田沼政権の行った諸政策は、かなり大胆で画期的なものでした。
それでもなお、かなりの進展を見せた背景には、次の3つの利点があったからだ、と思われます。
① 常識・通念を超える実行力
その発想や政策が、従来の常識や通念を根本からひっくり返すものでした。石高経済からの脱出や商業資本の導入といった発想は、それ以前にも生まれていたのですが、幕府の政策に実際に導入したのは、田沼政権が初めてでした。
② 卓越した官僚統制
田沼政権は勘定奉行所の官僚を巧みに操縦しています。勘定奉行所は財政・経済・司法を担う事務方役人の勤める役所ですが、それがゆえに能力如何によっては、下級官僚から昇進し勘定吟味役や勘定奉行にまで上り詰めることが可能でした。
明和~天明期のような、財政が極端に悪化した時代には、複雑で難解な財務運営が求められましたから、経理の才・功利の才に長けた役人が頭角を現していました。
田沼意次はそうした役人を、身分の上下を問わず、積極的に活用することで、斬新な政策を推進したのです。
③ 農工商人からの献策重視
田沼政権は、豪農や豪商からの積極的な献策を取り上げています。
新たな税収源として、冥加・運上金制度を新設しましたが、その対象となった団体のほとんどは、幕府の指定ではなく、豪農や豪商など農民・町人層からの献策によったものでした。
田沼意次は、財政改善のためのアイデアもまた、幕府の内部にこだわらず、広く全国民に求めています。
このような卓越した発想力と統治力こそ、田沼時代という、前例なき時代を創り出した、そもそもの原動力だったといえるでしょう。
2018年2月27日火曜日
2018年2月18日日曜日
幕府財政をここまで改善!
田沼政権は、これまで述べてきた十大政策によって、人口減少に対応する社会をまがりなりにも形成しました。
その要点を整理しておきましょう。
① 石高経済から商業経済への移行に対応する
宝暦・明和・天明期には、江戸型集約農業の限界化によって、米穀生産を基盤とする石高経済構造にはさまざまな破綻が現れていましたが、それを補完するように、商業と金融業が急速に発展しています。
この推移が示しているのは「人口波動の後半になると、主導する文明が限界に近づくにつれて、産業構造ではハード産業の停滞とソフト産業の成長が目立つようになる」ということです。
田沼政権は、吉宗政権とは違って、こうした変化に敏感に対応した諸政策を展開しています。
② 「米価安の諸物高」に対応する
江戸型集約農業の限界化で米穀の生産も停滞しましたが、需要を形成する人口そのものも急減しましたので、需給バランスが崩れ、米価は低迷しました。
他方、商業資本の拡大で、町人層を中心に消費文化が興隆し、余剰財や選択財の需要が急増しましたから、衣服・装飾品から奢侈品・遊興品まで、諸物の価格が上がりました。
この変化は「人口波動の後半になると、消費構造ではハード商品の廉価化とソフト商品の高価化が同時に進行する」ことを示しています。
田沼政権は、それまで無視されていた、こうした動向をいち早くキャッチし、これに見合った政策を展開しています。
③商業・金融業への増税で財政改善
以上で指摘したことにより「人口波動の後半には、ハード産業よりもソフト産業の方がより利潤を拡大させる」社会が到来します。
明和・天明期にも、商品流通を牛耳る株仲間や金融経済を動かす札差など、新興の豪商層に冥加金や運上金などの新課税を設け、幕政の財源を拡大しました。
先に述べたように、冥加金とは、山野河海などの利用権や営業権を幕府から許可された商工業者が、収益の一部を献金として上納するものであり、運上金とは、商業、工業、運送業、漁業、狩猟などに従事する者に課せられた、新たな租税です。
田沼政権は、新たに拡大する産業分野の利潤を的確に捉え、課税構造を大胆に変換することによって、悪化する財政を積極的に立て直していきます。
