日本は、食糧の国内自給の上限7200~7500万人が次第に迫ってきた1910~40年代にはナショナリズムと覇権主義を強めました。
同じ時期に、ドイツ、イギリス、フランスなど、ヨーロッパ主要国の人口も、図に示したように停滞を経験しています。
同じ時期に、ドイツ、イギリス、フランスなど、ヨーロッパ主要国の人口も、図に示したように停滞を経験しています。
この40年間は、第1次世界大戦から第2次世界大戦に至る時期であり、その影響がさまざまな形で各国の人口に及びました。
一定の人口容量のもとで増加していく人口は、修正ロジスティック曲線を辿りますが、その真ん中あたりで急増から漸増へと移行する変曲点を通過します。
科学技術と国際化を基盤とする「加工貿易文明」によって、それぞれの人口を増やしてきた、ヨーロッパの先進諸国もまた、この時期に変曲点に差し掛かりました。
その時、イギリスやフランスなどはいち早く植民地の拡大に邁進し、加工貿易体制による人口容量拡大路線を維持しました。だが、体制作りにやや遅れたドイツ、イタリア、スペインなどは、領土や植民地などの再分割を求めざるをえませんでした。その衝突が2つの大戦を引き起こしたのです。
日本もまた、この変曲点を海外進出によって曲がりきろうとしました。
ただスウェーデンだけは、未だ変曲点に到らず、両大戦を中立国として躱しました。
このように考えると、2つの戦争とは、産業革命による工業化によって人口容量を増やしてきたうえ、素材や食糧を海外で調達できる体制をいち早く作り上げた国家群と、それに乗り遅れた国家群の間で起こった軋轢や摩擦が、やむなくも行き着いた結果だったのです。
いいかえれば、第1~2次大戦とは、それぞれの人口容量に対応する、各国の戦略の差異が衝突した、不幸な結果だった、といえるでしょう。
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