ポストコロナ=ラストモダンの時代も、社会的混乱と社会的革新が並行的に進行し、前者ではグロ―バル化、民主主義制、市場経済制の3つが浮上してきます。
3番めは市場経済制(market economy)。
この分野では、すでに【コロナ禍でお金の価値が変わる?】や【コロナ禍が資本主義を改変する?】で指摘した通り、次のような混乱が広がっています。
①経済実態と株価推移が乖離し、資本動向と経済動向が分離 ②所得格差や生活格差がさらに拡大 ③国家財政の急激な逼迫 ④富裕層やデジタル企業などへ不公平税制 |
このような混乱は、今後も約100年間、ラストモダンの時代にもなお続いていくものと思われます。
その背景にある、究極の要因は「お金」、つまり「貨幣」という言語記号の変質化なのではないでしょうか。
人類は貨幣という言語記号の発明によって、それまでの物々交換から貨幣媒介へと、市場制度を飛躍的に拡大させてきました。
経済人類学者のK・ポランニーも、貨幣とは「言語」記号の一つだ、と述べています。
「一般的にいって、貨幣というのは言語や書くということとか、秤量や尺度に似た意味論上のシステムなのである。この性格は、貨幣の三つの使用法、すなわち支払い、尺度、交換手段のすべてに共通している。」(『経済と文明』) |
要するに、貨幣とは事物の比較関係を意味する「言語」記号の一つ、ということです。
コインはもとより紙幣という、ほとんど「ねうち(値)」を持たない物質が、商品や労働などの「あたひ(価)」を表すのは、音声言語の意味作用を物質に応用したものにすぎないからです。
「ねうち(値)」と「あたひ(価)」の違いについては、筆者の別のブログの【「語義×価値」から「ねうち×あたひ」へ!】などの投稿で詳しく述べていますが、前者は一つのモノの「役立つ」という特性、つまり「有用性」がそのモノの特性と一体化している状態、また後者は相対的な尺度、つまり他のモノの「有用性」や「無用性」との〝比較〟や〝対比〟で定まる尺度を、それぞれ示しています。
このうち、「あたひ」の大きさについては、そのブログの【“効用”という“あたひ”とは・・・】において、経済学の客観価値説と主観価値説を紹介しています。
客観価値説では「交換価値」と名づけたうえで、その大小は供給量=労働量によって決まる、と説明します。 主観価値説では「効用」と名づけたうえで、供給量の増減によって変化する、「全部効用(基本的な満足度)」と「限界効用(一つ増えることで得られる主観的な満足度)」の差がその上下を作り出す、と説明しています。 |
いずれにしろ、貨幣の示す「あたひ」の大きさは、供給状況と密接に結びついており、その増減もまた実体社会の動きと的確に連動しています。
ところが、近年の動向をみると、貨幣尺度の変動は実体経済の動きから、次第に離れつつあるように思えます。
①今回のコロナ禍で露出したように、株価という貨幣尺度は、実体経済の動きをもはや反映していません。貨幣供給量の増減という、実体経済とは離れた政策的誘導によって、大きく支配されているからです。 ②MMT(Modern Monetary Theory、現代金融理論)では、独自の通貨を持つ国の政府は、限度なく通貨を発行できるため、デフォルト(債務不履行)に陥ることはなく、政府債務残高がどれだけ増加しても問題はない、と主張しています。こうなると、貨幣は実体的な「あたひ」ではなく、架空の「信用」を意味するものに変わっていきます。 ③インターネット上で拡大し始めた仮想通貨(暗号資産)は、実体を伴わない架空の「あたひ」だけを意味しており、換金性や利用者に対する保証が曖昧なまま、投機性のみが膨張していく危険性を孕んでいます。 |
以上のように、これまでの市場経済制を支えてきた貨幣という言語もまた、極めて不安定な状況に追い込まれています。