イギリスの人口は、ペストの影響が消えた1450年ころの200万人から増加し始め、1630年ころ約600万人に達しましたが、それ以後は停滞し、産業革命が開始される1730年代までの約100年間、ほぼ増減なしの状態を続けています。
なぜそうなったのか。その背景には、1500年代初頭に始まる農業技術の革新と農地の拡大が、急速に農業産出高を増加させはしたものの、1630年ころに限界に達してしまった、という事情があります。
このため、当時のイギリス人はさまざまな形で、人口抑制装置を作動させました。イギリスの歴史人類学者A.マクファーレン(Alan Macfarlane:1941~)は、最も直接的な目的として出生率の抑制をあげ、その手段を①性交渉の抑制、②性交渉後の妊娠抑制または避妊の拡大、③出産回避の増加、の三面から分析しています(『イギリスと日本』)。
①性交渉の抑制については、晩婚化と生涯独身率の高さを指摘しています。晩婚化では17~18世紀の女性の平均初婚年齢が26歳を超えており、また生涯独身率では、未婚女性の比率が1600~49年の約20.5%から、1650~99年には22.9%にまで上昇し、時には30%近くまで上がった可能性もある、と述べています。そうなると、全女性の3分の1近くが結婚しなったことになります。
②妊娠抑制または避妊の拡大については、母乳哺育の比率の多さ、避妊方法の普及、性交中断などをあげています。母乳哺育の比率の影響とは、授乳の一回毎の長さ、頻度、授乳回数などの形態によって、産後の無月経期間に差が生じ、それが次の妊娠を抑制するというものです。医療関連の文献などから推定すると、16~17世紀に目標とされた期間は21~24ヵ月でしたが、実際の平均期間は16世紀で4.5ヵ月、17世紀で13.7ヵ月であり、18世紀の8ヵ月より大幅に長かったと推定されています。
また避妊方法については、性欲を抑制させる各種の薬草や薬品、原始的なペッサリーやコンドームなどがすでに登場してはいましたが、実際にはほとんど使用されておらず、その効果も限られたものでした。
③出産回避の増加では、中絶と嬰児殺しが考えられます。中絶については、すでに18世紀に専門の堕胎施術者や助言者、あるいはサビナビャクシンのような堕胎薬が登場していました。だが、主な目的は社会的に認知されない出産を避けるためであり、夫婦間の一般手段ではなかったようです。
他方、嬰児殺しも他国と同様、当時のイギリスでも行なわれていました。が、それもまたほぼ例外なく非嫡出子が生まれた場合に限られており、人口抑制の手段として行われていた可能性は低い、とマクファーレンは述べています。
( 詳しくは古田隆彦『日本人はどこまで減るか』)
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