時代識知の視点から見ると、原始仏教とその後に進展した後期仏教の間には、かなりの変化が指摘できるようです。
筆者の理解する範囲でいえば、大きな変化は次の3つでしょう。
①小乗仏教から大乗仏教へ・・・利己から利他への変化
シッダールタの死後、その教義を継ぐ教派教団は上座部と大衆部など多くの派閥(部派教団)に分かれて論争を続けていましたが、紀元前後により実践的で民衆的な大乗仏教が興りました。
大乗仏教は、それまでの部派教団の利己的・独善的なあり方を厳しく批判し、利他のための修行を実践することによって、世の中全体を救うという目標を掲げました。
いいかえれば、それまでの旧仏教が「限られた出家者だけの小さな乗物(小乗)」であったのに対し、「あらゆる人々の救いをめざす大きな乗り物(大乗)」をめざす、としたのです。
◆「利他・・・部派教団の閉鎖的・利己的・独善的なあり方を厳しく批判し、すべて生あるものが、ともどもに他者に深く関係し、布施を行うなど、慈悲を旨とする。」(三枝充悳:仏教:日本大百科全書)
◆「大乗仏教の徒は、自分達の説くところは〈仏の真の教え〉(正法・妙法)であり、〈正しく仏になる道〉であると主張して、これを大乗(mahãyãna)すなわち、〈大きな乗物〉となづけ、仏乗(仏を目標とする道〉と称した。そして、その特徴は自利と共に、利他行を実践し、広く世の中を救うので〈大〉といい、在来の仏教は自己のさとりばかりを追求して、他を省りみない故に、小乗(hinãyãna)であるとけなした。」(高崎直道:仏教用語の手引き:仏典Ⅱ・世界古典文学全集・筑摩書房)
◆「大乗仏教の徒は、自分達の説くところは〈仏の真の教え〉(正法・妙法)であり、〈正しく仏になる道〉であると主張して、これを大乗(mahãyãna)すなわち、〈大きな乗物〉となづけ、仏乗(仏を目標とする道〉と称した。そして、その特徴は自利と共に、利他行を実践し、広く世の中を救うので〈大〉といい、在来の仏教は自己のさとりばかりを追求して、他を省りみない故に、小乗(hinãyãna)であるとけなした。」(高崎直道:仏教用語の手引き:仏典Ⅱ・世界古典文学全集・筑摩書房)
②個人的心理体系から集団的観念体系へ・・・信心論から言語哲学へ
大乗仏教では、2世紀末にナーガールジュナ(Nāgārjuna:龍樹)が、また3~5世紀にアサンガ(Asaṅga:無著)、ヴァスバンドゥ(vasubandhu:世親)兄弟らがそれぞれ登場し、仏教の教義を観念的に体系化していきます。
◆あらゆる現象は、存在という現象も含めて、それぞれの因果関係(シッダールタのいう縁起)の上に成り立っている。因果関係によって現象が現れている以上、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(自性)はありえない。つまり、すべての存在は無自性であり、「空」である(「無自性空」)。
◆空である現象を人間はどのように認識し理解しているのか。直接的に知覚するだけではなく、概念や言葉を使用している。その「言葉」もまた仮に施設したものである。
◆直接的に知覚する生の世界と、言語や概念によって認識される仮定の世界を、それぞれ第一義諦 (paramārtha satya) と世俗諦 (saṃvṛti satya) に分ける(二諦説)。
◆空である現象を人間はどのように認識し理解しているのか。直接的に知覚するだけではなく、概念や言葉を使用している。その「言葉」もまた仮に施設したものである。
◆直接的に知覚する生の世界と、言語や概念によって認識される仮定の世界を、それぞれ第一義諦 (paramārtha satya) と世俗諦 (saṃvṛti satya) に分ける(二諦説)。
この説を継承したアサンガは『摂大乗論』や『阿毘達磨集論』などで、ヴァスバンドゥは『唯識二十論』や『唯識三十頌』などで、それぞれ唯識説を唱え、一切の現象は私たちの経験上での体験と捉えたうえで、それらを純粋な精神作用すなわち「識」に還元します。
いいかえれば、識の分別の働きによって、すべての現象や存在が現れる、ということです。
◆眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの識が日常的な識であるが、その奥には「末那識(まなしき)」があって諸識を統一し、自我の軸となっている。さらにその奥には「阿頼耶識(あらやしき)」が潜んでおり、ここに過去の体験の全てが集積されて、未来の可能性もまた収められている。
以上が①と②です。③は次回に譲ります。
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