これまで述べてきた事例のほかにも、17~18世紀のヨーロッパで行われた、さまざまな人口抑制については、人類学者や歴史人口学者の幾つかの研究があります。主なものを紹介しておきましょう。
●アメリカの生態人類学者M.ハリス(Marvin Harris:1927~2001)の報告(『ヒトはなぜヒトを食べたか』)
①近代初期おいても「嬰児殺しは、中世とほぼ同じくらい の規模で、引き続き直接間接に行なわれた」おり、法律上は過失や故意とみなされたにしても、ほとんどの場合は「不慮の事故」として片付けられていました。
②捨て子の数も急増していました。当時、イギリス政府は捨て子養育院を設けて収容していましたが、そこもたちまち修羅場と化し、「その最も重要な機能は、ヒトを殺す権利を自らが独占しているという国家の主張を体現するもの」になりました。
実際、ロンドン最初の捨て子養育院には、1756~60年の5年間に1万5000人の孤児が収容されましたが、青年期まで生き延びた者はわずか4400人にすぎません。
そればかりか、さらに何千という捨て子が、教区の貧民院の雇った乳母によって生命を奪われ続けました。これは、教区の役人が経費節減のために、「人殺し乳母」とか「畜殺婦(ちくさつふ)」と仇名された女性たちに嬰児殺しを任せた結果でした。
●アメリカの歴史人口学者W.ランガー(William Leonard Langer:1896~1977)の報告(“Infanticide:A historical Survey”など)
近代のイギリスでは「添い寝の際の寝返り」の結果とされた死亡届の裏側で「望まれぬ子どもがジンや麻酔薬を飲まされて死んだり故意に餓死させられ」ており、「18世紀のロンドンその他の大都市では、嬰児の死体が街路や汚い場所に横たわっている光景をみるのは珍しいことではなかった」のです。
●イギリスの歴史人類学者A.マクファーレン(Alan Macfarlane:1941~)の報告(『イギリスと日本』)
人口抑制の間接的な要因として、当時の大都市が人口抑制の機能を果たしていました。人口密度の高い大都市は産業廃棄物や市民の汚物で汚染され、空気はスモッグで汚れ道路はゴミで溢れるなど大変不衛生でしたから、死亡率を高めていたのです。
●イギリスの歴史人口学者E.A.リグリィ(Sir Edward Anthony Wrigley,:1931~)とR.S.スコフィールド(R. S. Schofield)の報告(The Population History of England )
ロンドンの人口減少がイギリス人口に影響を与えたのは、1625年から1775年に至る150年の間でしたが、17世紀後半の75年間、ロンドンは人口増加の抑制剤としての役割を果たし、18世紀においても他の地域の余剰人口が情け容赦なくなだれ込む排出路としての役割を担い続けていました。
以上を整理してみると、17~18紀初頭のキャパシティー飽和期にヨーロッパ人が採用した人口抑制装置では、直接的には晩婚化、非婚化、嬰児殺し、子捨てといった方法が、間接的には大都市の拡大が、それぞれ効果をあげていたことになるでしょう。
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