2016年4月10日日曜日

農業前波はなぜ限界に達したのか?

農業前波の人口容量が限界に達した背景には、さまざまな原因が複雑に絡んでいますが、主なものは次の3です。

第1は、国内の粗放農業技術が、古墳時代以来の急激な発展の後、進歩の度合いを急速に落としたことです。大和朝廷から平安朝廷にいたる統一政権は、あいついで開墾の奨励策を打ち出しましたが、その効果はさほど上がっていません。


当時の技術体系のもとでは、耕地の拡大と土地生産性の上昇がもはや困難になっていました。またこの時期に大陸の唐や宋から導入した技術や制度も、すでに成熟したもので、人口容量を拡大するようなダイナミックな内容を持つものではありませんでした。

第2は、統治体制がさまざまに変容したことです。例えば律令的土地制度の根幹である班田制はほぼ完全に崩壊し、代わって貴族・社寺や富裕農民層の荘園私有が増加して、租税収入が減少しました。さらに班田制と表裏をなす戸籍制度も次第に崩壊し、課役の逃避が常態化しました。

その結果、高度な技術と大量の労働力を駆使して大河川流域の平野を開拓し、排水・灌漑施設を維持していくという農地拡大の基盤が崩れ、大規模な開墾が困難になるとともに、荒廃田を増加させました。

以上の2つが基本ですが、もう1つ、第3の原因として、この時期の末期に始まる貨幣経済がそれまでの社会・経済構造を大きく動揺させたことがあげられます。
平安末期から鎌倉時代になると、各地で定期市が開かれ、物資の輸送も盛んになりました。

さらに日宋貿易で輸入された宋銭が流通し始めると、為替、年貢の銭納、借上(かしあげ=高利貸業者)など、貨幣経済が急速に広がりました。

貨幣の浸透は生産の拡大よりも換金性の拡大に社会の関心を移行させましたから、一時的に人口容量の拡大を阻害することになりました。

これら3つの要因が絡み合った結果、農業前波の人口容量は限界に達し、それに伴って当時の人口を停滞へ追い込んでいったものと思われます。

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