2020年3月3日火曜日

大乗仏教という観念体系

前回述べたような、「煩悩からの解脱」を基本教義とする仏教が、多様な教団に分かれて対立したり、多数の僧兵を組みして争ったり、時の政権と結びついて大仏像を作り上げていく。・・・いったいそのエネルギーどこから生まれてくるのでしょうか。

時代識知の視点から見ると、原始仏教とその後に進展した後期仏教の間には、かなりの変化が指摘できるようです。

筆者の理解する範囲でいえば、大きな変化は次の3つでしょう。

小乗仏教から大乗仏教へ・・・利己から利他への変化

シッダールタの死後、その教義を継ぐ教派教団は上座部大衆部など多くの派閥(部派教団)に分かれて論争を続けていましたが、紀元前後により実践的で民衆的な大乗仏教が興りました。

大乗仏教は、それまでの部派教団の利己的・独善的なあり方を厳しく批判し、利他のための修行を実践することによって、世の中全体を救という目標を掲げました。

いいかえれば、それまでの旧仏教が「限られた出家者だけの小さな乗物(小乗)であったのに対し、「あらゆる人々の救いをめざす大きな乗り物(大乗)をめざす、としたのです。


◆「利他・・・部派教団の閉鎖的・利己的・独善的なあり方を厳しく批判し、すべて生あるものが、ともどもに他者に深く関係し、布施を行うなど慈悲を旨とする。」(三枝充悳:仏教:日本大百科全書)

「大乗仏教の徒は、自分達の説くところは〈仏の真の教え〉(正法・妙法)であり、〈正しく仏になる道〉であると主張して、これを大乗(mahãyãna)すなわち、〈大きな乗物〉となづけ、仏乗(仏を目標とする道〉と称した。そして、その特徴は自利と共に、利他行を実践し、広く世の中を救うので〈大〉といい、在来の仏教は自己のさとりばかりを追求して、他を省りみない故に、小乗(hinãyãna)であるとけなした。」(高崎直道:仏教用語の手引き:仏典Ⅱ・世界古典文学全集・筑摩書房)


個人的心理体系から集団的観念体系へ・・・信心論から言語哲学

大乗仏教では、2世紀末にナーガールジュナ(Nāgārjuna:龍樹)が、また3~5世紀にアサンガ(Asaṅga:無著)、ヴァスバンドゥ(vasubandhu:世親)兄弟らがそれぞれ登場し、仏教の教義を観念的に体系化していきます。



ナーガールジュナは、その著『中論』において、「空」の理論を大成し、世俗における全てが実体として認識することはできないものであり、単に言葉によってのみ把握されたものにすぎない、と説いています。その要点は次のとおりです。


◆あらゆる現象は、存在という現象も含めて、それぞれの因果関係(シッダールタのいう縁起)の上に成り立っている。因果関係によって現象が現れている以上、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(自性)はありえない。つまり、すべての存在は無自性であり、「空」である(「無自性空」)。 

◆空である現象を人間はどのように認識し理解しているのか。直接的に知覚するだけではなく、概念や言葉を使用している。その「言葉」もまた仮に施設したものである。 

◆直接的に知覚する生の世界と、言語や概念によって認識される仮定の世界を、それぞれ第一義諦 (paramārtha satya) 世俗諦 (saṃvṛti satya) に分ける(二諦説)。


この説を継承したアサンガ摂大乗論』や『阿毘達磨集論』などで、ヴァスバンドゥは『唯識二十論』や『唯識三十頌』などで、それぞれ唯識説を唱え、一切の現象は私たちの経験上での体験と捉えたうえで、それらを純粋な精神作用すなわち」に還元します。

いいかえれば、識の分別の働きによって、すべての現象や存在が現れるということです。

眼・耳・鼻・舌・身・意六つの識が日常的な識であるが、その奥には「末那識(まなしき)があって諸識を統一し、自我の軸となっている。さらにその奥には「阿頼耶識(あらやしき)」が潜んでおり、ここに過去の体験の全てが集積されて、未来の可能性もまた収められている。

以上が①と②です。③は次回に譲ります。

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