「識知」という言葉は、1970年代から日本の思想界で使われてきました。
最近では類似の言葉として、「認知」が多用されています。
両者はどのように違うのでしょうか?
人間が周りの環境世界を理解する場合、すでに【人類は世界をどのように理解してきたのか?:2019年3月24日】で述べていますが、「身(み)分け」という網と「言(こと)分け」という網の、2つの網の目を通して対応しています。
「身分け」の網とは、人間が自らの本能という「網」の目によって、周りの外界を理解した世界像、つまりヒトという「種」に特有のゲシュタルト(Gestalt:部分の集まりを越えた、全体的な構造)を意味しています。
「言分け」の網とは、人間が「身分け」の網の上に、もう一つ「シンボル化能力とその活動」、つまり広い意味でのコトバ(言語)を操る能力によって生みだされる、もう一つ別の外界像「コスモス:cosmos」を示しています。
このように、人間はまずは本能・感覚の網で世界をつかみ取り、さらにもう一度、コトバやシンボル(絵や形)の網によって世界を捉え直しています。
いいかえれば、私たちは生物次元の「身分け」構造と、人類次元の「言分け」構造の“二重のゲシュタルト”によって、周りの外界を把握しているのです。
この二重構造から「認知」と「識知」の差異が生まれます。
図に示したように、まず周りの物質的世界の「物」は、人間自身の「身分け」能力の作動によって、本能や感覚が捉えた限りでの「モノ」として理解されます。
この理解こそ「認知」です。
他の動物でも、それに特有の「認知」能力によって、それぞれの「モノ」的世界を理解しています。
一匹の狐は視覚や聴覚などの捉えた情報をもとに、餌や天敵や逃げ道などを理解していますが、まさしく動物次元の「認知」能力です。
ところが、人間はこのように理解した「モノ」的世界を、彼ら特有の「言分け」能力によってさらに捉え直し、「コト」として理解しています。
この理解こそ「識知」です。
一人の人間は食用植物や大風や蝉の声を「貢物」や「神風」や「初夏」として理解していますが、これこそ人間次元の「識知」能力です。
他の動物でも、それぞれの「身分け」能力に加え、種特有の方法でさらに環境世界を嗅ぎ分ける能力を持っている可能性も考えられますので、人間に特有のそれが「言分け」能力である、ともいえるでしょう。
このように人間という動物が、「認知」+「識知」という、二重の知覚処理能力によって周りの環境世界を理解している以上、両者を分けて考えることが必要となります。
今回はとりあえず、「認知」と「識知」の基本的な違いについて考えてきましたが、この視点をベースとすると、「識知」という概念にはさらに幾つかの特性が考えられます。
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