このブログでは、ポストコロナやラストモダンという言葉を頻繁に使っていますので、ポスト(Post)やラスト(Last)の使用法について、一通り説明しておきます。
改めていうまでもなく英語では、Postは〔時間的に~の後の、の次の〕を、またLastは〔順序が最後の、一番後の〕を意味しています。
それゆえ、ポストコレラは「黒死病の後の時代」、ポストコロナは「コロナ禍の後の時代」ということになります。
一方、ラストミドルは「中世の末期」を、ラストモダンは「近代の末期」をそれぞれ意味しています。
ラストモダンは、ポストモダンと似ているようですが、本質的に違います。
ポストモダン(PostModern)という言葉は、1970年代後半、イギリスの建築評論家C.ジェンクス(Charles Alexander Jencks)が提唱し、80年代に入ると、フランスの哲学者、リオタール(Jean-François Lyotard)、デリダ(Jacques Derrida),ドゥルーズ(Gilles Deleuze)らによるポスト・モダニズム思想として、世界の哲学界を席巻しました。
近代の合理主義的、一元的な原理主義を批判し、消費社会や情報社会に対応した知や実践のあり方を模索する思想的・文化的な運動であり、「近代」を越えようとするものでした。
これに対し、ラストモダン(LastModern)は、人口波動説の視点から、一つの波動の下降期を意味するものです。
この言葉は、筆者が今から30年前、日本経済新聞・夕刊(1990年2月26日)の連載コラム「生活ニューウエーブ」で提唱したもので、この時点で調査した限り、世界で初めての使用でした。
ラスト・モダン 昨年暮れに厚生省が発表した、89年の出生率(千人当たり)は10.1と史上最低を記録し、1980年以来連続して最低記録を更新している。 主な原因としては、出産年齢人口の減少、結婚形態の変化、既婚者出生率の低下の三つが考えられるが、その背後には、年齢構成の上昇、未婚率や離婚率の上昇、少産志向の拡大などが要因となっている。が、さらにその一つ一つをつきつめていくと、経済成長の鈍化や都市化社会の拡大、文化の爛熟(らんじゅく)化といった近代文明の成熟化に行き着くことになる。 一般に、人口の成長は始動、上昇、飽和、停滞の4つの過程をたどるから、この人口曲線もわが国の近代化の過程とほぼ一致している。そこで、江戸後期から明治維新までを近代前期、維新から2000年ころまでを近代中期、その後を近代後期と呼ぶことができよう。 約120年間続いた近代中期は、もっぱら成長一拡大型の社会であった。しかし、あと十年後に迫った近代後期は、かつてジャポニスムを生み出した、江戸中期百年間の停滞型社会と同じように、物質的には停滞するものの、精神的には爛熟化する文化の時代 となるのではないか。 とすれば、科学技術、市場経済、国際主義などが成熟化する中で、急拡大を続けた成長型社会の矛盾――環境破壊、地価高騰、資産格差の拡大などを一つずつ解決し、成熟した生活文化を尊ぶ安定型社会をめざすことが必要だろう。それは、近代の終わりではなく、近代の総仕上げを意味している。 そう考える時、私たちが今、向かっているのは、「ポスト・モダン」ではなく「ラスト・モダン」なのだ。 (古田隆彦) |
その後、幾つかの拙著で、この言葉を提唱してきましたが、その一つを揚げておきます。
ラストモダンとは、決してモダンの終りなどではなく、むしろモダンの完成期、つまり「ファイナル(仕上げ)モダン」なのである。・・・ラストモダンになると、成長・拡大が抑えられることで、・・・より成熟した生活文化を尊ぶ時代をめざせるようになる。 (古田隆彦『人口減少社会のマーケティング』生産性出版、2003、P279~282) |
何度か提唱しているうち、この言葉はそれなりに受け入れられたようで、
公文俊平著『情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる』(NTT出版、2004)
浦達也著『実感の同時代史: 戦争からラストモダンまで』(批評社、2006)
岩本真一氏のウェブサイト:モードの世紀「ラストモダンの1960年代」
などで採用していただきました。
以上のように、ラストモダンは、近代を否定する抽象的な「ポストモダン」とは異なり、近代の最終期を意味する、極めて具象的な言葉として提案したものです。
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