紀元前6世紀、アテナイの立法者ソロン(B.C.639頃~B.C.559頃)は、子どもの遺棄を認める許可を与えましたが、それは、すでに広まっていた習慣を法制化したものでした。遺棄許可のねらいは2つあり、1つは「広く貧困と不満を生ずるような過剰人口を防止すること」、もう1つは「大きすぎる家族の恐怖、したがって結婚に対する主な障害を取り除くこと」でしたが、最終の目標は「人口を一定水準に保つこと」にありました。
前5世紀になると、哲学者プラトン(B.C.427~B.C.347)がその著『国家』の中で、行政官は戦争、疾病、その他の諸原因に基づく目減りを考慮しながら、国家の資源と需要に応じて、市民の数が多すぎも少なすぎもしないように結婚の数を決定すべきだ、と提案しています。また劣等な市民や手足の不完全者から生まれた子どもたちは、どこかひと目のつかない場所に埋めてしまわねばならない、とも書いています。
さらに適正な結婚年齢を女20歳、男30歳と決め、女は20~40歳の間に、男は30~55歳の間に、国家のために子どもを作るべきだ。この年齢の以前か以後に子どもを作ることは、非婚のまま色欲に溺れて子どもを作ったのと同じく犯罪的で、神を冒涜する。正式の結婚者以外から生まれる子どもも同じだ。こうした子どもたちは、両親が扶養できない場合と同様に棄ててしまわねばならない、と強調しています。
要するに、限界を超えて増加する人口に対しては、「劣等で不完全な市民の子どもを殺し、規定された年齢、規定された形式に拠らずに生まれた子どもをすべて殺害し、結婚年齢を遅く定め、結局は結婚数を規制する」ことで抑制すべきだ、というのです。
前4世紀には、プラトンの弟子のアリストテレス(B.C.384~B.C.322)がその著作集の中で、適正な結婚年齢を男37歳、女18歳と定めれば、37歳の男は18歳の女ほど数が多くないから、女性の晩婚化を促すことができる、と述べています。それでもなお子どもの数が多くなりすぎることを懸念して、各夫婦に許される子どもの数を規制すべきであり、規定の数を産んだ後に妊娠した女性は堕胎を行なうべきだ。
また国家のために子どもを作る年齢の上限は、老いすぎると心身ともに不完全になるから、男は54~55歳で終わるべきだ。それを超えた場合の子どもには日の目をみせてはいけない、とも論じています。
つまり、全ての人が自由に子どもを持てば、必然的に貧困になる。貧困は非道と暴動の源だから、これを防止するには子どもの数の規制が必要だ、と主張しているのです。
いうまでもなく、これらの言動は立法者や哲学者の意見にすぎず、実際に規制が行なわれていたという証拠はありません。しかし、こうした言葉が出てくる背景として、当時の社会には捨て子、嬰児殺し、堕胎、晩婚化奨励、出産年齢制限などの風習がかなり根付いていた、と推定できるのです。
(詳しくは古田隆彦『日本人はどこまで減るか』)
0 件のコメント:
コメントを投稿