2020年6月24日水曜日

黒死病が壊した西欧中世の社会構造とは・・・

コロナ禍のインパクトを探るため、黒死病の先例を調べていますが、その影響を最も強く受けた西ヨーロッパの農業後波について、前回の生産構造に引き続き、今回は「社会構造」をとりあげます。

「生産構造」が生み出した「社会構造」を整理すると、下図のようになります。





この図の中から、教会・王権並立制、封建制、純粋荘園制の3つの関連を考えてみましょう。

教会・王権並立制The coexist system of church and kingdoms)

初期のキリスト教は、ローマ帝国内の入信者による社会的な奉仕が、伝染病への対応、病人の介護、嬰児殺しの禁止など、あるいは天変地異時における救援活動などへと広がるにつれて、急速に勢力を拡大していった。 

その結果、313年にローマ帝国はミラノ勅令によってキリスト教を公認し、さらに392年にはローマ帝国の国教に認定した。

5世紀初頭、神学者アウグスティヌスは『神の国』を著し、世界は「神の国」と「地の国」で構成されるという「二国史観」を主張した。この思想によって、キリスト教は精神的なキリスト教共同体世俗的な国家を弁別し、前者の後者に対する優位性を明らかにすることになった。

しかし、ローマ帝国は国教化のわずか3年後、395年に東西に分裂し、その一方の西ローマ帝国もまた476年に滅亡、その領域はフランク王国の支配地域となった。フランク王国は急速に勢力を伸ばし、西ヨーロッパの大半を支配するようになると、キリスト教を受容して領域内へ広めていった。

800年にフランク王国のカール大帝は、ローマにおいて、教皇からローマ皇帝として帝冠を授かった。これによって、大帝は世俗界を支配する者として認められ、世俗権力がキリスト教の下に位置付けられるという、中世の聖俗秩序が確立した。教皇による帝冠の授与は、フランク王国を継承した神聖ローマ帝国においてもなお続けられていく。

封建制(Feudalism)

中世の西ヨーロッパでは、教皇や国王といった、一人の権力者が一定領域を統治することが不可能であったため、国王・諸侯・教会がお互いに権力を補い合うような多重権力構造が生まれていた。

この構造を維持するために生まれたのが、いわゆる「封建制」であり、主従関係という属人的要因と、恩貸地制という経済的要因が不可分な形で結合された制度であった。

制度の基本を担ったのは、一定の土地の租税徴収権を認められた「領主」といわれる人たちで、彼らの支配する土地=荘園の規模は大小さまざまであったから、その意味では、国王や諸侯はもとより、教会や修道院もまた領主であった。

こうした構造のため、有力な領主と弱小な領主の間には、土地を仲立ちとした建的な主従関係が幾重にも存在していた。

例えば外敵に対する防衛の必要性から、有力領主は弱小領主に領地(封土)を与えてその支配権を保護するとともに、彼らに忠誠を誓わせ、騎士としての軍事力を領地の規模に比例して提供させた。

他方、内政的には弱者領主といえども、領土の不輸・不入権(王権を排した課税権・裁判権)を認めていた。領主は領地内の農民(農奴)に対して、賦役、地代、通行税などを課し、さらには領主裁判権の行使といった、経済外的な強制を通じて領民を支配することもできた。

このような封建社会は、11〜13 世紀が最盛期であったが、以下で述べる荘園制の解体とともに、次第に崩壊していった。

純粋荘園制(Pure manor system)

上記のように、荘園とは、中世封建社会において領主が農民(農奴)を使役して直接経営を営む私有地の区域をいう。一つの荘園にはおよそ一つの集落が含まれ、牧場や水車などを含む、自給自足的な閉鎖的経済が行われていた。

8~9世紀に形成された「古典荘園」では、荘園領主が大規模な領主直営地を経営し、主として農民(農奴)の賦役労働によって耕作させた。農民は荘園内に居住して家族生活を営み、保有地を耕作することができたが、職業選択や移動の自由はなく、また領主に対し重い地代(主として労働地代と生産物地代)と結婚税や死亡税、教会への十分の一税などを負担し、領主裁判権に服する「農奴身分」におかれていた。

