2060~2090年の人減定着社会は、明和~天明期(1764~89年)に相当し、人口減少にようやく慣れなじんで、その利点を徹底的に活用していく時代となる、と述べてきました。
明和~天明期の社会的特性についても、電子本『平成享保・その先をよむ』やブログ「平成享保のゆくえ」で詳しく述べていますが、要点を再掲してみましょう。
①当時の人口は、明和5年(1768)の3150万人から安永9年(1780)の3121万人を経て、天明8年(1786)の3010万人にまで約140万人も減っています。
②この時代に幕政の実権を担って、大胆な政策を展開したのは、老中兼側用人の田沼意次でした。田沼は、紀州藩の足軽から旗本に登用された田沼意行の長男として、享保4年(1719)に江戸で生まれ、同19年(1734)、吉宗の世子・徳川家重の西丸小姓に抜擢されて、同20年(1735)に田沼家600石を継承しまました。
③田沼は延享2年(1745)、家重の九代将軍就任に随って本丸に入り、寛延元年(1748)に小姓組番頭格から小姓組番頭に、宝暦元年(1751)に御側御用取次側衆に、同8年(1758)に評定所への出座に伴って一万石の大名に取り立てられ、遠江国相良に領地を与えられました。
③宝暦11年(1761)に家重は死去しましたが、その遺言で世子の十代将軍・徳川家治の御用取次に留任し、明和4年(1767)に側用人、同6年(1769)、側用人のまま老中格・侍従、明和9=安永元年(1772)に老中へ昇進しました。側用人が老中になったのは田沼が初めてでした。
④天明年間(1781~1788)には、同3年(1783)に岩木山や浅間山が噴火し、日射量の低下で数年間、各地で深刻な飢饉が起こりました。そうした中でも、息子の田沼意知を若年寄に昇進させ、意次の権勢はいっそう拡大しましたが、翌天明4年(1784)、意知が江戸城中で傷つけられて死ぬという事件が起こり、前途にやや翳りが生じました。
⑤それでもなお意次は天明5年(1785)に1万石を加増され、遠江国相良藩5万7000石の大名になりましたが、天明6年(1786)、将軍・家治の死によって、閏10月に差控を命ぜられ、ついに失脚しました。
⑥以上の経緯で、短期間に異例の昇進をとげた田沼は、宝暦11年(1761)ころから、明和(1764~71)、安永(1772~80)を経て、家治の死去で失脚する天明6年(1786)までの20数年間、幕政の中枢を担っていきます。
⑦田沼の政治は、八代将軍・徳川吉宗による享保の改革や大岡忠光による側用人執政の後を受けて、幕政の基礎である「石高経済」を根本から見直し、重商主義的な財政運営を導入することに成功しました。その画期性ゆえに、彼の執政した20数年は「田沼時代」と名づけられています。
こうしてみると、人減定着期である明和~天明期とは、「石高経済」から「重商経済」への一大転換期でもあったのです。
2018年1月8日月曜日
2017年12月29日金曜日
「米価安の諸色高」は「モノ安のコト高」か?
