しかし、この時代の人口推移を地別域に眺めて見ると、黒死病による人口減少の影響は、下図に示したように、エリア別にかなり異なるようです。
アジア(除:中国・ロシア)、ヨーロッパ(含:ロシア)、アフリカの3つのエリアは直接の影響を受け、いずれも1350年頃から急減しています。
しかし、中国は100年以上前の1200年ころから減少しており、南北アメリカ大陸はわずかな減少で終わっています。
どのような事情があったのでしょうか。地域別の背景について、先達諸賢の見解を参照しておきましょう。
中国の人口推移については、次のような見解があります。
中国の人口は、南北朝から唐の中期まで(420~750年)、波を打ちつつ増加してきたが、唐の末期に安史の乱などの政治的混乱による減少期を経て、北宋初期(960年)に5000万人を超え、南宋末期(1200年頃)には1億人に達した。その後は滅少に転じ、75年後の1275年に5500万人に半減している。減少の要因は、①気候の不安定化、②1億人という食糧供給の限界、③元の侵入による政治的混乱などが考えられる。・・・要旨 |
趙文林・謝淑君『中国人口史』1988
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(中国文明の人口)の第三のサイクルは10世紀の王朝の崩壊とともに始まるが、それは漢族にとって新しい所界を広げた宋朝の発足によって確立する。新しい農業技術の導入は経済面、文化面とさまざまな面での飛躍を経験することとなり、人口も11世紀末には1億を越えるに至るのである。しかし、ふたたび漢族の王朝は解体して、モンゴル族や満州族の侵入に遭い、人口が1億にもどるのは600年たってからであったという。 |
湯浅赳男『文明の人口史―人類と環境との衝突・一万年史』1999
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ヨーロッパや東南ユーラシアの人口推移についても、次のような論述があります。
紀元1000年ごろから、ヨーロッパの人口は3世紀間続く増大局面に入った。(中略)この3世紀間でヨーロッパの人口は2倍ないし3倍となったが、それは頻発する危機によっては抑制することができない潜在成長力があったということである。 13世紀末および14世紀になると、増加のサイクルは明らかにその勢いを失った。危機はさらに頻繁となり、定住地は増えなくなり、人口はあちこちで停滞した。 このような停滞は複雑な原因の結果であろうが、おそらく、肥沃地の枯渇、技術進歩の停止、気候条件悪化による不作の頻発によって農業経済が活力を失ったことと無関係ではない。それは、人口が資源とのよりよいバランスを求め、次の成長サイクルへ向かう調整期だったのかもしれない。 ところが逆に、14世紀中葉に突然の、しかし影響が長期に及ぶ激変が起きた。(中略)1340年と1400年の間に人口はほぼ3分の1も減少し、次の世紀の前半期も減り続け、その後にようやく回復が始まった。ただこれによっても、16世紀中頃までは人口を危機以前の水準にまで引き戻すことはなかった。 激変の原因はペスト「黒死病」であった。1347年、最初にシチリアで出現してから、1352年にロシアへと到達するまで、ベストはヨーロッパ大陸全土を横断した。 |
M.リヴィ₋バッチ、速水融他訳『人口の世界史』2014
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中世も後半になると、鉄製の斧や牛馬に引かせる犂(からすき)などが広く普及。またヨーロッパでは11世紀から12世紀にかけて、冬ムギ、夏ムギ、休耕地に3分する三圃式農法が開発され、生産量が増大した。東南ユーラシアでも二期作などによりイネの生産性が高まり、人口増加率が上昇した。しかし同時に、東南ユーラシアではモンゴル帝国の勢力拡大により、ヨーロッパではペストの流行により、急激な人口減少も起こっている。・・・要旨 |
大塚柳太郎『ヒトはこうして増えてきた: 20万年の人口変遷史』2015
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以上のように、中世後期の世界では、いずれのエリアにおいても、遅速の差はあれ、人口容量の限界が見え始めており、黒死病はそれを顕在化させる、大きな契機だったようです。
もっとも、それが明確に表れたのは、ヨーロッパ(含:ロシア)、アジア(除:中国・ロシア)、アフリカの3エリアのようで、中国はそれ以前から減少過程に入っていたといえるでしょう。
それゆえ、当ブログでは、このような時差を前提にしつつ、黒死病の社会・経済的なインパクトを考察していくことにしましょう。
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