しかし、12~13世紀になると、古典荘園は次第に「純粋荘園」ヘと変化していった。三圃制農業の普及、鉄製農具の改良などで生産力が向上してくるにつれ、土地を農民に貸し与える「開放農地化」が進み、農民自身が余剰生産物を商品化して、そこで得た貨幣を地代として上納するという形態、つまり貨幣地代が一般化してくる。さらに耕地や共同牧場の管理の必要性から、農村の「村落共同体」の形成が促された。

こうして領主直営地が減少し、貨幣地代が一般化してくるとともに、古典荘園は次第に縮小し、純粋荘園ヘと変化していった。

純粋荘園においては、②で述べたように、国王に租税を納める義務はなく、また役人の立入も拒否することのできる不輸・不入権が与えられていた。

その結果、領主層の封建的な支配は次第に緩み、貨幣を蓄えた農民の中から、多額の解放金を支払うことで、人頭税・結婚税・死亡税などの身分的隷属から自由になるものも現れ、いわゆる「農奴解放」が進んでいった。

以上のように、中世ヨーロッパの「社会構造」とは、ローマ教会が示した精神構造集約農業による生産構造を基盤としつつ、その上方において政治や経済を動かしていたものと推察できます。

さらにいえば、こうした「生産構造」と「社会構造」を支えていたのは、それらの底に潜む「時代識知」そのものではなかったでしょうか。

2020年6月17日水曜日

黒死病が壊した中世西欧社会とは・・・

黒死病と農業後波の関係、コロナ禍と工業現波の関係、それぞれを比較してきましたが、この視点をもう少し深めていきましょう。

黒死病と農業後波のトータルな関係については、前々回の【
黒死病・・・人口急減の引き金を引いた!】で一通り眺めてきましたが、より深く見直すには、最も影響を受けた西ヨーロッパの状況を考察する必要があると思います。

そこで、西ヨーロッパを対象に、農業後波の成立状況、つまり【
自然環境×集約農業文明】で作られた、史上3番目の人口容量の成立条件について、さまざまな要素間の関係を整理してみると、下図のようになります。



この図の中からまずは、集約農業文明の生み出した「生産構造」について、農耕・牧畜、三圃制、鉄製農機具、集団生産制など諸要素の関連を考えてみましょう。

農耕・牧畜(Farming and livestock)
最も基本となる生産要素は、一つ前の農業前波を支えた粗放農業技術を巧みに継承・発展させた、集約的な農耕と牧畜である。

農耕では整地された畑で、大麦、小麦、オート麦、ライ麦などが、さまざまな野菜や果物とともに栽培されていた。

牧畜では休耕地を利用した牧草地で、が羊毛(衣料)用に、が食肉用に飼育され、さらに牽引用動物としてが使用されていた。

三圃制(three fields system)
9世紀頃までは、南ヨーロッパ二圃制農業(二分した小耕地の一方に麦を作付け、他方を休耕として、一年ごとに入れ替える農法)を続けていたが、10~11世紀になると、北ヨーロッパの気候風土(夏雨型)に適した三圃制農業が拡大した。

三圃制とは、耕地を三分割して、春耕地(春蒔き―夏畑―秋収穫)では豆・燕麦・大麦を育て、秋耕地(秋蒔き―冬畑―春収穫)では小麦・ライ麦を栽培し、後の一つを休耕地として、毎年毎に替えていく農業形態をいう。

休耕地を家畜の共同放牧に利用することで、人工的な肥料を用いなくとも地味を維持することが可能となった。

鉄製農機具(Iron farm equipment)

12世紀頃、木製の犂(すき)を牽引する家畜がからに代わるにつれて、耕作スピードが次第に向上した。

13世紀になると、農村に生まれた鍛冶屋鋤の刃や斧など鉄製農機具を供給するようになり、大型の重量有輪犂(Heavy wheel​ plough)を登場させた。

11~12世紀には、水車風車という、新たな動力も登場し、人力や畜力に頼っていた粉ひきや脱穀などを代替して、生産性を大幅に向上させた。

集団生産制(Group production system)

ヨーロッパ中世の荘園制下の農村では、個々の農民(農奴)は個別には耕地を所有せず、村落全体で耕地を2~3に分割し、それをさらに帯状の耕地に細分して、各自が耕作するという開放耕地制がとられていた。

10~11世紀に「三圃制」が普及した結果、12~13世紀には村の耕地を区画整理して村落共同体として共同耕作するようになり、農民は重量有輪犂を家畜に引かせて耕作するようになった。

三圃制と重量有輪犂の普及で、耕地の開放耕地化が進むにつれ、担当耕地や共同牧場の規制や管理の必要性が増加したため、集団生産体制をめざす村落共同体の形成がいっそう促されていった。

以上のように、中世西ヨーロッパの集約農業構造は、新たな農業技術と集団体制によって支えられていたようです。

この構造がいかなる「社会構造」を作り上げていったのか、さらに考えていくことにしましょう。

2020年6月9日火曜日

コロナ禍・・・人口急減の引き金を引いた!