こうした政策の展開によって、天変地異による悪条件の拡大にもかかわらず、上図に見られるように、田沼政権は幕府財政をなんとか立て直しています。
その要点を整理しておきましょう。
① 石高経済から商業経済への移行に対応する
宝暦・明和・天明期には、江戸型集約農業の限界化によって、米穀生産を基盤とする石高経済構造にはさまざまな破綻が現れていましたが、それを補完するように、商業と金融業が急速に発展しています。
この推移が示しているのは「人口波動の後半になると、主導する文明が限界に近づくにつれて、産業構造ではハード産業の停滞とソフト産業の成長が目立つようになる」ということです。
田沼政権は、吉宗政権とは違って、こうした変化に敏感に対応した諸政策を展開しています。
② 「米価安の諸物高」に対応する
江戸型集約農業の限界化で米穀の生産も停滞しましたが、需要を形成する人口そのものも急減しましたので、需給バランスが崩れ、米価は低迷しました。
他方、商業資本の拡大で、町人層を中心に消費文化が興隆し、余剰財や選択財の需要が急増しましたから、衣服・装飾品から奢侈品・遊興品まで、諸物の価格が上がりました。
この変化は「人口波動の後半になると、消費構造ではハード商品の廉価化とソフト商品の高価化が同時に進行する」ことを示しています。
田沼政権は、それまで無視されていた、こうした動向をいち早くキャッチし、これに見合った政策を展開しています。
③商業・金融業への増税で財政改善
以上で指摘したことにより「人口波動の後半には、ハード産業よりもソフト産業の方がより利潤を拡大させる」社会が到来します。
明和・天明期にも、商品流通を牛耳る株仲間や金融経済を動かす札差など、新興の豪商層に冥加金や運上金などの新課税を設け、幕政の財源を拡大しました。
先に述べたように、冥加金とは、山野河海などの利用権や営業権を幕府から許可された商工業者が、収益の一部を献金として上納するものであり、運上金とは、商業、工業、運送業、漁業、狩猟などに従事する者に課せられた、新たな租税です。
田沼政権は、新たに拡大する産業分野の利潤を的確に捉え、課税構造を大胆に変換することによって、悪化する財政を積極的に立て直していきます。
こうした政策の展開によって、天変地異による悪条件の拡大にもかかわらず、上図に見られるように、田沼政権は幕府財政をなんとか立て直しています。
2018年2月7日水曜日
田沼政権の10大政策・・・その3
前々回、前回に引き続き、田沼政権の行った10大政策の9~10を紹介します。
●第9政策=農村・農民を救済する
江戸期の集約農耕社会を支えていた米穀生産の限界化と、それに代わるように台頭した商品作物の急速な拡大。この極めて跛行的な農村環境の中で、田沼政権が行った農民・農村政策は次の3つにまとめられます。
① 村方騒動の抑圧・・・宝暦・明和期(1751~1771)になっても、農村では享保期以来の百姓一揆が依然として続いていましたが、その目標は多様化し、従来からの年貢減免に加えて、折から拡大してきた商品物資の生産や流通に関する統制・独占への反対騒動や、村役人の地位をめぐって旧村役人・村方地主・一般農民の三者が対立するという村方騒動も急増しました。
これに対して、田沼政権策は積極的な救済というより、消極的な抑圧で対応しました。宝暦12年(1762)5月、百姓が江戸に集合したり門訴を行なうことを厳禁する布告を出しています。商品経済を推進しようとする意次にとって、農村・農民対策は後回しであったと思われます。
② 人口減少改善対策・・・荒廃する農村では、人口もまた減少しましたから、幕府は明和2年(1765)10月には「間引き禁止令」を出し、安永6年(1777)には百姓の江戸出稼ぎを禁じたうえ、新田開発を促しています。
③ 農村救済対策・・・安永・天明期(1772~1788)になると、世界的な異常気象で旱魃、洪水、噴火、冷夏などが続きました。とりわけ、天明3年(1783)3月の岩木山噴火、7月の浅間山噴火で東日本各地に火山灰が積もり、日射量の低下で冷害も拡大して、天明4年(1784)には各地で飢饉が広がりました(天明の大飢饉)。
