ポストコロナ論、ル・ルネサンス論、人口急減論が一段落しましたので、再び人類の精神史に戻って、時代識知の変化を考えていきます。
3つのテーマに入るまでは、農業後波の時代識知として宗教(Religion)を取り上げ、最初に仏教の識知観を分析していました。
続いてキリスト教を考える予定でしたが、この課題については、ポストコロナ論やル・ルネサンス論ですでに取り上げていますので、今一度整理しておきます。
キリスト教の識知構造は、①三位一体説、②神地二国論、③十二使徒制の3つに集約されると思います。それぞれの要点をまとめておきましょう。
①三位一体説・・・三位一体説を動力譜(energy flow)として考える!
最も重要な教義である「三位一体」説は、キリスト教の根幹、イエスの本性を「父(神)と子(イエス)と聖霊」という三つの面が一体化したものだ、と主張しています。 この教義について、ローマ帝国末期の神学者・哲学者のアウグスティヌスは、その著『告白』(400年前後)の中で、次のようなアナロジーで説明しています。 私の言う三位とは、存在と認識と意志である。私は存在するし、知っているし、欲するからである。私は知ることも欲することもしながら存在し、私が存在して欲することを知り、私が存在して知ることを欲する。(アウグスティヌス『告白』渡辺義雄訳・世界古典文学全集26・筑摩書房・1966) この文章は、イエスが三位一体であることを論証しようとしたものではなく、三位一体説をアナロジーとして、私たちの精神構造を説明したものです。 しかし、よく考えてみると、私たちの精神そのものが三位一体であるとすれば、その精神に宿っているイエスという存在もまた三位一体であるというトートロジー(恒真命題)を主張しているように思われます。 |
②神地二国論(聖俗並立観)・・・神地二国論が象徴しているものは何か?
2つめの教義は「神地二国論」ですが、これについても、アウグスティヌスは『神の国』(413~427年)の中で、現世では「神の国」と「地の国」が併存しているのだ、と解説しています。この主張を先学諸賢の解釈を参考に整理してみると、以下のとおりです。 ●「神の国」と「地上の国」は、互いに混ざり合いながら存在している。 ●「神の国」が絶対的で永遠で、歴史を超越しているのに対して、「地の国」やその政治秩序はあくまで一時的、かつ限定的なものである。 ●神と地の二国論は、精神的なキリスト教共同体と世俗的な権力国家を識別し、前者の後者に対する優位性や普遍性を示している。 ●世界の歴史は、神を愛し自己をさげすむ「神の国」と、自己を愛し神をさげすむ「地上の国」との争いである。 ●倫理目標の実現の担い手は、国家から教会へ、政治から宗教へと移行すべきである。 以上のように、私たちの生きている世界には、理想としての神聖な世界と、現実としての世俗的な世界が並立しており、後者はできるだけ前者をめざすべきだ、という世界観が読み取れます。 |
③十二使徒制・・・教団組織化が創り出したのは「万物統合観」だった!
3つめは「十二使徒制」という体制です。イエス・キリストは、彼が説いた「福音」を世の中に伝えるため、12人の弟子を直に選びましたが、これが後に「十二使徒」とよばれる集団となりました。 イエスの昇天後、彼らは一旦各地に分散しましたが、やがて使徒ペテロを中心に原始キリスト教団を結成し、ユダヤ教などからのさまざまな迫害をはねのけて、地中海沿岸地域で勢力を拡大しました。 十二使徒制は、天地万物の創造者で宇宙を支配する唯一神「ヤハウェ(Jehovah)」(エホバと誤読される)の力(energy)を、救世主イエスが引き継ぎ、それをさらに十二使徒へと伝達することで社会全体へ広げていく、という構造を示していました。 このような宗教集団の成立によって、人類の集団的行動は、それ以前の自然発生的な地域集団を超えて、目標的、組織的、広域的な集団の成立可能性を高めることになりました。 |
キリスト教の識知構造を考えてみると、以上のような3つの教義や体制が浮上してきます。
これらがどのような形で、人口波動の農業後波を創り上げていったのか、さらに整理してみましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