寛保~宝暦期(1741~64年)には、粗放農業生産が上限に達したという人口容量の壁の下で、いかにして安定した社会を作り出すか、ということが幕政の課題でした。
しかし、当時の幕府は吉宗政権の長期化に伴って、徐々に惰性化が進行し、さまざまな矛盾が噴出し始めていました。
①経済体制では石高経済が続いており、「米価安の諸色高」への対応、つまり米価の上昇と諸色高の抑制が幕政の大きな課題でした。米価は元文改鋳の後、徐々に上がり始め、1740年前後に60~70匁台を回復しましたが、その後再び低下傾向が現れていました。貨幣政策で持ち直したものの、実需不足がさらに進行したからです。
このため、延享元年(1744)9月、幕府は蔵米を担保とした御家人の借金帳消し令(棄捐令)を出す一方で、米価の引上げをめざして、江戸・大阪の町人に買米を命じ、さらに12月には米売買取締のため米吟味所を設置しています。
②幕府の意向とは逆に「米価安の諸色高」が進むと、かえって町人層にはゆとりが生まれてきます。寛延年間(1748~50)になると、そのゆとりが新たな消費文化を生み出していきます。
例えば寛延元年の夏、大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が、翌年には江戸の三座で歌舞伎として競演され、大勢の観客を集めました。
また町人の間では、歌舞伎役者・沢村宗十郎を真似た宗十郎頭巾が流行し、上野不忍池畔には出合茶屋、揚弓場、講釈場など、新たな遊興産業も出現しました。
③しかし、「米価安の諸色高」で進んだ「武家苦の町人楽」ともいうべき事態に対し、幕府は町人の奢侈行動の規制に出ました。
寛延元年(1748)3月、流行し始めていた女羽織の着用を禁止し、また寛延2年5月には、江戸町奉行が町方の婦女が菅笠の代わりに青紙張りの日傘をさすことも禁じています。
さらに宝暦2年(1752)6月には、不忍池畔の出会茶屋59軒と抱え女を置く家などを廃業させ、翌3年8月には、町方での銀道具の流行をおさえるため、材料となる灰吹銀や潰銀などを、銀座以外で売買することを禁止する達しも出しました。
④幕府はもう一方で諸色高の抑制にも努めましたが、宝暦3年(1753)は豊作となり、秋口から米価がさらに下落しました。
そこで、幕府は再び倹約令を発して奢侈を禁じるとともに、1000石以下の旗本・御家人の苦境を救済すべく、翌々年からの十年年賦の返済を条件に、彼らに貸付金を与えました。
他方、宝暦4年(1754)11月には、さらに米価を上げるため、正徳5年(1715)に出されていた酒造制限令を撤廃して、酒の生産量を元禄10年(1697)の水準へ復活させることを決めました。
この政策転換によって、新酒・寒造とも醸造は自由化され、新規営業も管轄地の奉行や代官に届け出るだけで容易に許可されるようになりました。
⑤ところが、宝暦5年(1755)の夏、奥羽地方に雪が降るという大冷害(宝暦の飢饉)が発生し、米価は一変して高騰したため、同年12月には、幕府領および諸大名の備蓄米である囲籾(かこいもみ)うち、1年分を米問屋に払い下げるように命じました。
翌年6月になっても、なお米価の騰貴が続いていたため、米問屋による買占めや高値販売を厳しく禁止しました。だが、同年の秋は一転して豊作となり、再び米価が下がったため、必要な米の買い置きは認めるように変更しました。
このように当時の石高経済は、気候変動に伴う米価の乱高下と町人層からの需要増加による諸色高に翻弄されて、大きく揺れ動いています。
とすれば、「米価安の諸色高」とは「基本財安の選択材高」を意味しており、現代社会に置き換えれば「モノ安のコト高」現象ともいえるでしょう。
しかし、当時の幕府は吉宗政権の長期化に伴って、徐々に惰性化が進行し、さまざまな矛盾が噴出し始めていました。
①経済体制では石高経済が続いており、「米価安の諸色高」への対応、つまり米価の上昇と諸色高の抑制が幕政の大きな課題でした。米価は元文改鋳の後、徐々に上がり始め、1740年前後に60~70匁台を回復しましたが、その後再び低下傾向が現れていました。貨幣政策で持ち直したものの、実需不足がさらに進行したからです。
このため、延享元年(1744)9月、幕府は蔵米を担保とした御家人の借金帳消し令(棄捐令)を出す一方で、米価の引上げをめざして、江戸・大阪の町人に買米を命じ、さらに12月には米売買取締のため米吟味所を設置しています。
