経済、文化、技術の3面から眺めてみましょう。
①経済政策では、規制の強化と緩和が繰り返されています。
この期間は、八代将軍吉宗の「享保の改革」による規制強化(約40年)、側用人大岡忠光による改革調整(15年)、田沼意次による規制緩和(約14年)、松平定信による「寛政の改革」による規制強化(約6年)、11代将軍家斎による化政期の規制緩和(約40年)と、規制の強化と緩和が短期間に繰り返された時代でした。
経済の基盤である米作が限界化したため、基本的には奢侈や浪費を抑えて、一定の制約下に適応していかざるをえませんでした。
だが、そればかりでは、庶民大衆の支持が得られなかったため、時々タガを緩めることも必要でした。
その結果、経済政策では、デフレ政策とインフレ政策が交互に実施されています。
②文化面では、江戸型の文化が新たに生まれています。
享保の改革の締め付けが緩むにつれて、宝暦・明和・安永・天明期(1751~1789年)には、いわゆる「宝暦・天明文化」が興隆しています。
この文化は、元禄文化までの上方主導文化に代わって、江戸という大都市が、主に遊里と芝居小屋で独自に生み出した、「通」「粋」「いき」といった美意識を重んじる、新しい都市文化でした。
つまり、江戸中期とは、物質的な成長や経済的な拡大が滞り人口が停滞したが故に、かえって芸術や文化が深まった時代でもあったのです。
③技術面では、新たな産業技術の芽が育まれています。
享保以降、医療や生産に役立つ実用の学問を求めて、いわゆる徳川吉宗の解放策によって蘭学が興隆し、医学、物理学、化学から天文学や地理学、あるいは和算学や物産学などにまで広く普及していきます。
代表的な出版でいえば、例えば野呂元丈訳『阿蘭陀本草和解』(1742年)、前野良沢訳『解体新書』(1774年)、大槻玄沢『蘭学階梯』(1788年)などです。
こうした西欧的知識の導入で、幾つかの藩では、手工業(マニュファクチャー)の生産技術を急速に発達させ、財政基盤の回復に努めた結果、明治維新への足がかりをつかんでいきます。
以上のように、農業後波の下降期(1730~1800年)には、政治・経済的には閉塞した社会の下で規制の強化と緩和が繰り返されていきましたが、その間に文化の成熟とそれに基づく新技術の蓄積が進んでいます。
いいかえれば、それまでの「成長・拡大」とは正反対の「飽和・濃縮」ムードが高まった時代といえるでしょう。
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