2016年6月11日土曜日

緊縮と弛緩が繰り返された!

農業後波の飽和・停滞期は1730~1800年、いわゆる江戸中期です。

この時代の社会状況を、人口、政治、経済の3面から描いてみると、下図のようになります。

農業後波が飽和に近づいた1716年(享保元年)ころ、八代将軍に就任した徳川吉宗は「享保の改革」(1717~45)を実施して、綱紀粛正、倹約・消費抑制、行・財政改革などを断行し、元禄バブルの崩壊で混乱に陥っていた社会を、安定成長路線へ切り換えていきます。

この改革は、一旦は成功するかにみえましたが、享保の飢饉やそれに起因する江戸打毀しの発生などで、再び社会不安が高まり、同時に幕府財政も悪化して、人口も減少に転じていきます。

さすがの吉宗も1743年(寛保3年)に有毛検見取法を施行して課税の強化に転じ、また元文金銀という悪貨を新鋳してインフレ政策へと転換して、米価の安定化をめざしました。この政策転換は成功し、その後幕府の歳入は徐々に増加していきます。

吉宗の譲位後、将軍が家重から家治に変わると、1767年(明和4年)に政治の実権を握った御側衆の田沼意次は、一転して規制緩和を押し進めていきます。

財政の立て直し策では、折から拡大しつつあった商品・流通市場の力を利用しようと、豪農や商人の再編成、貿易・鎖国体制の見直しなど「重商主義」的な政策を断行して、大きな成果を上げました。景気は上昇し、スモールバブルの様相まで呈し、人口もなんとか持ち直しました。

ところが、運悪く気候の悪化で天明の大飢饉が発生し、庶民の生活基盤を脆弱化させたため、1786年(天明6年)に将軍家治が没すると、やむなく失脚していきました。

続いて1787年(天明7)年、老中首座に着いた、吉宗の孫の松平定信は、翌年から「寛政の改革」(1788~93)を主導し、再び規制強化へと向かいます。

具体的には、米穀や貨幣相場への介入、旧里帰農奨励令、物価引下げ令、石川島人足寄場の設置、七分積金令などですが、これに加えて、朱子学以外の儒学を禁ずる「寛政異学の禁」や、蝦夷地の地勢調査といった海防対策にも努力しました。

彼の強権的な改革で、社会的な混乱はひとまず落ち着きを取り戻し、深刻な財政危機も一応は回避できました。

だが、倹約令を中心とする極端な抑制策で幕府の歳入は増えたものの、世間の景気は消沈し、人口も減少しました。


そのうえ、隠密を駆使した陰湿な教戒政治が、庶民層はもとより武士階級からも不評をかったため、1793年(寛政5年)年、定信は将軍補佐役ならびに老中を解任されました。

代わって幕政の実権を握った11代将軍、徳川家斉は、文化・文政期から天保初期までの約40年間、規制緩和や放漫財政によって、いわゆる「化政時代」を作り出してゆきます。

この時代には、華美・驕奢な大奥生活に象徴されるように、爛熟・頽廃の世相は極みに達し、それに伴って町民層の消費も拡大し、人口も増加に転じていきます。

このように人口が停滞・減少した、18世紀の江戸社会は、政治や経済が小刻みに揺れた時代でした。

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2016年5月31日火曜日

4番めの壁とは何か?

農業後波の停滞・減少要因として、3つの原因が考えられます。

第1は農業生産の飽和化です。
速水融の推計(「概説一七―一八世紀」『日本経済史1 経済社会の成立』所収)によれば、実収石高は1700年の3063万石から1730年の3274万石へ211万石増えたものの、17世紀の年間伸び率0.32~0.56%に比べると、0.22%へ低下しています。

耕地面積も1700年の2841千町から1730年の2971一千町へ130千町増加したものの、17世紀の年間伸び率0.26~0.38%に比べると0.15%へほぼ半減しました。

つまり、耕地の拡大と労働集約的・土地節約的進歩で急速に発展してきた集約農業は「17世紀末から18世紀初めのころになると、天井に到達するようになっていた」のです。



第2は気象の悪化です。
18世紀後半は著しい寒冷期となり、大飢饉が連続して発生しました。

1755年の宝暦の飢饉、74年の安永の飢饉、82~87年の天明の飢饉などは、いずれも夏季の気温低下が引き起こした冷害でした。

当時の集約農業技術は、粗放農業技術に比べてかなり高度化しており、通常の気候不順には十分に耐えられる水準にありました。

だが、もともと亜熱帯性の植物である稲を東北地方にまで普及させていましたから、気候が良好な時はともかく、大規模な気候不順が発生すると、その被害は甚大なものになったのです。
 