②幕府の意向とは逆に「米価安の諸色高」が進むと、かえって町人層にはゆとりが生まれてきます。寛延年間(1748~50)になると、そのゆとりが新たな消費文化を生み出していきます。
例えば寛延元年の夏、大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が、翌年には江戸の三座で歌舞伎として競演され、大勢の観客を集めました。
また町人の間では、歌舞伎役者・沢村宗十郎を真似た宗十郎頭巾が流行し、上野不忍池畔には出合茶屋、揚弓場、講釈場など、新たな遊興産業も出現しました。
③しかし、「米価安の諸色高」で進んだ「武家苦の町人楽」ともいうべき事態に対し、幕府は町人の奢侈行動の規制に出ました。
寛延元年(1748)3月、流行し始めていた女羽織の着用を禁止し、また寛延2年5月には、江戸町奉行が町方の婦女が菅笠の代わりに青紙張りの日傘をさすことも禁じています。
さらに宝暦2年(1752)6月には、不忍池畔の出会茶屋59軒と抱え女を置く家などを廃業させ、翌3年8月には、町方での銀道具の流行をおさえるため、材料となる灰吹銀や潰銀などを、銀座以外で売買することを禁止する達しも出しました。
④幕府はもう一方で諸色高の抑制にも努めましたが、宝暦3年(1753)は豊作となり、秋口から米価がさらに下落しました。
そこで、幕府は再び倹約令を発して奢侈を禁じるとともに、1000石以下の旗本・御家人の苦境を救済すべく、翌々年からの十年年賦の返済を条件に、彼らに貸付金を与えました。
他方、宝暦4年(1754)11月には、さらに米価を上げるため、正徳5年(1715)に出されていた酒造制限令を撤廃して、酒の生産量を元禄10年(1697)の水準へ復活させることを決めました。
この政策転換によって、新酒・寒造とも醸造は自由化され、新規営業も管轄地の奉行や代官に届け出るだけで容易に許可されるようになりました。
⑤ところが、宝暦5年(1755)の夏、奥羽地方に雪が降るという大冷害(宝暦の飢饉)が発生し、米価は一変して高騰したため、同年12月には、幕府領および諸大名の備蓄米である囲籾(かこいもみ)うち、1年分を米問屋に払い下げるように命じました。
翌年6月になっても、なお米価の騰貴が続いていたため、米問屋による買占めや高値販売を厳しく禁止しました。だが、同年の秋は一転して豊作となり、再び米価が下がったため、必要な米の買い置きは認めるように変更しました。
このように当時の石高経済は、気候変動に伴う米価の乱高下と町人層からの需要増加による諸色高に翻弄されて、大きく揺れ動いています。
とすれば、「米価安の諸色高」とは「基本財安の選択材高」を意味しており、現代社会に置き換えれば「モノ安のコト高」現象ともいえるでしょう。
2017年12月18日月曜日
人口急減社会・寛保~宝暦期を振り返る!
2010~2060年の人口急減社会は、農業後波の寛保~宝暦期(1741~64年)にほぼ相当し、人口減少への対応について、さまざまな試行錯誤が続く時代となる、と述べてきました。
この時代の社会の特性については、電子本『平成享保・その先をよむ』やブログ「平成享保のゆくえ」で詳しく述べていますが、要点を再掲してみましょう。
① 当時の人口は延享元年(1744)の3138万人から、寛延3年(1750)の3101万人を経て、宝暦12年(1762)には3111万人と停滞しています。
② 政治状況を振り返ると、8代将軍徳川吉宗の将軍引退から、9代将軍家重の側用人・大岡忠光の活躍から死去までの時期に当たります。延享2年(1745)9月、吉宗は長男家重に将軍職を譲って引退しました。まだ62歳の頑健な身体であったにもかかわらず、あえて引退を表明したのは、人心を一新するためでした。
③ 歴史学者の奈良本辰也は「吉宗の30年に近い治世は、次第に一般から飽きられようとしていた。刑法の改正について、また倹約令の細かい施行について、あるいは検地・山林開発などのことについて、さまざまな批判が起こっていた」と述べています(『日本の歴史17・町人の実力』中公文庫・1974)。
④ 同じく歴史学者の大石慎三郎も、第1は「なんといっても30年もという長い治世であり、吉宗政権に対する飽きもけっして無視できぬものであった。このあたりで人心を一新しておいてからその完成にとりかかる」ためであり、第2は「不肖の嗣子家重の地位を、自分が元気なうちに確立しておいてやりたい、という親心が強く働いていた」と指摘しています(『田沼意次の時代』岩波書店・1991)。
