コロナ禍のインパクトを探るため、黒死病の先例を調べていますが、その影響を最も強く受けた西ヨーロッパの農業後波について、前回の「生産構造」に引き続き、今回は「社会構造」をとりあげます。
「生産構造」が生み出した「社会構造」を整理すると、下図のようになります。
「生産構造」が生み出した「社会構造」を整理すると、下図のようになります。
この図の中から、教会・王権並立制、封建制、純粋荘園制の3つの関連を考えてみましょう。
①教会・王権並立制(The coexist system of church and kingdoms)
初期のキリスト教は、ローマ帝国内の入信者による社会的な奉仕が、伝染病への対応、病人の介護、嬰児殺しの禁止など、あるいは天変地異時における救援活動などへと広がるにつれて、急速に勢力を拡大していった。
その結果、313年にローマ帝国はミラノ勅令によってキリスト教を公認し、さらに392年にはローマ帝国の国教に認定した。
5世紀初頭、神学者アウグスティヌスは『神の国』を著し、世界は「神の国」と「地の国」で構成されるという「二国史観」を主張した。この思想によって、キリスト教は精神的なキリスト教共同体と世俗的な国家を弁別し、前者の後者に対する優位性を明らかにすることになった。
しかし、ローマ帝国は国教化のわずか3年後、395年に東西に分裂し、その一方の西ローマ帝国もまた476年に滅亡、その領域はフランク王国の支配地域となった。フランク王国は急速に勢力を伸ばし、西ヨーロッパの大半を支配するようになると、キリスト教を受容して領域内へ広めていった。
800年にフランク王国のカール大帝は、ローマにおいて、教皇からローマ皇帝として帝冠を授かった。これによって、大帝は世俗界を支配する者として認められ、世俗権力がキリスト教の下に位置付けられるという、中世の聖俗秩序が確立した。教皇による帝冠の授与は、フランク王国を継承した神聖ローマ帝国においてもなお続けられていく。
その結果、313年にローマ帝国はミラノ勅令によってキリスト教を公認し、さらに392年にはローマ帝国の国教に認定した。
5世紀初頭、神学者アウグスティヌスは『神の国』を著し、世界は「神の国」と「地の国」で構成されるという「二国史観」を主張した。この思想によって、キリスト教は精神的なキリスト教共同体と世俗的な国家を弁別し、前者の後者に対する優位性を明らかにすることになった。
しかし、ローマ帝国は国教化のわずか3年後、395年に東西に分裂し、その一方の西ローマ帝国もまた476年に滅亡、その領域はフランク王国の支配地域となった。フランク王国は急速に勢力を伸ばし、西ヨーロッパの大半を支配するようになると、キリスト教を受容して領域内へ広めていった。
800年にフランク王国のカール大帝は、ローマにおいて、教皇からローマ皇帝として帝冠を授かった。これによって、大帝は世俗界を支配する者として認められ、世俗権力がキリスト教の下に位置付けられるという、中世の聖俗秩序が確立した。教皇による帝冠の授与は、フランク王国を継承した神聖ローマ帝国においてもなお続けられていく。
②封建制(Feudalism)
中世の西ヨーロッパでは、教皇や国王といった、一人の権力者が一定領域を統治することが不可能であったため、国王・諸侯・教会がお互いに権力を補い合うような多重権力構造が生まれていた。
この構造を維持するために生まれたのが、いわゆる「封建制」であり、主従関係という属人的要因と、恩貸地制という経済的要因が不可分な形で結合された制度であった。
制度の基本を担ったのは、一定の土地の租税徴収権を認められた「領主」といわれる人たちで、彼らの支配する土地=荘園の規模は大小さまざまであったから、その意味では、国王や諸侯はもとより、教会や修道院もまた領主であった。
こうした構造のため、有力な領主と弱小な領主の間には、土地を仲立ちとした封建的な主従関係が幾重にも存在していた。
例えば外敵に対する防衛の必要性から、有力領主は弱小領主に領地(封土)を与えてその支配権を保護するとともに、彼らに忠誠を誓わせ、騎士としての軍事力を領地の規模に比例して提供させた。
他方、内政的には弱者領主といえども、領土の不輸・不入権(王権を排した課税権・裁判権)を認めていた。領主は領地内の農民(農奴)に対して、賦役、地代、通行税などを課し、さらには領主裁判権の行使といった、経済外的な強制を通じて領民を支配することもできた。
このような封建社会は、11〜13 世紀が最盛期であったが、以下で述べる荘園制の解体とともに、次第に崩壊していった。