すでに米よりも商品作物を栽培する農家が増加し、米は他地域から購入する農村も増えていましたから、凶作となると、その被害が増幅されました。
そこで、幕府は農村救済対策として、天領の年貢率を下げ、宝暦・明和期の39~37%から、安永期には34%台、天明期には33%台へ落としました。また天明4年(1784)7月には、関東郡代伊奈半左衛門に命じて、武蔵・下総一帯に御救米を配らせ、さらに天明6年(1786)には、被害の多かった東日本の18藩に対し、飢饉対策として数万両の拝借金を貸与しました。
●第10政策=都市・町人を救済する
商品経済の発展に伴って、江戸や大坂などの大都市では、新たな豪商が増加し、豊穣な消費文化も生れていましたが、他方では社会変化に追いつけない困窮町民もまた増加し、米価高騰の折にはしばしば打毀しを起こしていました。こうした事態に対して、田沼政権の2つの政策で対応しています。
① 株仲間・札差への増税対策・・・このころから、旗本・御家人向けの蔵米を担保にした高利の貸付で財をなし、豪奢な暮らしぶりを誇る札差が台頭しました。
享保9年(1724)に株仲間が認許され、安永7年(1778)に江戸市中で109軒に限定されたころから急速に増加しました。札差の貸付利子率は年18%程度で、市中の質屋等より安かったのですが、さまざまな不正利殖によって利潤を増やしたからです。
安永・天明期(1772~89)になると、札差たちは江戸豪商の典型となって、18人の大通人、つまり「十八大通」と称される、蔵前風の豪勢な消費風俗まで生み出します。
その札差仲間に対しても、幕府は安永8年(1779)6月、1万両を貸付けていますが、同時に、認可した株仲間などから運上金や冥加金を税として徴収し、幕府財政の改善に成功しています。
② 困窮町人・無宿人救済対策・・・天明期に飢饉が続発すると、米価も一転して上昇し、江戸や大坂などの大都市では困窮する町人や無宿人が増加しました。これに対して、田沼政権は、治安の維持とともに窮民の救済を実施しています。
天明4年(1784)4月には米の売り惜しみを禁じる一方で、「徒党・打ち壊し禁止令」を出し、天明6年(1786)には、江戸の困窮者に対して、救米6万俵と救金5万両を出しています。
また安永7年(1778)4月から、江戸府内の無宿者を捕らえて、佐渡鉱山へ送っていましたが、天明4年(1784)になると、米価高騰で流民が急増したため、深川に6万坪の無宿小屋に作って収容しました。
以上で見てきたように、田沼政権の諸政策は大胆な発想転換の下に展開されていますが、それゆえに必ずしも成功している訳ではなく、失敗もまた重なっています。
にもかかわらず、明和~天明期(1764~88)の20数年間は、延享~宝暦期の不機嫌な時代と比べると、庶民が中心となって、文化や芸術が充実する社会となりました。
その意味では、人口減少に柔軟に対応して、縮みながらも濃くなる、いわゆる「濃密社会」の典型といえるでしょう。
●第9政策=農村・農民を救済する
江戸期の集約農耕社会を支えていた米穀生産の限界化と、それに代わるように台頭した商品作物の急速な拡大。この極めて跛行的な農村環境の中で、田沼政権が行った農民・農村政策は次の3つにまとめられます。
① 村方騒動の抑圧・・・宝暦・明和期(1751~1771)になっても、農村では享保期以来の百姓一揆が依然として続いていましたが、その目標は多様化し、従来からの年貢減免に加えて、折から拡大してきた商品物資の生産や流通に関する統制・独占への反対騒動や、村役人の地位をめぐって旧村役人・村方地主・一般農民の三者が対立するという村方騒動も急増しました。