⑤ このことを傍証するのは、翌10月、経済政策の実質的主導者として、吉宗政権の後半を支えてきた勝手掛老中・松平乗邑を突然罷免したことです。急速に権力を伸ばしてきた乗邑を排除して、政治の一新を天下に示し、同時に将軍親政を取り戻して、家重への安定的な譲渡を狙ったのです。
⑥ 11月2日、家重は9代将軍に就任しました。しかし、彼は生来の病弱に加えて、言語が不明瞭であったため、吉宗はなお大御所として後見に努めざるをえませんでした。ところが、こうした権力の二重構造が、家重をして、ますます政治から遠ざけることになりました。
⑦ 延享3年(1746)10月、家重の意志を取り次ぐ者として、小姓組番頭格・大岡忠光が御側御用取次に任命されます。大岡は知行300石の旗本の長男で、南町奉行・大岡越前守忠相の遠縁に当りますが、享保9年(1724)8月、16歳で将軍家世子・家重の小姓に抜擢されて、西の丸へ入り、家重の言語を理解できる、唯一の側近として仕えました。この特異な能力が認められて、延享2年、家重が将軍に就任すると、小姓組番頭格式奥勤兼帯御側御用取次見習となり、さらに翌年、御側御用取次に昇格したのです。
⑧ 寛延3年(1750)2月、幕府は5回めの諸国人口調査を実施して、現将軍の威光を確かめましたが、翌宝暦元年(1751)6月、吉宗は68歳で没しました。吉宗の腹心であった大岡越前守忠相もまた、同じ年の12月に75歳で亡くなっています。
⑨ このため、政治の実権はようやく家重―忠光ラインに移りましたが、家重の言動が不明確であったため、政権の実勢は忠光に移りました。宝暦元年、大岡は上総国勝浦藩1万石の大名に取り立てられ、同4年、5千石加増されて若年寄に進み、宝暦6年(1756)5月には側用人に就任して、さらに5千石加増され、合計2万石となって、武蔵国岩槻藩主に任じられています。
⑩ こうして、宝暦10年(1760)4月に52歳で死去するまでの約10年間、実質的な執政となりました。忠光自身はかなり謙虚で慎重な人物であったようですが、側用人の役目は、常に将軍の傍らにあって上意を下達することでしたから、次第にその威権が老中をしのぐようになりました。このため、吉宗が一旦は廃止した側用人制度を復活させ、次の時代に田沼意次が登場する土壌を形成していきました。
以上のように、寛保~宝暦期(1841~64年)の政治状況は、人口の急減期にも関わらず、享保改革路線の終焉と傀儡政権の誕生という、まさに試行錯誤の時代でした。
経済や社会の動向をさらに詳しく眺めていきましょう。
この時代の社会の特性については、電子本『平成享保・その先をよむ』やブログ「平成享保のゆくえ」で詳しく述べていますが、要点を再掲してみましょう。
① 当時の人口は延享元年(1744)の3138万人から、寛延3年(1750)の3101万人を経て、宝暦12年(1762)には3111万人と停滞しています。
② 政治状況を振り返ると、8代将軍徳川吉宗の将軍引退から、9代将軍家重の側用人・大岡忠光の活躍から死去までの時期に当たります。延享2年(1745)9月、吉宗は長男家重に将軍職を譲って引退しました。まだ62歳の頑健な身体であったにもかかわらず、あえて引退を表明したのは、人心を一新するためでした。
③ 歴史学者の奈良本辰也は「吉宗の30年に近い治世は、次第に一般から飽きられようとしていた。刑法の改正について、また倹約令の細かい施行について、あるいは検地・山林開発などのことについて、さまざまな批判が起こっていた」と述べています(『日本の歴史17・町人の実力』中公文庫・1974)。
④ 同じく歴史学者の大石慎三郎も、第1は「なんといっても30年もという長い治世であり、吉宗政権に対する飽きもけっして無視できぬものであった。このあたりで人心を一新しておいてからその完成にとりかかる」ためであり、第2は「不肖の嗣子家重の地位を、自分が元気なうちに確立しておいてやりたい、という親心が強く働いていた」と指摘しています(『田沼意次の時代』岩波書店・1991)。
⑤ このことを傍証するのは、翌10月、経済政策の実質的主導者として、吉宗政権の後半を支えてきた勝手掛老中・松平乗邑を突然罷免したことです。急速に権力を伸ばしてきた乗邑を排除して、政治の一新を天下に示し、同時に将軍親政を取り戻して、家重への安定的な譲渡を狙ったのです。
