子どもの生まれる数が少なくなった「少産化」の背景には当然、子どもに対する親世代の意識変化があります。
それを端的に示すのは、親たちが子どもに対する時の言葉使いの変化です。
少産化が進み始めた1970~80年代を境に、子どもに対する親の言葉が変わってきました。
例えばおやつを与える場合、それ以前の社会では、自分の子どもに対しては「食べさせてやる」、他人の子どもに対しては「食べさせてあげる」という表現が一般的でした。
ところが、それ以降では、自分の子どもに対しても「食べさせてあげる」という表現が増えています。
日本の社会ではもともと、親が自分の子どもにコトやモノを与える場合は、「食べさせてやる」「着せてやる」「大学へ行かせてやる」というように、「・・・してやる」「・・・てやる」という言い方が普通でした。これは、親の立場から子に対して「授ける」「与える」という意味であり、「保護する者から保護される者への恵与」を示していた、と思います。
ところが、最近しばしば聞く「食べさせてあげる」「着せてあげる」「大学へ行かせてあげる」など、「・・・してあげる」「・・・てあげる」などの言い方からは、子どもの立場が「保護される者」から「当然保護すべき者」へと変化していることがうかがえます。
これらの表現には、親の立場から子に対して「差し上げる」「進呈する」というニュアンスが含まれており、「他者に対する謙譲的な贈呈」を示しているからです。
「てやる」派から「てあげる」派へ、言葉使いの、この変化は、親子間の提供関係が「恵与」から「贈呈」に変わったことを意味しています。大げさに言えば、親子の関係が「身内」から「他人」へと変わった、ということにもなるでしょう。
そう考えると、子どもを作るという行為もまた、「自分の延長線上の子孫」というより「新たな他人」を作り出すという意味を持ち、「子どもを大切にしたい」「子どもを増やしたい」という、少産化社会にふさわしい表現に変わってきているともいえます。
だが、その一方で、子どもの立場が次第に大きくなってきますから、親としてはさまざまな義務を負わなければならない、という事情が増えてきます。「食べさせてあげたい」「着せてあげたい」「大学へ行かせてあげたい」というハードルが次第に高くなってきているのです。
そうなると、そこまでは無理だ、と感じる親も増えてきますから、むしろ子どもの数は減っていくことにもなります。
どちらの傾向が増えるのか、すぐに答えは出ませんが、「てやる×てあげる」の変化には、単なる表現の変化を超えて、少産化社会の価値観が濃厚に現れていると思います。
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