黒死病の影響で人口急減へと向かった14世紀の世界を、農業後波の図黒死病・・・人口急減の引き金を引いたによって、巨視的に眺めてきました。



このような状況を、コロナ禍でパニックに陥っている、21世紀前半の国際情勢に当てはめてみると、下図に示したような展望ができると思います。



この件については、【21世紀の国際情勢は・・・:2018年4月27日】で一通り解説していますが、今回はこれをベースにしつつ、新たな視点を加えて、前図と比較的に展望してみましょう。

図に示した、主な事象を説明すれば、次のようになります。

温暖化の進行

20世紀初頭からの100年間で0.74℃ほど上昇した地球の平均気温は、世紀を超えてからさらに加速し、21世紀後半まで続くと予想されます。

要因の9割は、人間の産業活動等で排出された温室効果ガス(主に二酸化炭素とメタンなど)と推定されています。

これによって海水面の上昇降水・降雪量の変化などが進み、洪水や旱魃酷暑や暴風雨などの異常気象が頻発し、生活・産業環境が危機に瀕する機会が急増します。

もう一方では、真水資源の枯渇生物相の変化なども急進し、農業・漁業等食糧資源への悪影響も懸念されています。

国際紛争は継続から激化


国際連合(UN)安全保障理事会は理事国間の対立で機能不全に陥り、北大西洋条約機構(NATO)もまた加盟国間の不和で混乱状態と囁かれています。

世界保健機関(WHO)世界貿易機関(WTO)でさえも、コロナ禍中で米中対立の狭間に巻き込まれるなど、国際協調をめざしてきた、幾つかの国際機関の弱体化が目立っています。

こうした状況を見越すように、中近東では20世紀半ばからのパレスチナ紛争や、ISLの勃興によるイラク紛争がなお継続し、いっそう拡大する恐れが高まり、中国・インド間では国境問題を巡って軍事衝突も懸念されています。

さらには日増し強まっている米国・中国間では、2030年代に「米中戦争」勃発の可能性もある、との物騒な予想すら5年も前に公表されています(米・ランド研究所・報告書『中国との戦争---考えられないことを考え抜く』2016年7月)。

パックス・アメリカーナから
ポスト・アメリカーナ

20世紀に「パックス・アメリカーナ」として、世界の覇権を確立したアメリカ合衆国が弱体化し、ヨーロッパの統合を果たしたEU(ヨーロッパ共同体)もまた解体の危機に瀕しています。

その一方で、中国の「一帯一路」化戦略をはじめ、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領のフィリピン強権政治、「法と正義」党が主導するポーランド右派ポピュリズム政権など、強引な外交や強硬な内政を行う政権が次々と登場してきます。

スーパー耐性菌の大流行


コロナ禍に続いて、科学文明が創造したがゆえに、自然界の細菌類が耐性を強化し、抗生物質が全く効かないスーパー耐性菌類が、世界中でさらに猛威を振うことが予想されます。

今後、この種の細菌による感染症の拡大で、2050年には世界中で年間およそ1000万人が死亡する、との予測がUKRI(英国研究・イノベーション機構、2014)によって発表されています。

いかがでしょうか。かなり無理な部分もあると思いますが、今後の世界を考えていくうえで、それなりに参考になるのではないでしょうか。

なぜかといえば、何度も繰り返していますが、人口波動の生起する経緯、つまり人口増減人口容量人口抑制装置の3つの関係そのものが、人間社会の最も基本的な成立構造である、といえるからです。

2020年6月4日木曜日

黒死病の影響はエリアで異なる!

