2019年5月14日火曜日

「エピステーメー」で時代識知を捉えられるか?

超長期にわたる「時代識知(savoir de l'époque)の変容を的確に現す言葉として、思想史学の中からツァイトガイスト(Zeitgeist)、エピステーメー(epistēmē)、パラダイム(Paradigm)などの用語を見つけましたが、これらで果たして捉えられるものでしょうか。

2番めはギリシャ語のエピステーメー(epistēmē)

もともとはプラトンやアリストテレスが、単なる感覚的知覚や日常的意見である「ドクサ(doxa:憶見)に対立させ、確かな理性的認識を意味する言葉として使用したものでした。

この言葉を1960年代に、フランスの哲学者ミシェル・フーコー(Michel Foucault)がさまざまな時代に固有のものの考え方の枠組み、思考の台座、つまり時代を支配するメタ知構造として使用したことから、構造主義思想の基本用語となりました。



フーコーは『言葉と物』(Les mots et les choses,1966)の中で、エピステーメーとは「ある時代におけるさまざまな学問の成立を可能にならしめる、その時代固有の知の深層構造」(渡辺一民・佐々木昭訳書の解説)を意味する言葉として使っています。

この定義に基づいて、本書では、「表象」の自律性のもとに博物学、一般文法、富の分析などを可能にしていた17~18世紀(古典時代)のエピステーメーから、生命、言語、労働に関する諸科学、人間に関する経験的探求の出現を可能にした19世紀以降(近代)のエピステーメーへの変化が分析されています。

3年後に出版された『知の考古学』(L'archéologie du savoir,1969)になると、上記の定義をベースにしつつ、さらに方法論的・認識論的(哲学的)考察を展開し、その概念を発展させています。

「〈エピステーメー〉なる用語によってわれわれの解するのは、或る与えられた時代において、認識論的諸形像、諸科学、そしてときには形式化された諸システムを生ぜしめるさまざまな言説的実践を統一しうる諸連関の総体」(中村雄二郎訳)とされています。訳者によると、「一時代の文化全体の基底にある『認識の糸』あるいは『根底知』と解されています。

エピステーメーがもしこのような意味だとすれば、当ブログの求めている「時代識知(savoir de l'époque)」にごく近い概念のようにも思えます。

だが、細かく読み返してみると、必ずしもそうとはいえないようです。

40年前の1970年代、筆者もまた『言葉と物』の翻訳書を初めて読んだ時には、「エピステーメー」という、斬新な発想に大変共感を覚えたものでした。

それゆえ、続いて出た『知の考古学』には、エピステーメーの具体的な変遷を期待したのですが、それは見事に裏切られました。


この本の内容は概念的な論説に始終しており、実際にそれが通時的にどのように変わってきたかという、考古学的な考察はほとんどなされていなかったからです。

これでは『知の考古学』というタイトル自体が無理なのではないか、とも思ったものでした。

そんなわけで、エピステーメーによって「時代識知」を捉えようとすると、次のような限界が浮かび上がってきます。

 超長期の変化を捉えられるのか
エピステーメーは、主として17~18世紀以降の学問や文化の推移を対象にした考察や分析から生まれた用語や概念です。中世や古代、さらには原始社会までを連続的に把握するには、かなり不安が残ります。

言葉以前の表象活動をどこまで捉えられるのか。

「さまざまな言説的実践を統一しうる諸連関の総体」である以上、言説とは別の次元に現れる表現行動や精神活動などは把握できないのではないでしょうか。

パラダイムに比べ長所もあるが短所が残る。
トーマス・クーンの「パラダイム」と比べると、エピステーメーの対象は科学一般から博物学、哲学、経済学など諸学問に広げられていますが、時間的な視点になると逆に狭まり、主に17~18世紀以降におかれています。

となると、「エピステーメー」という用語にも、超長期的な「時代識知(savoir de l'époque)」の変容を意味させるのは、やはり荷が重いのではないか、と思います。

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