⑥ 11月2日、家重は9代将軍に就任しました。しかし、彼は生来の病弱に加えて、言語が不明瞭であったため、吉宗はなお大御所として後見に努めざるをえませんでした。ところが、こうした権力の二重構造が、家重をして、ますます政治から遠ざけることになりました。
⑦ 延享3年(1746)10月、家重の意志を取り次ぐ者として、小姓組番頭格・大岡忠光が御側御用取次に任命されます。大岡は知行300石の旗本の長男で、南町奉行・大岡越前守忠相の遠縁に当りますが、享保9年(1724)8月、16歳で将軍家世子・家重の小姓に抜擢されて、西の丸へ入り、家重の言語を理解できる、唯一の側近として仕えました。この特異な能力が認められて、延享2年、家重が将軍に就任すると、小姓組番頭格式奥勤兼帯御側御用取次見習となり、さらに翌年、御側御用取次に昇格したのです。
⑧ 寛延3年(1750)2月、幕府は5回めの諸国人口調査を実施して、現将軍の威光を確かめましたが、翌宝暦元年(1751)6月、吉宗は68歳で没しました。吉宗の腹心であった大岡越前守忠相もまた、同じ年の12月に75歳で亡くなっています。
⑨ このため、政治の実権はようやく家重―忠光ラインに移りましたが、家重の言動が不明確であったため、政権の実勢は忠光に移りました。宝暦元年、大岡は上総国勝浦藩1万石の大名に取り立てられ、同4年、5千石加増されて若年寄に進み、宝暦6年(1756)5月には側用人に就任して、さらに5千石加増され、合計2万石となって、武蔵国岩槻藩主に任じられています。
⑩ こうして、宝暦10年(1760)4月に52歳で死去するまでの約10年間、実質的な執政となりました。忠光自身はかなり謙虚で慎重な人物であったようですが、側用人の役目は、常に将軍の傍らにあって上意を下達することでしたから、次第にその威権が老中をしのぐようになりました。このため、吉宗が一旦は廃止した側用人制度を復活させ、次の時代に田沼意次が登場する土壌を形成していきました。
以上のように、寛保~宝暦期(1841~64年)の政治状況は、人口の急減期にも関わらず、享保改革路線の終焉と傀儡政権の誕生という、まさに試行錯誤の時代でした。
経済や社会の動向をさらに詳しく眺めていきましょう。
2017年12月10日日曜日
人口減少→人減定着→人口回復
日本の人口減少は22世紀まで続くという予想が多いのですが、人口抑制装置という視点に立つと、これまで述べてきたように、2080年代に8000万人前後で底を打ち、そこから増加に転じることも予想できます【21世紀後半に逆転させるには・・・:2017年10月19日】。
そうなると、これからの日本社会は、人口急減→人減定着→人口回復という、3つのプロセスを辿っていくことになるでしょう。
①人口急減社会・・・2010~2060年の約50年間で、人口は1億2800万人から8700万人へ4100万ほど急減していきます。
②人減定着社会・・・2060~2090年の約30年間で、人口は8700万人から8200万人へ500万人ほど漸減していきます。
③人口回復社会・・・2090~2140年ころまでの約50年間で、人口は8200万人から1億2800万人へ4600万人ほど回復していきます。
以上のプロセスは、農業後波の後半である江戸中期の社会と比較すると、おおむね次のように予想できます。
①2010~2060年の人口急減社会は、寛保~宝暦期(1741~64年)に相当し、人口減少への対応について、さまざまな試行錯誤が続く時代となるでしょう。
②2060~2090年の人減定着社会は、明和~天明期(1764~89年)に相当し、人口減少にようやく慣れなじんで、その利点を徹底的に活用していく時代となるでしょう。
(この時代の社会予測については、電子本『平成享保・その先を読む: 人減定着日本展望』やブログ「平成享保のゆくえ」などで詳細に述べています。)
③2090~2140年ころまでの人口回復社会は、寛政・文化・文政期(1789~1831年)に相当し、前期の蓄積をベースにして濃密な文化・文明を醸成し、とりあえず人口増加へと転換する時代となるでしょう。
このように考えると、人口減少を嘆いているだけではなく、それぞれの時期に見合った対応策を社会全体で考えていくことが求められます。
そうなると、これからの日本社会は、人口急減→人減定着→人口回復という、3つのプロセスを辿っていくことになるでしょう。
①人口急減社会・・・2010~2060年の約50年間で、人口は1億2800万人から8700万人へ4100万ほど急減していきます。