黒死病というパンデミックが、農業後波の限界を顕在化させ、人口崩壊の引き金を引いた、と書いてきました。

しかし、この時代の人口推移地別域に眺めて見ると、黒死病による人口減少の影響は、下図に示したように、エリア別にかなり異なるようです







アジア(除:中国・ロシア)、ヨーロッパ(含:ロシア)、アフリカの3つのエリアは直接の影響を受け、いずれも1350年頃から急減しています。

しかし、中国は100年以上前の1200年ころから減少しており、南北アメリカ大陸はわずかな減少で終わっています。

どのような事情があったのでしょうか。地域別の背景について、先達諸賢の見解を参照しておきましょう。

中国の人口推移については、次のような見解があります。


中国の人口は、南北朝から唐の中期まで(420~750年)、波を打ちつつ増加してきたが、唐の末期に安史の乱などの政治的混乱による減少期を経て、北宋初期(960年)に5000万人を超え、南宋末期(1200年頃)には1億人に達した。その後は滅少に転じ、75年後の1275年に5500万人に半減している。減少の要因は、①気候の不安定化、②1億人という食糧供給の限界、③元の侵入による政治的混乱などが考えられる。・・・要旨
趙文林・謝淑君『中国人口史』1988


(中国文明の人口)の第三のサイクルは10世紀の王朝の崩壊とともに始まるが、それは漢族にとって新しい所界を広げた宋朝の発足によって確立する。新しい農業技術の導入は経済面、文化面とさまざまな面での飛躍を経験することとなり、人口も11世紀末には1億を越えるに至るのである。しかし、ふたたび漢族の王朝は解体して、モンゴル族や満州族の侵入に遭い、人口が1億にもどるのは600年たってからであったという。
湯浅赳男『文明の人口史―人類と環境との衝突・一万年史』1999
 
ヨーロッパや東南ユーラシアの人口推移についても、次のような論述があります。

紀元1000年ごろから、ヨーロッパの人口は3世紀間続く増大局面に入った。(中略)この3世紀間でヨーロッパの人口は2倍ないし3倍となったが、それは頻発する危機によっては抑制することができない潜在成長力があっということである。

13世紀末および14世紀になると、増加のサイクルは明らかにその勢いを失った。危機はさらに頻繁となり、定住地は増えなくなり、人口はあちこちで停滞した。

このような停滞は複雑な原因の結果であろうが、おそらく、肥沃地の枯渇、技術進歩の停止、気候条件悪化による不作の頻発によって農業経済が活力を失ったこと無関係ではない。それは、人口が資源とのよりよいバランスを求め、次の成長サイクルへ向かう調整期だったのかもしれない。

ところが逆に、14世紀中葉に突然の、しかし影響が長期に及ぶ激変が起きた。(中略)1340年と1400年の間に人口はほぼ3分の1も減少し、次の世紀の前半期も減り続け、その後にようやく回復が始まった。ただこれによっても、16世紀中頃までは人口を危機以前の水準にまで引き戻すことはなかった。

激変の原因はペスト「黒死病」であった。1347年、最初にシチリアで出現してから、1352年にロシアへと到達するまで、ベストはヨーロッパ大陸全土を横断した。     
M.リヴィ₋バッチ、速水融他訳『人口の世界史』2014


中世も後半になると、鉄製の斧や牛馬に引かせる犂(からすき)などが広く普及。またヨーロッパでは11世紀から12世紀にかけて、冬ムギ、夏ムギ、休耕地に3分する三圃式農法が開発され、生産量が増大した。東南ユーラシアでも二期作などによりイネの生産性が高まり、人口増加率が上昇した。しかし同時に、東南ユーラシアではモンゴル帝国の勢力拡大により、ヨーロッパではペストの流行により、急激な人口減少も起こっている。・・・要旨
大塚柳太郎『ヒトはこうして増えてきた: 20万年の人口変遷史』2015


以上のように、中世後期の世界では、いずれのエリアにおいても、遅速の差はあれ、人口容量の限界が見え始めており、黒死病はそれを顕在化させる、大きな契機だったようです。
 

もっとも、それが明確に表れたのは、ヨーロッパ(含:ロシア)、アジア(除:中国・ロシア)、アフリカの3エリアのようで、中国はそれ以前から減少過程に入っていたといえるでしょう。

それゆえ、当ブログでは、このような時差を前提にしつつ、黒死病の社会・経済的なインパクトを考察していくことにしましょう。