2015年6月3日水曜日

生活欲望の変化が人口に影響する!

人口抑制装置の作動を抑えるには、①人口容量を増やすか、あるいは②1人当たりの人口容量(=生息水準)を落とすか、の2つが基本的な選択肢です。

人口容量を増やすには、新たな文明の創造や導入をしなければなりませんが、それには少なくとも50~100年の時間が必要でしょう。

一方、1人当たりの生息水準を落とせば、それだけゆとりが出てきますから、全体の人口容量が変わらなくても、人口増加は可能です。


国民の誰もが現在よりも欲望(生活願望)を抑えることができれば、都会でも田舎でもまだまだ出生数は増えるはずです。夫婦の願望が低ければ、子どもを増やしても、さほど生息水準は変わりませんし、生まれてくる子どももまた高望みしなければ、さほどお金もかかりません。

とはいえ、こうした想定はまず無理でしょう。一旦享受した水準を低下させるとなると、かなりの抵抗があります。先見的な、一部の人たちが選択したとしても、その動きが大きく広がることはありえないでしょう。

そうなると、人口抑制装置の作動を停止させ、人口を再び増加へ転換することなどは、まずは不可能と思えてきます。

しかし、ここにきて、もう一つ、別の選択肢が見えてきます。それは、③の方向として、人口減少が進んでいく以上、人口容量を維持できさえすれば、容量にはゆとりが生まれてくるから、生活水準を落とさなくても、人口が増えるという可能性です。


 
果たして③の方向は実現できるのでしょうか? ミクロな予測は不可能ですので、よりマクロな視点に立って、以下では日本列島の将来人口を展望してみましょう。

これまでの日本は、人口容量が1億2800万人ぐらいまで伸びるという社会の中で、私たちの生活の枠組みも、あるいは国家経済の枠組みも、その全てが「成長・拡大」へと向かってきました。その中で、人口もまた、ある程度の増加を続けることができました。

しかし、人口容量の飽和した社会では、上限となる枠組みがもう伸びなくなっています。にもかかわらず、1970年代以降も人口は伸びてきました。人口が増えるだけでなく、1人1人の欲望もまた、過去の延長線上でとめどなく膨らんできました。

その結果、人口が増えたのと同時に、1人1人の欲望もまた非常に膨れ上がっています。そうした人々の集まる社会を、筆者は「自己肥大化社会」と名づけました。人口が満杯になっただけでなく、欲望もまた満杯になった社会という意味です。

ところが、状況が変わってきました。人口が急速に減ってきたからです。今後もなお自己肥大化が続くとしても、人口そのものは減っていきます。人口が減り、人口容量が一定であるとすれば、その分だけ余裕が生まれてきます。どうやら2010年代という時代には、私たちの生活感覚が「限界」から「余裕」へ、ちょうどその変曲点にさしかかっているのだ、と思います。

現代日本人の欲望状況をおおざっぱにグラフ化してみますと、下図になります。


戦前生まれの多くは、多分、その時の日本列島の限界であった「7500万人ぐらいまでは生きられる社会」、それが「俺の人生だなあ」と思っていたはずです。

ところが、戦後生まれはもっと欲望を伸ばしています。戦争に負けて、その後、ユニセフから緊急物資を援助してもらって、海外から食糧を持ってくればまだまだ生きられる、と気づきました。食べ物や生活資源などを輸入できれば、いくらでも生きられる。「1億人あるいは1億2000万人ぐらいは生きられる社会」を期待するようになりました。そうした意識を持った人々が、ほぼ1950年代から生まれてきました。

以上のような仮説に立つと、戦前生まれは7500万人ぐらいの容量意識で生きてきた人々、戦後生まれは1億から1億2000万人ぐらいは生きられる社会を前提にして生きてきた人々、と仕分けられるでしょう。

こうした容量意識を「期待肥大値」と名づけますと、これがこれからの人口推移に大きく影響してくると思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