これに対して、田沼政権策は積極的な救済というより、消極的な抑圧で対応しました。宝暦12年(1762)5月、百姓が江戸に集合したり門訴を行なうことを厳禁する布告を出しています。商品経済を推進しようとする意次にとって、農村・農民対策は後回しであったと思われます。
② 人口減少改善対策・・・荒廃する農村では、人口もまた減少しましたから、幕府は明和2年(1765)10月には「間引き禁止令」を出し、安永6年(1777)には百姓の江戸出稼ぎを禁じたうえ、新田開発を促しています。
③ 農村救済対策・・・安永・天明期(1772~1788)になると、世界的な異常気象で旱魃、洪水、噴火、冷夏などが続きました。とりわけ、天明3年(1783)3月の岩木山噴火、7月の浅間山噴火で東日本各地に火山灰が積もり、日射量の低下で冷害も拡大して、天明4年(1784)には各地で飢饉が広がりました(天明の大飢饉)。
すでに米よりも商品作物を栽培する農家が増加し、米は他地域から購入する農村も増えていましたから、凶作となると、その被害が増幅されました。
そこで、幕府は農村救済対策として、天領の年貢率を下げ、宝暦・明和期の39~37%から、安永期には34%台、天明期には33%台へ落としました。また天明4年(1784)7月には、関東郡代伊奈半左衛門に命じて、武蔵・下総一帯に御救米を配らせ、さらに天明6年(1786)には、被害の多かった東日本の18藩に対し、飢饉対策として数万両の拝借金を貸与しました。
●第10政策=都市・町人を救済する
商品経済の発展に伴って、江戸や大坂などの大都市では、新たな豪商が増加し、豊穣な消費文化も生れていましたが、他方では社会変化に追いつけない困窮町民もまた増加し、米価高騰の折にはしばしば打毀しを起こしていました。こうした事態に対して、田沼政権の2つの政策で対応しています。
① 株仲間・札差への増税対策・・・このころから、旗本・御家人向けの蔵米を担保にした高利の貸付で財をなし、豪奢な暮らしぶりを誇る札差が台頭しました。
享保9年(1724)に株仲間が認許され、安永7年(1778)に江戸市中で109軒に限定されたころから急速に増加しました。札差の貸付利子率は年18%程度で、市中の質屋等より安かったのですが、さまざまな不正利殖によって利潤を増やしたからです。
安永・天明期(1772~89)になると、札差たちは江戸豪商の典型となって、18人の大通人、つまり「十八大通」と称される、蔵前風の豪勢な消費風俗まで生み出します。
その札差仲間に対しても、幕府は安永8年(1779)6月、1万両を貸付けていますが、同時に、認可した株仲間などから運上金や冥加金を税として徴収し、幕府財政の改善に成功しています。
② 困窮町人・無宿人救済対策・・・天明期に飢饉が続発すると、米価も一転して上昇し、江戸や大坂などの大都市では困窮する町人や無宿人が増加しました。これに対して、田沼政権は、治安の維持とともに窮民の救済を実施しています。
天明4年(1784)4月には米の売り惜しみを禁じる一方で、「徒党・打ち壊し禁止令」を出し、天明6年(1786)には、江戸の困窮者に対して、救米6万俵と救金5万両を出しています。
また安永7年(1778)4月から、江戸府内の無宿者を捕らえて、佐渡鉱山へ送っていましたが、天明4年(1784)になると、米価高騰で流民が急増したため、深川に6万坪の無宿小屋に作って収容しました。
以上で見てきたように、田沼政権の諸政策は大胆な発想転換の下に展開されていますが、それゆえに必ずしも成功している訳ではなく、失敗もまた重なっています。
にもかかわらず、明和~天明期(1764~88)の20数年間は、延享~宝暦期の不機嫌な時代と比べると、庶民が中心となって、文化や芸術が充実する社会となりました。
その意味では、人口減少に柔軟に対応して、縮みながらも濃くなる、いわゆる「濃密社会」の典型といえるでしょう。
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