第3は貨幣経済化の急進と限界です。
17世紀末から18世紀初頭にかけて、貨幣経済が全国に浸透すると、それまで自給経済に閉じ込められていた農村部でも、各地の特産物を中心に商品生産が開始され、富裕な農民層が出現してきます。

だが、こうした農村の商業生産化は、年貢収入の停滞や減少、物価の上昇を引き起こして、領主層の財政を悪化させたり、零細農民の一揆を招きました。

一方、都市部、とりわけ江戸では商業経済の急拡大で物価が高騰し、町人の打毀しが起こったため、徳川幕府は強力な物価統制に踏み切り、1724(享保9)年の物価引下げ令、18~24年の株仲間結成の公認など、新たな商業統制に追い込まれていきます。

貨幣経済の波は幕府財政にも波及し、収支を急速に悪化させました。貨幣による出費が年々増える一方で、財源が減少したからです。

18世紀には鉱山からの金銀の採掘量が湧水対応や通気技術の停滞で次第に低下し、19世紀半ばには銅の採掘量も最盛期の3分の1まで落ちました。

また幕府の年貢率も17世紀の六公四民~五公五民から、18世紀には四公六民まで低下しました。その結果、幕府財政は慢性的な赤字に陥りました。

以上のように、貨幣経済は米を基準とする石高経済を越えて、新たな経済構造を作り出しはしましたが、他方では農村の疲弊、階級格差の拡大、飢饉被害の増幅、一揆や打毀しの頻発などを引き起こしたのです。

これら3つの原因が重なって、当時の人口は1730年代から減少し始め、1790年前後には3000万人を割るところまで落ちていきます。

これこそ4番目の人口波動、つまり農業後波の飽和化という、4番めの壁だったのです。
 
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2016年5月18日水曜日

人口減少社会・日本の先例・・・農業後波の減少期

日本の人口減少社会の様相を、石器前波、石器後波、農業前波の、それぞれの減少・停滞期で見てきましたので、4番目は農業後波の減少期です。

4番めの波は、西暦1200年頃から1800年に至る「農業後波」で、歴史学の区分では、鎌倉時代中期から室町・安土桃山時代を経て江戸時代中期に至る約600年間です。

この時期の気候をみると、15世紀から19世紀中葉にかけての平均気温は現在より1~2度低く、とりわけ18世紀は小氷期とよばれるほど低温でした。

それにもかかわらず、再び人口容量が拡大できたのは、当時の人々がわが国独自の方法で水田稲作技術を高度化させ、新たに「集約農業文明」ともいえる文明を成立させたからです。

この文明では、集約農業技術の発展、貨幣経済の進展、大名の領地支配の3要素が基軸となっています。


3要素が絡み合って、1200年ころから徐々に増え始めた農業後波の人口は、1600年ころから急上昇に転じ、江戸中期の1730年前後に約3250万人でピークを迎え、その後は減少していきます。

詳しくは拙著『人口波動で未来を読む』や『日本人はどこまで減るか』などの中でで説明していますので、以下では要点だけを述べていきます。



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2016年5月14日土曜日

第3次情報化の時代:粗放農業技術は大建築から製紙へ!

農業前波の停滞期であった、900~1200年の約300年間は、技術の分野でも大きな変化が見られた時代でした。

水稲技術を中核に灌漑、開墾、土木、建築などを中心に進展してきた粗放農業文明は、人口容量の限界に突き当たると、その中核は豪壮な寺院建築から優美な寝殿造りや簡素な武家造りへ、あるいは生産技術から情報技術へと移行していきます。

建造物でみると、人口増加期である飛鳥~奈良時代には、中国大陸や朝鮮半島やから伝来した技術を応用して、飛鳥寺、四天王寺、法隆寺、薬師寺、東大寺など、巨大で豪壮な「唐様」寺院が建てられていました。

しかし、人口容量の制約が強まった、平安時代の中期以降になると、優美で穏やかな「和様」様式が登場し、平等院鳳凰堂や法界寺阿弥陀堂などの寺院や、東三条殿を代表とする寝殿造の公家邸が造られるようになります。