②人減定着社会・・・2060~2090年の約30年間で、人口は8700万人から8200万人へ500万人ほど漸減していきます。
③人口回復社会・・・2090~2140年ころまでの約50年間で、人口は8200万人から1億2800万人へ4600万人ほど回復していきます。
以上のプロセスは、農業後波の後半である江戸中期の社会と比較すると、おおむね次のように予想できます。
①2010~2060年の人口急減社会は、寛保~宝暦期(1741~64年)に相当し、人口減少への対応について、さまざまな試行錯誤が続く時代となるでしょう。
②2060~2090年の人減定着社会は、明和~天明期(1764~89年)に相当し、人口減少にようやく慣れなじんで、その利点を徹底的に活用していく時代となるでしょう。
(この時代の社会予測については、電子本『平成享保・その先を読む: 人減定着日本展望』やブログ「平成享保のゆくえ」などで詳細に述べています。)
③2090~2140年ころまでの人口回復社会は、寛政・文化・文政期(1789~1831年)に相当し、前期の蓄積をベースにして濃密な文化・文明を醸成し、とりあえず人口増加へと転換する時代となるでしょう。
このように考えると、人口減少を嘆いているだけではなく、それぞれの時期に見合った対応策を社会全体で考えていくことが求められます。
2017年11月27日月曜日
Sustainable から Ripplable へ!
環境問題で目標となっている「Sustainable(持続可能な)」や「Sustainability(持続可能性)」というキーワードを、人口問題に持ち込んで、人口もまたSustainableやSustainabilityをめざすべきだ、という意見があちこちで囁かれています。
しかし、人口問題に長く関わってきた立場からいえば、かなり違和感があります。
人間を含む動物の人口では、さまざまな事例が示すように、ピークに達した後、そのままの数を持続するのではなく、一旦はダウンするケースが一般的であるからです。
キャリング・キャパシティー(Carrying Capacity)とよばれる環境許容量の上限に達すると、自らその数を減らしていきます。
もっとも、ダウンした後、キャリング・キャパシティーに余裕が出てくると、もう一度アップし始め、再びその上限まで増加していきます。だが、そこでまた壁にぶつかると、またまたダウンし始めます。
その結果、動物の数はキャリング・キャパシティーの範囲内で、小刻みな波動を繰りかえすことになります。
その推移は、いわば「さざなみ=小波(Ripple)」です。
実際、農業後波の後半、江戸中期の人口推移を振り返ると、同じような傾向が読み取れます。
とすれば、人口波動後半の社会とは「Sustainable(持続可能な)」や「Sustainability(持続可能性)」をめざすものではなく、強引に形容詞化あるいは名詞化すれば、「Ripplable(小波的な)」や「Ripplablity(小波的継続性)」へ向かうものだ、ということになるでしょう。
しかし、人口問題に長く関わってきた立場からいえば、かなり違和感があります。
人間を含む動物の人口では、さまざまな事例が示すように、ピークに達した後、そのままの数を持続するのではなく、一旦はダウンするケースが一般的であるからです。
キャリング・キャパシティー(Carrying Capacity)とよばれる環境許容量の上限に達すると、自らその数を減らしていきます。
もっとも、ダウンした後、キャリング・キャパシティーに余裕が出てくると、もう一度アップし始め、再びその上限まで増加していきます。だが、そこでまた壁にぶつかると、またまたダウンし始めます。
その結果、動物の数はキャリング・キャパシティーの範囲内で、小刻みな波動を繰りかえすことになります。
その推移は、いわば「さざなみ=小波(Ripple)」です。

実際、農業後波の後半、江戸中期の人口推移を振り返ると、同じような傾向が読み取れます。
とすれば、人口波動後半の社会とは「Sustainable(持続可能な)」や「Sustainability(持続可能性)」をめざすものではなく、強引に形容詞化あるいは名詞化すれば、「Ripplable(小波的な)」や「Ripplablity(小波的継続性)」へ向かうものだ、ということになるでしょう。
2017年11月19日日曜日
人口減少で結婚観が変わってきた!
