当時の社会を支える技術の中核が、物質的拡大よりも情報的充実の方へ向かっていったからです。
先に述べたように、農業後波の人口容量を作りだしたのは、集約農業技術でした。
その内容については、別のブログ(平成享保のゆくえ・集約農業技術)で詳しく述べていますので、ここでは要点だけを整理しておきましょう。
①農業技術の向上・・・水田や畠の二毛作化、肥料の多様化と拡大、稲の品種多様化、牛馬耕作の開始、鳥獣駆除の進展、農具の改良など。
②農耕地の拡大・・・新田の開墾・拡大、水利・堤防技術の向上など。
この2つの技術は、鎌倉・室町時代に育まれましたが、戦国時代に入ると、領主間の競争的な関係の中で急速に発展していきます。
常に勢力拡大をめざす戦国領主は、自分の領地内で食糧生産を最大化するため、武具作りで発展した製鉄技術を農機具へ、あるいは砦や城造りで発達した土木・建築技術を水利・開墾へと、競い合うように応用していきます。
こうして進展した集約農業技術は、江戸幕府の成立による社会的安定化で、日本列島の隅々にまで浸透し、それに伴って人口容量を3倍へと拡大させました。
しかし、17世紀末から18世紀初めになると、この技術もまた物理的限界に達したため、人口容量を伸ばすことが次第に困難になってきました。
その結果、18世紀の技術開発は、物理的拡大よりも情報的充実へ向かっていきます。
こうした意味で、江戸中期とは、石器前波の情具(第1次情報化)、石器後波の情具(第2次情報化)、農業前波の製紙技術(第3次情報化)に続く、第4次情報化の時代であったといえるでしょう。
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