当時の文明の中核は、水田稲作を中心とする集約農業文明でしたが、その基本は次の2つに要約できます。
①農業文明が基盤・・・地上に降り注ぐ太陽エネルギーを、農耕や牧畜によって意図的に動植物の体内に蓄積させたうえ、人間生活を維持するエネルギーへと変換する文明
②農業文明の集約化・・・粗放的な農業文明を、品種・農具の改良などによる農業技術の向上と土木・灌漑技術による農耕地の拡大によって、より高度化した文明
この2つを中核とする集約農業文明は、日本列島の人口容量を1730年前後に約3250万人まで伸ばしましたが、そのあたりが限界であったようで、以後の人口は停滞・減少していきます。
つまり、集約農業文明はハード面では限界に達したということです。しかし、ここで発展がとまったというわけではなく、以後はソフト面でなおも発展を続けます。
その中核が製紙技術と木版印刷でした。
製紙技術でいえば、農耕技術の総合的な進展と並行して、和紙技術が急速に発展しました。すでに戦国時代、群雄割拠した戦国大名衆はそれぞれの文通手段を確保するため、和紙の生産を奨励していました。
江戸時代に入って世の中が安定してくると、文通・読み書き需要の拡大に伴って、従来からのガンピ(雁皮)に加えてミツマタ(三椏)などの新原料による製紙が普及し始め、生産量も急増しました。
もう一方の印刷技術も、社会が安定した寛永期(1624~1645)のころから、築城や寺院建築などで培われた、高度な木材加工技術を応用して、わが国独自の木版印刷が進展してきます。
この技術を用いて摺物(すりもの)が広がり始めると、江戸・大坂・京都の三都を中心に書物問屋、地本問屋、貸本屋が急増しました。
それぞれの店頭では、武家や僧侶など知的階層向けに、仏教、歴史、伝記、暦、医学書、漢籍、教養書、医術書などの専門的な書物も拡大しました。
また庶民向けには、草双紙、人情本、細見(案内書)、狂歌絵本、洒落本、音曲正本、歌舞伎絵本など、文字本はもとより、挿絵入りの摺物も広がりました。
このような印刷文化を可能にしたのは、表現上の制約の少ない、江戸型の木版印刷技術でした。明和期(1764~1771)になると、多色刷りによる東錦絵(浮世絵版画)へと進展し、それと並行するように、多色刷りの書物も急増しました。
以上のように、集約農業文明は人口容量の限界に突き当たると、農産物増産や築城・土木技術が主導したハード拡大時代から、一転して印刷や出版が中心のソフト深耕時代へと移行していったのです。
これこそ第4次情報化の真相といえるでしょう。
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