平安末期には厳島神社の大規模な社殿が造営され、また鎌倉初期には中国の影響を受けて、東大寺大仏殿や南大門の再建など、一時的に豪放な建物が造られましたが、その影響は広がらず、むしろ質実剛健を旨とする禅宗寺院や出家僧や隠遁者が侘び住まう草庵など、精神性の高い簡素な建物が広がってきます。

こうした建造物の濃縮化と相携えて、製紙技術もめざましい進展を遂げます。

6世紀半ば、大陸や半島から伝わってきた製紙技術は、平安京遷都直後の大同年間(805~809年)に設立された、官立の製紙工場「紙屋院」で「流し漉き」に進展し、和紙が大量生産されるようになります。

この和紙を使用して、華麗に開花したのが物語・日記・随筆・説話などの国風文学であり、同時に絵解き文化として『源氏物語絵巻』『伴大納言絵巻』『信貴山縁起』『鳥獣人物戯画』という四大絵巻に発展していきます。


このことは、同時代の人々の関心が絵と詞で巧みに表現される情報に傾いたことを示しています。


おそらく彼らに取って、絵巻の登場はテレビの出現に匹敵する大事件だったでしょう。農業前波の停滞期とは、まさに第3次の情報化時代だったのです。

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2016年4月29日金曜日

国風文化の時代

900~1200年の約300年間は、農業前波の停滞期として、政治的には律令国家の崩壊から武家政権の成立に至る移行期でしたが、文化的に見ると、中国文化の影響を脱し、豊穣な国風文化が育まれた時代でした。
宗教では、平安末期には、800年代に中国五台山から伝わっていた念仏三昧法を基に、わが国独自の浄土信仰が生まれ、922年(延喜22年)頃から市井の修行僧・空也が口称念仏を唱えて浄土教を庶民へ広めています。

985年(寛和元年)には、天台宗の僧・源信も『往生要集』を著して、浄土信仰を貴族層へ浸透させ、仏像や仏画、仏教建築などにその影響を残しました。

院政・鎌倉初期に入ると、新興の武士層や農民層の求めに応じて、旧仏教の中から浄土宗や浄土真宗が生まれ、新たに中国から禅宗、つまり臨済宗と曹洞宗も輸入されています。

文学では、漢字の音訓を借りた「万葉仮名」を基に、草書体を略した「ひら仮名」や一部を略記した「カタ仮名」が生み出され、さまざまな文学が創作されました。

これを使って、905年(延喜5年)、醍醐天皇の命で最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂されたほか、竹取物語、伊勢物語、うつほ物語などの物語文学が隆盛となり、1008年(寛弘五年)頃には紫式部が『源氏物語』を著しています。

日記・随筆でも、935年(承平5年)頃に、土佐の前国司・紀貫之がひら仮名で『土佐日記』を著して日記文学を始めると、蜻蛉日記、和泉式部日記、更級日記などが続き、996年(長徳2年)頃に清少納言が随筆集『枕草子』を著しています。

院政時代に入ると、今昔物語集、宇治拾遺物語、古今著聞集など、庶民層向けの説話文学も現れています。

鎌倉初期には、保元の乱を題材とする『保元物語』、平治の乱を描いた『平治物語』、平氏の興亡を綴った『平家物語』などの軍記物が現れたうえ、鴨長明の『方丈記』や藤原定家の『明月記』などの随筆や日記文学も登場しています。

絵画では、平安末期から院政期にかけて、唐絵に対する「やまと絵」が創設され、源氏物語絵巻、伴大納言絵詞、信貴山縁起、鳥獣人物戯画の、いわゆる四大絵巻が制作されています。鎌倉初期には、平治の乱を描写した『平治物語絵巻』や『北野天神縁起絵巻』が制作されました。

建築では、平安末期、浄土教の影響を受けて、1053年(天喜元年)に藤原頼通が平等院鳳凰堂を建立し、同時期に日野資業が法界寺阿弥陀堂を建立しています。仁安3年(1168年)頃には、平清盛が厳島神社の大規模な社殿を造営しています。鎌倉初期になると、雄大さや豪放さを特色とする大仏様として、1203年(建仁3年)に東大寺南大門、1200年(正治2年)東大寺開山堂内陣が建てられています。

