2010~2060年の人口急減社会は、農業後波の寛保~宝暦期(1741~64年)にほぼ相当し、人口減少への対応について、さまざまな試行錯誤が続く時代となる、と述べてきました。
この時代の社会の特性については、電子本『平成享保・その先をよむ』やブログ「平成享保のゆくえ」で詳しく述べていますが、要点を再掲してみましょう。
① 当時の人口は延享元年(1744)の3138万人から、寛延3年(1750)の3101万人を経て、宝暦12年(1762)には3111万人と停滞しています。
② 政治状況を振り返ると、8代将軍徳川吉宗の将軍引退から、9代将軍家重の側用人・大岡忠光の活躍から死去までの時期に当たります。延享2年(1745)9月、吉宗は長男家重に将軍職を譲って引退しました。まだ62歳の頑健な身体であったにもかかわらず、あえて引退を表明したのは、人心を一新するためでした。
③ 歴史学者の奈良本辰也は「吉宗の30年に近い治世は、次第に一般から飽きられようとしていた。刑法の改正について、また倹約令の細かい施行について、あるいは検地・山林開発などのことについて、さまざまな批判が起こっていた」と述べています(『日本の歴史17・町人の実力』中公文庫・1974)。
④ 同じく歴史学者の大石慎三郎も、第1は「なんといっても30年もという長い治世であり、吉宗政権に対する飽きもけっして無視できぬものであった。このあたりで人心を一新しておいてからその完成にとりかかる」ためであり、第2は「不肖の嗣子家重の地位を、自分が元気なうちに確立しておいてやりたい、という親心が強く働いていた」と指摘しています(『田沼意次の時代』岩波書店・1991)。
⑤ このことを傍証するのは、翌10月、経済政策の実質的主導者として、吉宗政権の後半を支えてきた勝手掛老中・松平乗邑を突然罷免したことです。急速に権力を伸ばしてきた乗邑を排除して、政治の一新を天下に示し、同時に将軍親政を取り戻して、家重への安定的な譲渡を狙ったのです。
⑥ 11月2日、家重は9代将軍に就任しました。しかし、彼は生来の病弱に加えて、言語が不明瞭であったため、吉宗はなお大御所として後見に努めざるをえませんでした。ところが、こうした権力の二重構造が、家重をして、ますます政治から遠ざけることになりました。
⑦ 延享3年(1746)10月、家重の意志を取り次ぐ者として、小姓組番頭格・大岡忠光が御側御用取次に任命されます。大岡は知行300石の旗本の長男で、南町奉行・大岡越前守忠相の遠縁に当りますが、享保9年(1724)8月、16歳で将軍家世子・家重の小姓に抜擢されて、西の丸へ入り、家重の言語を理解できる、唯一の側近として仕えました。この特異な能力が認められて、延享2年、家重が将軍に就任すると、小姓組番頭格式奥勤兼帯御側御用取次見習となり、さらに翌年、御側御用取次に昇格したのです。
⑧ 寛延3年(1750)2月、幕府は5回めの諸国人口調査を実施して、現将軍の威光を確かめましたが、翌宝暦元年(1751)6月、吉宗は68歳で没しました。吉宗の腹心であった大岡越前守忠相もまた、同じ年の12月に75歳で亡くなっています。
⑨ このため、政治の実権はようやく家重―忠光ラインに移りましたが、家重の言動が不明確であったため、政権の実勢は忠光に移りました。宝暦元年、大岡は上総国勝浦藩1万石の大名に取り立てられ、同4年、5千石加増されて若年寄に進み、宝暦6年(1756)5月には側用人に就任して、さらに5千石加増され、合計2万石となって、武蔵国岩槻藩主に任じられています。
⑩ こうして、宝暦10年(1760)4月に52歳で死去するまでの約10年間、実質的な執政となりました。忠光自身はかなり謙虚で慎重な人物であったようですが、側用人の役目は、常に将軍の傍らにあって上意を下達することでしたから、次第にその威権が老中をしのぐようになりました。このため、吉宗が一旦は廃止した側用人制度を復活させ、次の時代に田沼意次が登場する土壌を形成していきました。
以上のように、寛保~宝暦期(1841~64年)の政治状況は、人口の急減期にも関わらず、享保改革路線の終焉と傀儡政権の誕生という、まさに試行錯誤の時代でした。
経済や社会の動向をさらに詳しく眺めていきましょう。
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