人口が減少し始めてからほぼ10年、人口容量に多少のゆとりが生まれるとともに、人口抑制装置もまた微かながら緩み始めています。
例えば結婚観の変化です。第15回出生動向基本調査(国立社会保障・人口問題研究所)によると、「結婚することに利点がある」と感じている未婚者は、2010~15年の間に男性で1.9%、女性で2.7%増えています。逆に「結婚することに利点がない」と感じている未婚者は、男性で1.0%、女性で1.3%減っています。
僅かの差のようですが、長期的推移を下に掲げたグラフで確かめると、トレンドが変わってきたことが推測できると思います。
とりわけ、女性の結婚観が大きく変わり始めています。
女性が結婚相手の男性に求める条件を振り返ると、バブル経済時代の1990年頃には「3高」(高学歴・高収入・高身長)でした。
20年後、人口ピーク時直後の2010年頃には「3平」(平均的な年収・平凡な外見・平穏な性格)に変わった、といわれています。
7年後の現在では、これが「3NO」(暴力しない・借金しない・浮気しない)に変化しているようです(㈱パートナーエージェント、調査対象:25〜34歳の独身女性1897人)。
「3高→3平→3NO」という変化の背後には、経済環境の変化とともに、人口容量の変化が潜んでいるようです。
バブル経済が絶頂で人口容量にも440万人のゆとりがあった時代には、かなり背伸びした対象を求めていました。
だが、経済環境が悪化し人口容量もゼロとなった時代になると、背丈に見合った対象を探すようになりました。
しかし、経済環境がやや回復し、人口容量にも300万人ほどゆとりが生まれてきた現在では、もはや「3高」には戻らず、より慎重な条件に対象が変わってきています。
この理由は、人口減少社会への対応が始まっているからだと思います。人口のピークを挟んで、それ以前と以後では、国民の基本的な生活意識は大きく変わっているのです。
人口増加時代の価値観が「成長・拡大」志向であったのに対し、減少時代のそれは「飽和・濃密」志向に変わってきています。人口減少を前提にしつつ、その中でできるだけ濃密な生き方を求めていく、という方向です。
こうした変化が人口抑制装置の作動を緩め始めると、結婚する人口もまた徐々に増えていくことになるでしょう。
例えば結婚観の変化です。第15回出生動向基本調査(国立社会保障・人口問題研究所)によると、「結婚することに利点がある」と感じている未婚者は、2010~15年の間に男性で1.9%、女性で2.7%増えています。逆に「結婚することに利点がない」と感じている未婚者は、男性で1.0%、女性で1.3%減っています。
僅かの差のようですが、長期的推移を下に掲げたグラフで確かめると、トレンドが変わってきたことが推測できると思います。
とりわけ、女性の結婚観が大きく変わり始めています。

女性が結婚相手の男性に求める条件を振り返ると、バブル経済時代の1990年頃には「3高」(高学歴・高収入・高身長)でした。
20年後、人口ピーク時直後の2010年頃には「3平」(平均的な年収・平凡な外見・平穏な性格)に変わった、といわれています。
7年後の現在では、これが「3NO」(暴力しない・借金しない・浮気しない)に変化しているようです(㈱パートナーエージェント、調査対象:25〜34歳の独身女性1897人)。
「3高→3平→3NO」という変化の背後には、経済環境の変化とともに、人口容量の変化が潜んでいるようです。
バブル経済が絶頂で人口容量にも440万人のゆとりがあった時代には、かなり背伸びした対象を求めていました。
だが、経済環境が悪化し人口容量もゼロとなった時代になると、背丈に見合った対象を探すようになりました。
しかし、経済環境がやや回復し、人口容量にも300万人ほどゆとりが生まれてきた現在では、もはや「3高」には戻らず、より慎重な条件に対象が変わってきています。
この理由は、人口減少社会への対応が始まっているからだと思います。人口のピークを挟んで、それ以前と以後では、国民の基本的な生活意識は大きく変わっているのです。
人口増加時代の価値観が「成長・拡大」志向であったのに対し、減少時代のそれは「飽和・濃密」志向に変わってきています。人口減少を前提にしつつ、その中でできるだけ濃密な生き方を求めていく、という方向です。
こうした変化が人口抑制装置の作動を緩め始めると、結婚する人口もまた徐々に増えていくことになるでしょう。
2017年11月9日木曜日
人口容量のゆとりが抑制装置を緩める!