以上のように、農業前波の停滞期とは、弥生時代以来の大陸文化を吸収し醸成したうえで、独自の国風文化を確立した時代だったといえるでしょう。


 



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2016年4月21日木曜日

農業前波・停滞期の社会とは・・・

農業前波の停滞期は900~1200年の約300年間ですが、歴史学の区分でいえば平安時代中期から鎌倉時代の前期に相当します。

平安時代中期には、894年(寛平6年)に遣唐使を廃止して中国文明の影響を脱し、醍醐天皇(897~930年在位)や村上天皇(946~967年在位)の天皇親政による「延喜・天暦の治」によって律令国家を完成させます。

しかし、飽和化が顕著になるにつれて、939年(天慶2年)には平将門・藤原純友による承平天慶の乱が起こり、1016年(長和5年)に藤原道長によって摂関政治が確立されます。

1051~1062年には東北地方で前九年・後三年の役が起こり、摂関政治が弱体化してくると、1086年(応徳3年)に白河上皇が院政を開始します。

1159年(平治元年)に平治の乱で実権を握った平清盛が、1167年(仁安2年)、太政大臣となって平家政権が成立しますが、清盛没後の1185年(元暦2年:文治元年)、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡します。

1192年(建久3年)、源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き、鎌倉時代が始まりましたが、頼朝没後、1203年(建仁3年)に北条時政が執権制を開始し、1221年(承久3年)の承久の乱によって鎌倉政権を強化し、1232年(貞永元年)に御成敗式目を制定して武家政権を確立したうえ、1274~1281年の文永・弘安の役で元寇に勝利します。

しかし、1305年(嘉元3年)の嘉元の乱の後、北条一族の内紛によって次第に弱体化していきます。

以上のように、この300年間は天皇親政による律令体制の完成の後、藤原氏による摂関体制、白河上皇による院政、平氏による平家政権、源氏による鎌倉政権、北條氏による執権政権と、政治体制のうえでは激動期となっています。

人口波動という超長期的な視点から見ると、農業前波の人口容量が飽和していく中で、農業生産物やさまざまな資源をいかに再配分するかについて、天皇家、貴族、武士などがさまざまな挑戦を試みた経緯とみることができるでしょう。
 
 
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2016年4月10日日曜日

農業前波はなぜ限界に達したのか?

農業前波の人口容量が限界に達した背景には、さまざまな原因が複雑に絡んでいますが、主なものは次の3つです。

第1は、国内の粗放農業技術が、古墳時代以来の急激な発展の後、進歩の度合いを急速に落としたことです。大和朝廷から平安朝廷にいたる統一政権は、あいついで開墾の奨励策を打ち出しましたが、その効果はさほど上がっていません。


当時の技術体系のもとでは、耕地の拡大と土地生産性の上昇がもはや困難になっていました。またこの時期に大陸の唐や宋から導入した技術や制度も、すでに成熟したもので、人口容量を拡大するようなダイナミックな内容を持つものではありませんでした。

第2は、統治体制がさまざまに変容したことです。例えば律令的土地制度の根幹である班田制はほぼ完全に崩壊し、代わって貴族・社寺や富裕農民層の荘園私有が増加して、租税収入が減少しました。さらに班田制と表裏をなす戸籍制度も次第に崩壊し、課役の逃避が常態化しました。

その結果、高度な技術と大量の労働力を駆使して大河川流域の平野を開拓し、排水・灌漑施設を維持していくという農地拡大の基盤が崩れ、大規模な開墾が困難になるとともに、荒廃田を増加させました。

以上の2つが基本ですが、もう1つ、第3の原因として、この時期の末期に始まる貨幣経済がそれまでの社会・経済構造を大きく動揺させたことがあげられます。
平安末期から鎌倉時代になると、各地で定期市が開かれ、物資の輸送も盛んになりました。

さらに日宋貿易で輸入された宋銭が流通し始めると、為替、年貢の銭納、借上(かしあげ=高利貸業者)など、貨幣経済が急速に広がりました。

貨幣の浸透は生産の拡大よりも換金性の拡大に社会の関心を移行させましたから、一時的に人口容量の拡大を阻害することになりました。

これら3つの要因が絡み合った結果、農業前波の人口容量は限界に達し、それに伴って当時の人口を停滞へ追い込んでいったものと思われます。