2024年8月24日土曜日

生存保障は互酬制から始まった!

1人の人間の生存権保障は「原始共産制」が原点である、というF.エンゲルスの主張については、さまざまな角度から批判がされています。

古代社会のモデルとして引用しているL.H.モーガンの社会像が、必ずしも確定されたものではなく、それ以外にもさまざまな社会が存在していたことが、その後の調査・研究によって判明してきたからです。

こうした指摘を受けて、経済人類学者のK.ポランニー18861964)もまた原始共産制を否定し、より広い視点から「互酬制Reciprocity」の存在を指摘しています。その論理を要約してみましょう。

●未開人が個人主義者、自然のままの利己主義者、物々交換や交易や取引を行う者、自給自足者であった、という証拠はなかった(P.マリノフスキーとR,トゥルンヴァルトの指摘)。

●未開人は共産主義的な心理をもっているとする伝説、 つまり、 自己の個人的利害に無であるという想定も疑わしい。「共産主義」のようにみえたのは、生産システムや経済システムが、通常、いかなる個人も飢餓に脅かされないように案配されている事という事実によるものであった。

●「おおざっぱにいうと、どの時代の人間も大して変わらないように思われるようになったのである。制度を個々別々にではなく、相互関係で捉えてみると、ほとんどの人間が、われわれに大体理解できるような行動様式をとっていることがわかったのである。」 (訳文のまま)

●ある個人が座る、焚火宴での位置、共有資源の取り分などは、彼が狩猟や牧畜や農耕栽培でどのような役割を果たすことになっているかに関わりなく、確保されている。 実例を2、3あげてみよう。

●カフィール族(ヒンドゥー・クシ山脈南斜面に住む山岳民族)の「クラールランド制度」のもとでは、「窮乏生活はありえず、援助が必要ならでも問題なくそれを受けられる (L.P.Mair,An African Ponte in the Twentieth Century,1904)

クワキウトゥル・インディアン(北アメリカの北西海岸インディアン)にも「少しでも飢えの危険を増すものはいない (E.M.Loeb,The Distribution and Function of Money in Early Society.1936)

●「最低生活水準で生活している社会には飢餓はない (M.J.Herskovits,The Economic Life of Primitive Peoples,1940)

●要するに、共同体全体が飢餓の苦境に陥らなければ、個人が飢餓の危険に陥ることもないのである。

(「時代遅れの市場志向」:『経済の文明史』平野健一郎訳から抽出)。

以上のような論説の意味するところは、この世に生まれてきたベビーは、母や父の保護下で命を守り、その親たちもまた所属する共同体によって、暮らしを守られている、ということでしょう。

人間集団には、1人の人間の生存を保障する互酬制度(Reciprocity)が、原始社会から存在したのだ、という主張です。 


同じような主張は、ロシアの政治思想家、P.A.クロポトキン18421921)の「相互扶助=互恵制(mutual aid)」にも見られます。 どこがどう違うのでしょうか。

2024年8月8日木曜日

人間は生まれた時から人生を保障されていたのか?

グローバル・レシプロシティー考察する前提として、地球上に生まれてきた、1人の人間の生命はどこまで保障されてきたのか、を考えています。

基本的には、他の生物と同様、一旦生まれた以上は、自然環境の許容量の範囲で、可能な限り生き続けることができるものだ、と思います。

当ブログの視点でいえば、人間も一旦生まれた以上は、人口容量の範囲内で生き続ける権利がある、とでもいえるでしょう。

しかし、現代社会の諸相を鑑みると、先進国の貧困層や途上国の下層民などには、必ずしもこうした権利が認められているとは思えません。

大都市での孤独死や飢饉国での大量餓死など、やむをえないとはいえ、あちこちで発生しているからです。

科学技術が進歩し、社会・経済構造もまた高度化したとはいいながら、こうした事態が未だに発生しているのは、人類社会がほとんど進展していないからかもしれません。

果たして人類は進展してきたのでしょうか。今一度、その歴史を振り返ってみたいと思います。

地球上に生まれた、一人の人間が生きるための生活資源はどのように保障されてきたのでしょうか。

古代の原始社会において、生まれてきたベビーは、どのような人に、どのような資源で育てられたのでしょうか。

当時の社会構造については、さまざまな見解があります。

代表的な意見としては、19世紀、プロイセン王国の社会思想家、.エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』(1884年)があります(岩波文庫:戸原四郎訳)。

この著では、家族と私有財産の推移を、同世紀のアメリカの文化人類学者、L.H.モーガン『古代社会』(1877年)の見解を引用しつつ、次のように述べています。

➀モーガンは人類の先史を「野蛮」「未開」「文明」という3つに分けている。

②エンゲルスは、この区分を「野蛮時代」(人間は制作した補助道具で天然産物を手に入れた時期)、「未開時代」(牧畜と農耕によって天然産物の生産を高めた時期)、「文明時代」(天然産物の高度な加工を習得した時期)に整理している。

③モーガンは家族の発展史を「無規律性交集団」(男子と女子の集団婚)、「血族婚家族」(世代によって継承される婚姻集団、家族の第1段階)、「プナルア婚家族」(姉妹と兄弟を相互性交から除外した血族集団)、「対偶婚家族」(たやすく解消できる、ゆるやかな一夫一婦集団)、「一夫一婦婚家族」(父親から子どもへ財産を確実に継承させ、勝手に解消はできない婚姻集団)の5段階と主張している。

④5段階説を引き継いで、エンゲルスは、「野蛮時代」には「集団婚」「未開時代」には「対偶婚(一夫一婦制への進化過程)」「文明時代」には「一夫一婦婚」の、3つがそれぞれ主要な婚姻形態となった、と整理している。

➄そのうえで、 私的な生活資源、つまり私有財産について、野蛮時代の集団婚では、母系制共同体での共有であったが、未開時代の対偶婚になると、農牧業の発達で土地や家畜などが男系制家族の私的所有へ移行した、と述べて、これを私有財産の原点としている。

以上のような論説によれば、一人の人間の生活資源は、未開時代には母系共同体で保障されていましたが、それ以降になると、男系家族の主導者たる祖父や父親の私有財産に委ねられていった、ということになるでしょう。

前者がいわゆる「原始共産制」とよばれる制度であり、マルクス主義の唯物史観において、5つの発展段階の最初の段階とされているものです。

これに従えば、一人の人間の生存権保障の原点ともいえますが、果たしてこの主張は正しいのでしょうか。

モーガンの見解にも、エンゲルスの主張にも、すでにさまざまな反論があり、必ずしも正論とはいえないようです。