周知のとおり、仏教はBC500年頃、北インドでゴータマ・シッダールタ(釈迦)が創始し、教団を組織化した宗教です。
初期仏教では、どのような視点で環境世界を捉えていたのでしょうか。
筆者所蔵の諸文献の中から、日本の仏教学や仏教哲学を代表される先生方の見解を引用しつつ、その教義を推測してみましょう。
仏教の教理の基本は,しばしば〈諸行無常:しよぎようむじよう)〈一切皆苦:いつさいかいく〉〈諸法無我:しよほうむが〉〈涅槃寂静:ねはんじやくじよう〉の四句に要約される。これを一般に四法印と呼ぶ。ときには〈一切皆苦〉を除いて三法印という。
(「仏教」:CD-ROM版・世界大百科事典 第2版 ベーシック版:1998)
(「仏教」:CD-ROM版・世界大百科事典 第2版 ベーシック版:1998)
山崎 正一 先生
当時のインド思想界では、バラモン系統の有力な思想として、現実の世界の根源を「アートマン(永遠の魂―筆者注)」であるとする説があり、これに対してゴータマ仏陀は、この現実の世界を無常の世界であり苦の世界であるとする(「一切皆苦」)。そこに常住不変のアートマンのような精神的実体があるわけでもなく、また地水火風のような常住不変の物質的実体があるわけでもない。常住不変のものがあると思い、それに固執することによって多くの煩悩が生じる。しかし真実には常住不変なるものはない(「諸法無我一切は無常である:諸行無常」)。このありのままの心理を体得することにより、一切の苦を減しつくすことができよう(「涅槃寂静」)。そこに大いなる慈悲の世界が開かれてくる。現実の生命の世界は、真実を求める知性により浄化されて、広く豊かな生命の世界として救い上げられ恢復され開かれてくるのである。
(「仏教」:現代哲学事典:講談社現代新書:1970)
(「仏教」:現代哲学事典:講談社現代新書:1970)
三枝 充悳 先生
ブッダは「現実は苦である」との探究から出発し、それの解決を求めて修行し、苦からの解脱(げだつ)を覚って仏教を樹立した。苦とは、自己の欲するとおりにならない、願いがかなえられないことをいい、それを深く探究していくと、自己の外(そと)のものが思うようにならないというよりも、むしろ自己の内(うち)なるものが自己に背く、逆にいえば、たとえば、生(しょう)・病・老・死からの解放というような、自己にかなわないものを、自己が欲する、そのようなところに苦の本質があって、いわば自己矛盾ないし自己否定ということになる。(中略)それらの底にある執着(とくに我執)を排すべきことが「無我」と説かれる。これらの現実のありのままを明らかにして、覚りが開かれ、解脱が完成したところに、なにものにも乱されない涅槃の寂静が実現する。
(「仏教」:日本大百科全書(ニッポニカ):1994)
(「仏教」:日本大百科全書(ニッポニカ):1994)
中村 元 先生
仏教の教えというものは、この上に輝く日月のようなものである。太陽や月があらゆる人を照らすように、仏教の教える真理というものは、あらゆる人に明らかなものであり、あらゆる人を照らす。(中略)およそこの世のもので、いつまでも破れないで存続し続けるものは何もない。いつかは破れ消えうせるものである。(中略)この変転常ない世の中では、まず自分に頼るべきである。自分に頼るとはどういうことであるか。自分はこの場合にどうすべきかということを、その場合その場合において考えることでしょう。その場合 何を判断決定の基準にするのか。それは「人間としての道」「法」、インドの言葉で言うと「ダルマ」と呼ばれるものです。これを「法」と訳しますが、この人間の理法というもの、これに頼ること「自己に頼れ、法に頼れ」。これが釈尊の最後の教えでありました。
(仏教の本質:NHK:2009/07/18)
(仏教の本質:NHK:2009/07/18)
以上のように見てくると、初期仏教の教義は、環境世界と人間の関わり方というより、個人としての人間の生き方を中心的なテーマにしているようです。
しかし、時代が下り、多くの人々を教団化するにつれて、より集団的、社会的な視点を加えるようになり、人間集団を動かす「時代識知」へと変化していきます。
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