この構造を維持するために生まれたのが、いわゆる「封建制」であり、主従関係という属人的要因と、恩貸地制という経済的要因が不可分な形で結合された制度であった。
制度の基本を担ったのは、一定の土地の租税徴収権を認められた「領主」といわれる人たちで、彼らの支配する土地=荘園の規模は大小さまざまであったから、その意味では、国王や諸侯はもとより、教会や修道院もまた領主であった。
こうした構造のため、有力な領主と弱小な領主の間には、土地を仲立ちとした封建的な主従関係が幾重にも存在していた。
例えば外敵に対する防衛の必要性から、有力領主は弱小領主に領地(封土)を与えてその支配権を保護するとともに、彼らに忠誠を誓わせ、騎士としての軍事力を領地の規模に比例して提供させた。
他方、内政的には弱者領主といえども、領土の不輸・不入権(王権を排した課税権・裁判権)を認めていた。領主は領地内の農民(農奴)に対して、賦役、地代、通行税などを課し、さらには領主裁判権の行使といった、経済外的な強制を通じて領民を支配することもできた。
このような封建社会は、11〜13 世紀が最盛期であったが、以下で述べる荘園制の解体とともに、次第に崩壊していった。
③純粋荘園制(Pure manor system)
上記のように、荘園とは、中世封建社会において領主が農民(農奴)を使役して直接経営を営む私有地の区域をいう。一つの荘園にはおよそ一つの集落が含まれ、牧場や水車などを含む、自給自足的な閉鎖的経済が行われていた。
8~9世紀に形成された「古典荘園」では、荘園領主が大規模な領主直営地を経営し、主として農民(農奴)の賦役労働によって耕作させた。農民は荘園内に居住して家族生活を営み、保有地を耕作することができたが、職業選択や移動の自由はなく、また領主に対し重い地代(主として労働地代と生産物地代)と結婚税や死亡税、教会への十分の一税などを負担し、領主裁判権に服する「農奴身分」におかれていた。
しかし、12~13世紀になると、古典荘園は次第に「純粋荘園」ヘと変化していった。三圃制農業の普及、鉄製農具の改良などで生産力が向上してくるにつれ、土地を農民に貸し与える「開放農地化」が進み、農民自身が余剰生産物を商品化して、そこで得た貨幣を地代として上納するという形態、つまり貨幣地代が一般化してくる。さらに耕地や共同牧場の管理の必要性から、農村の「村落共同体」の形成が促された。
こうして領主直営地が減少し、貨幣地代が一般化してくるとともに、古典荘園は次第に縮小し、純粋荘園ヘと変化していった。
純粋荘園においては、②で述べたように、国王に租税を納める義務はなく、また役人の立入も拒否することのできる不輸・不入権が与えられていた。
その結果、領主層の封建的な支配は次第に緩み、貨幣を蓄えた農民の中から、多額の解放金を支払うことで、人頭税・結婚税・死亡税などの身分的隷属から自由になるものも現れ、いわゆる「農奴解放」が進んでいった。
8~9世紀に形成された「古典荘園」では、荘園領主が大規模な領主直営地を経営し、主として農民(農奴)の賦役労働によって耕作させた。農民は荘園内に居住して家族生活を営み、保有地を耕作することができたが、職業選択や移動の自由はなく、また領主に対し重い地代(主として労働地代と生産物地代)と結婚税や死亡税、教会への十分の一税などを負担し、領主裁判権に服する「農奴身分」におかれていた。
しかし、12~13世紀になると、古典荘園は次第に「純粋荘園」ヘと変化していった。三圃制農業の普及、鉄製農具の改良などで生産力が向上してくるにつれ、土地を農民に貸し与える「開放農地化」が進み、農民自身が余剰生産物を商品化して、そこで得た貨幣を地代として上納するという形態、つまり貨幣地代が一般化してくる。さらに耕地や共同牧場の管理の必要性から、農村の「村落共同体」の形成が促された。
こうして領主直営地が減少し、貨幣地代が一般化してくるとともに、古典荘園は次第に縮小し、純粋荘園ヘと変化していった。
純粋荘園においては、②で述べたように、国王に租税を納める義務はなく、また役人の立入も拒否することのできる不輸・不入権が与えられていた。
その結果、領主層の封建的な支配は次第に緩み、貨幣を蓄えた農民の中から、多額の解放金を支払うことで、人頭税・結婚税・死亡税などの身分的隷属から自由になるものも現れ、いわゆる「農奴解放」が進んでいった。
以上のように、中世ヨーロッパの「社会構造」とは、ローマ教会が示した精神構造と集約農業による生産構造を基盤としつつ、その上方において政治や経済を動かしていたものと推察できます。
さらにいえば、こうした「生産構造」と「社会構造」を支えていたのは、それらの底に潜む「時代識知」そのものではなかったでしょうか。