2019年6月13日木曜日

「識知」という言葉を誰が使ったのか?

5つの人口波動を創り出した、時期別の環境観や世界観を一言で表現する言葉として「時代識知」を提唱したいと思いますが、「識知」とは何を意味するのでしょうか?

最初に検討すべきは「認知」と「識知」の違いです。

人間が周りの環境世界を理解する言葉として、通常使われているのは「認識」や「認知」でしょう。

辞書(大辞林 第三版:三省堂)によると、哲学や心理学では、次のように説明されているようです。

認識】・・・〘哲〙〔cognition; ドイツ erkenntnis〕 人間(主観)が事物(客観・対象)を認め、それとして知るはたらき。また、知りえた成果。感覚・知覚・直観・思考などの様式がある。

認知】・・・〘心〙〔cognition〕 生活体が対象についての知識を得ること。また、その過程。知覚だけでなく、推理・判断・記憶などの機能を含み、外界の情報を能動的に収集し処理する過程

これらの言葉は、欧米語の翻訳語として、近代日本に定着したものです。

一方、「識知」という言葉については、他の辞書(精選版 日本国語大辞典:小学館)で次のように解説されています。

識知】・・・〘名〙知ること。認めること。

識知のおよばざるより同生して、識知のおよばざるを住持し、識知のおよばざるに実帰す。(正法眼蔵:1231~53年、巻:神通)

これを見ると、「識知」という言葉は一般的ではなく、仏典のような、ごく特殊な分野で使われているようです。


しかし、日本の思想界では、1970年代からしばしば「識知」が使われています。


これらのことをいいつのるに必要なヨーロッパの文化にたいする輪廓ある識知をわたしはまったくもっていない。吉本隆明『悲劇の解読』1979)。

野獣は、なわばりといった領域を、いわば〈身分け〉として識知しているが、これは、空間的表象をそれが持っていることを意味する。(竹田青嗣『意味とエロス―欲望論の現象学』1986)

こうした使用法が始まったのは、おそらく中村雄二郎の翻訳による、ミシェル・フーコー『知の考古学』(1970)主要用語解説によるところが大きいのでは、と筆者は推察しています。中村は次のように述べています。

識知 savoir はふつうは、広く「知」とか、「知識」という意味だが、フーコーはとりわけ『言葉と事物』以来(すでに『狂気の歴史』中にも見えているが)、サヴォワールにエピステーメー:épistémè に対してと同様、それも非常によく似た、特殊で重要な意味を与えている。
すなわち、それは、一つの時代、一つの文化の共通の基盤をなす認識系ともいうべきもので、個々人の知識や思想を超えて存在するものである。

このようなフーコーの意図を考える時、中村は「savoir」の訳語として、汎用されている【認知:cognition】よりも、仏教の唯識論や東洋哲学などで使用されてきた「識知」を当てる方がよりふさわしいと考えたのではないでしょうか。

識知」の意味を論じる前に、この言葉が思想界で普及し始めた背景をひとまず考えてみました。

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