自然条件でいえば、前3000年以降、気候最適期が終って寒冷・湿潤化が徐々に進み、前2000年ころの平均気温は現代とほぼ同じ水準になりました。
他方、人為的条件では、縄文文明そのものが中期以降、生産を拡大する方向から外れていったのではないか、と推定されます。
当時の社会では、食物獲得技術で培われた基本的な知識や技術を、彼らの生活の隅々に浸透させていました。一方では、定着的な生活拠点である集落の形成、木製品の加工、漆工芸の拡大、アク抜き処理技術の発達などの生活技術の高度化、他方では宗教的目的のための大規模な土木建造物の構築などに向けています。
ところが、自然条件が悪化するに従って、技術の方向は生産力を維持する方向には向かわず、むしろ非実用的な道具(情具)、例えば高度な文様と奇抜なデザインの火炎型土器、装飾性の強い土偶や岩偶、黒や朱の漆を塗った儀礼的な弓、彫刻の施された櫂といった方向へ傾斜していきました。
それはまさしく、石器文明の最高段階である「成熟せる採集社会」(佐々木高明)を出現させるものでしたが、逆にいえば、もはや生産力の拡大をもたらすものではなく、むしろ非生産的な部分の肥大化に向かうものでした。石器前波の後半と同様、用具(実用器)より情具(心理器)の比重を高めたのだ、ともいえるでしょう。
それゆえなのか、後期~晩期の縄文社会は、自然環境の悪化に対抗するだけの力を失いました。というより、気候の悪化に触発される形で、自ら人口容量の拡大を放棄し、拡大型社会から濃縮型社会へ転換していったものと思われます。
それゆえなのか、後期~晩期の縄文社会は、自然環境の悪化に対抗するだけの力を失いました。というより、気候の悪化に触発される形で、自ら人口容量の拡大を放棄し、拡大型社会から濃縮型社会へ転換していったものと思われます。
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