Heavy wheel plough)を登場させた。
11~12世紀には、水車や風車という、新たな動力も登場し、人力や畜力に頼っていた粉ひきや脱穀などを代替して、生産性を大幅に向上させた。
13世紀になると、農村に生まれた鍛冶屋が鋤の刃や斧など鉄製農機具を供給するようになり、大型の重量有輪犂(Heavy wheel plough)を登場させた。
11~12世紀には、水車や風車という、新たな動力も登場し、人力や畜力に頼っていた粉ひきや脱穀などを代替して、生産性を大幅に向上させた。
④集団生産制(Group production system)
ヨーロッパ中世の荘園制下の農村では、個々の農民(農奴)は個別には耕地を所有せず、村落全体で耕地を2~3に分割し、それをさらに帯状の耕地に細分して、各自が耕作するという開放耕地制がとられていた。
10~11世紀に「三圃制」が普及した結果、12~13世紀には村の耕地を区画整理して村落共同体として共同耕作するようになり、農民は重量有輪犂を家畜に引かせて耕作するようになった。
三圃制と重量有輪犂の普及で、耕地の開放耕地化が進むにつれ、担当耕地や共同牧場の規制や管理の必要性が増加したため、集団生産体制をめざす村落共同体の形成がいっそう促されていった。
10~11世紀に「三圃制」が普及した結果、12~13世紀には村の耕地を区画整理して村落共同体として共同耕作するようになり、農民は重量有輪犂を家畜に引かせて耕作するようになった。
三圃制と重量有輪犂の普及で、耕地の開放耕地化が進むにつれ、担当耕地や共同牧場の規制や管理の必要性が増加したため、集団生産体制をめざす村落共同体の形成がいっそう促されていった。
以上のように、中世西ヨーロッパの集約農業構造は、新たな農業技術と集団体制によって支えられていたようです。
この構造がいかなる「社会構造」を作り上げていったのか、さらに考えていくことにしましょう。
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