この時代の社会状況を、人口、政治、経済の3面から描いてみると、下図のようになります。
農業後波が飽和に近づいた1716年(享保元年)ころ、八代将軍に就任した徳川吉宗は「享保の改革」(1717~45)を実施して、綱紀粛正、倹約・消費抑制、行・財政改革などを断行し、元禄バブルの崩壊で混乱に陥っていた社会を、安定成長路線へ切り換えていきます。
この改革は、一旦は成功するかにみえましたが、享保の飢饉やそれに起因する江戸打毀しの発生などで、再び社会不安が高まり、同時に幕府財政も悪化して、人口も減少に転じていきます。
さすがの吉宗も1743年(寛保3年)に有毛検見取法を施行して課税の強化に転じ、また元文金銀という悪貨を新鋳してインフレ政策へと転換して、米価の安定化をめざしました。この政策転換は成功し、その後幕府の歳入は徐々に増加していきます。
吉宗の譲位後、将軍が家重から家治に変わると、1767年(明和4年)に政治の実権を握った御側衆の田沼意次は、一転して規制緩和を押し進めていきます。
財政の立て直し策では、折から拡大しつつあった商品・流通市場の力を利用しようと、豪農や商人の再編成、貿易・鎖国体制の見直しなど「重商主義」的な政策を断行して、大きな成果を上げました。景気は上昇し、スモールバブルの様相まで呈し、人口もなんとか持ち直しました。
ところが、運悪く気候の悪化で天明の大飢饉が発生し、庶民の生活基盤を脆弱化させたため、1786年(天明6年)に将軍家治が没すると、やむなく失脚していきました。
続いて1787年(天明7)年、老中首座に着いた、吉宗の孫の松平定信は、翌年から「寛政の改革」(1788~93)を主導し、再び規制強化へと向かいます。
具体的には、米穀や貨幣相場への介入、旧里帰農奨励令、物価引下げ令、石川島人足寄場の設置、七分積金令などですが、これに加えて、朱子学以外の儒学を禁ずる「寛政異学の禁」や、蝦夷地の地勢調査といった海防対策にも努力しました。
彼の強権的な改革で、社会的な混乱はひとまず落ち着きを取り戻し、深刻な財政危機も一応は回避できました。
だが、倹約令を中心とする極端な抑制策で幕府の歳入は増えたものの、世間の景気は消沈し、人口も減少しました。
そのうえ、隠密を駆使した陰湿な教戒政治が、庶民層はもとより武士階級からも不評をかったため、1793年(寛政5年)年、定信は将軍補佐役ならびに老中を解任されました。
代わって幕政の実権を握った11代将軍、徳川家斉は、文化・文政期から天保初期までの約40年間、規制緩和や放漫財政によって、いわゆる「化政時代」を作り出してゆきます。
この時代には、華美・驕奢な大奥生活に象徴されるように、爛熟・頽廃の世相は極みに達し、それに伴って町民層の消費も拡大し、人口も増加に転じていきます。
このように人口が停滞・減少した、18世紀の江戸社会は、政治や経済が小刻みに揺れた時代でした。
代わって幕政の実権を握った11代将軍、徳川家斉は、文化・文政期から天保初期までの約40年間、規制緩和や放漫財政によって、いわゆる「化政時代」を作り出してゆきます。
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