2020年7月7日火曜日

神地二国論が象徴しているものは何か?

コロナ禍のインパクトを探るため、黒死病の先例を調べていますが、その影響を最も強く受けた西ヨーロッパの「時代識知」、つまりキリスト教の精神構造について、前回の「三位一体エネルギー観」に続き、今回は「神地二国論(聖俗並立観)」について考えていきます。 

前回も紹介したローマ帝国末期の神学者・哲学者アウグスティヌス(Aurelius Augustinus :354~ 430年)は、413~427年に著した『神の国』(Dē cīvitāte Deī ; 英訳 The City of God)の中で、現世では「神の国」と「地の国」が併存している、と述べています。



とは、ある社会的絆によって結合された多くの人々にほかならない。(XV. 8=章節:以下同) 

その一つは、肉にしたがって生きる人間から成る国(地の国:筆者注)であり、いま一つは、霊にしたがって生きる人間から成る国(神の国:筆者注)である。(XIV, 1) 

二種の愛が二つの国をつくったのであった。すなわち、この世の国(地の国:筆者注)をつくったのは神を侮るまでになった自己愛であり、天の国(神の国:筆者注)をつくったのは自己を侮るまでになった神の愛である。 

一言で言えば、前者は自己自身において誇り、後者は主において誇るのである。前者の諸民族においては、この君主たちや、君主たちが隷属させている人びとのうちに、支配しようという欲情が優勢であるが、後者においては、上に立つ者は思慮深い配慮のように、そして服従する者は従順に従うことにより、愛において互いに仕えるのである。(XIV, 28) 

わたしたちが論じている二つの国、すなわち、ひとつはこの世にあっては巡礼の旅を続けている天の国であり、他はこの世の喜びを渇望して、あたかもそれが唯一の喜びであるかのように、それに固執している地上の国を象徴的に示している。(XV, 15) 

二つの国、すなわち、地上の国と天の国との――両者は先に言ったとおり、この束の間の世では、いわば、からみ合い、たがいに混じり合っている。(XI, 1) 

わたしたちはこの世の国に二つの性格を見い出すのであって、その一つは、そのものの現実の存在を示すのであり、ほかの一つは、そのものが現実に存在することによって神の国が象徴的に暗示されるためである(XV, 2) 

(アウグスティヌス『神の国』服部英次郎・藤本雄三訳、岩波文庫:1982年〜1991年) 



こうした主張を先学諸賢の解釈を参考にしつつ、改めて整理してみると、以下のとおりです。



●「神の国」と「地上の国」は、互いに混ざり合いながら存在している。

●「神の国」が絶対的で永遠であり、歴史を超越しているのに対して、「地の国」やその政治秩序はあくまで一時的、かつ限定的なものである。

●神と地の二国論は、精神的なキリスト教共同体世俗的な権力国家を識別し、前者の後者に対する優位性や普遍性を示している。

世界の歴史は、神を愛し自己をさげすむ「神の国」と、自己を愛し神をさげすむ「地上の国」との争いである。

●キリスト教会は、「神の国」とは異質な「地の国」に混入している。

倫理目標の実現の担い手は、国家から教会へ、政治から宗教へと移行すべきである。 

以上のように、キリスト教の神地二国論が示していたのは、私たちの生きている世界には、理想としての神聖な世界と、現実としての世俗的な世界が並立しており、後者はできるだけ前者をめざすべきだ、という世界観だった、と思われます。

この発想こそ、前々回の中世ヨーロッパの社会構造において、「教会・王権並立制」を成立させた要因の一つだったといえるでしょう。

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