人口減少の進行で人口容量にゆとりが生まれた時、人口が回復するか否かについて、さまざまな視点から眺めてきましたので、一度ポイントを整理しておきましょう。
人口容量と人口抑制装置の基本的関係は【人口減少は極めて〈正常〉な現象!:2015年3月24日】で述べたよう、次の数式で説明できます。
人口容量が一定という環境下で、人口減少でゆとりが出てくると、1人当たりの生活水準が上がり始め、人口抑制装置の緩和する可能性も生まれてきます。そのプロセスは大略、次のように説明できます。
①P(総生息容可能量)は一定だが、人口が減るとV(実際の人口規模)も減るから、L(一人当たりの生息水準)は上がっていく。
②Lが上がれば、親世代は素直に子ども増やす選択を採る。また子ども世代は老年世代を扶養する選択を採る。
③その結果、親世代は結婚に踏み切り、避妊や中絶などを回避して、出生数を増やす。また子ども世代は老年世代の世話や年金負担を続けるから、老年世代の生息水準も維持されて、死亡数が減る。
④Pが伸びない時代には、動物界のなわばりや順位制のように、Pの分配をめぐって競争が激化するが、Lが増えれば競争は弱まり、分配分の格差も縮小するから、結婚して子どもを増やしたり、老年世代の世話を継続するようになる。
⑤こうした環境下で個々の人間が選ぶ、結婚や同棲などの促進行動、避妊や中絶などの回避行動、老年者介護や年金負担などの扶養維持行動が、次第に集団に広がって、社会的なムーブメントとして定着する。その意味で、これらの行動は人為的・文化的な抑制装置を緩和させることになる。
以上のような視点に立つと、人口容量の範囲内で人口を回復させていくには、次のような対応が求められるでしょう。
①人口容量を落とさないように努める。
②人口の回復を焦らないようにする。
③的外れの対応で、1人当たりの生息水準を無理に上げないようにする。
人口容量と人口抑制装置の基本的関係は【人口減少は極めて〈正常〉な現象!:2015年3月24日】で述べたよう、次の数式で説明できます。
この式を変形すると、次のようになります。
人口容量が一定という環境下で、人口減少でゆとりが出てくると、1人当たりの生活水準が上がり始め、人口抑制装置の緩和する可能性も生まれてきます。そのプロセスは大略、次のように説明できます。
①P(総生息容可能量)は一定だが、人口が減るとV(実際の人口規模)も減るから、L(一人当たりの生息水準)は上がっていく。
②Lが上がれば、親世代は素直に子ども増やす選択を採る。また子ども世代は老年世代を扶養する選択を採る。
③その結果、親世代は結婚に踏み切り、避妊や中絶などを回避して、出生数を増やす。また子ども世代は老年世代の世話や年金負担を続けるから、老年世代の生息水準も維持されて、死亡数が減る。
④Pが伸びない時代には、動物界のなわばりや順位制のように、Pの分配をめぐって競争が激化するが、Lが増えれば競争は弱まり、分配分の格差も縮小するから、結婚して子どもを増やしたり、老年世代の世話を継続するようになる。
⑤こうした環境下で個々の人間が選ぶ、結婚や同棲などの促進行動、避妊や中絶などの回避行動、老年者介護や年金負担などの扶養維持行動が、次第に集団に広がって、社会的なムーブメントとして定着する。その意味で、これらの行動は人為的・文化的な抑制装置を緩和させることになる。
以上のような視点に立つと、人口容量の範囲内で人口を回復させていくには、次のような対応が求められるでしょう。
①人口容量を落とさないように努める。
②人口の回復を焦らないようにする。
③的外れの対応で、1人当たりの生息水準を無理に上げないようにする。
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