日本列島の新石器人(=縄文人)は、狩猟採集・可食範囲を拡大した土器・漁労を3本柱とする縄文文明の応用によって、列島の人口を26万人にまで伸ばしました。しかし、紀元前2000年を過ぎると、自然条件の悪化に触発されて、それ以降は急速に人口を低下させていきました。
このような推移から、人口容量と人口実数の関係については、さまざまな推測ができます。もっとも、実証するだけのデータがありませんので、あくまでも仮説として、次のような背景が考えられます。
ある時代・ある空間の人口は、人口容量(自然環境×文明)の上限までは増加していきますが、上限に達した後は、人口抑制装置の作動によって減少していきます。
縄文時代についても、気温の低下とともに人口容量そのものが低下し、それに比例して人口そのものも減少した、と推測できます。
もっとも、平均気温の低下は-2~-3°であり、現在より-1~-1.5°程度であったと推定されています。もしその程度であれば、数千年の間にすでに高度な水準に達していた縄文文明は、なおそれを補って、容量をある程度維持させる可能性があったのではないでしょうか。
だが、それができなかった。一体なぜだったのか、次の3つの仮説が考えられます。
①狩猟採集・可食範囲を拡大した土器・漁労を基礎とする縄文文明では、どれだけ高度化しても、気温低下への対応力が弱かった。
②対応力はあったものの、高度化の方向が精緻化へ向かっていたため、環境変化の影響を覆せなかった。
③人口容量の極限をすでに味わっていた縄文人たちは、環境悪化にも関わらず、それ以上の物量的拡大を望まず、縄文文明を情報的充実の方へ向けていった。
3つのうち、どれが当たっているのか、現在のところ実証するまでに至っていませんが、筆者としては③に共感を覚えます。その理由は次のようなものです。
一定の人口容量(自然環境×文明)の下で生きられる人口は、人口容量/一人当たりの生活水準 で決まります。
人口容量が拡大する時には、一人当たり水準が上がっても、容量にゆとりがありますから、人口は増え続けます。
だが、満杯になった社会で、なお一人当たり水準が上がっていけば、容量には余裕がなくなり、人口は減ります。
つまり、一つの文明のもとで、物質的豊かさを一度享受した人々は、もしそれが崩れてきたとしても、その水準を落とすことを嫌いますから、ゆとりはますます減って、もはや人口が増えることはりません。
いいかえると、人口容量のピークを過ぎた時代の人々は、人口容量の回復よりも、むしろ精神的・情報的豊かさの方へ傾斜、あるいは逃避していく、ということかもしれません。
人口減少期に急増した、火炎型土器、土偶、岩偶、儀礼的な弓など“情具”の重視は、実用的な土器や狩猟・漁労具といった“用具”の改善・改良を諦め、あるいは後回しにしていった結果ではないか、と思えるのです。そして、それこそが人口抑制装置の作動を意味している、と思います。
未熟な推理ですが、こうした構造の中に、人口減少社会の本質が潜んでいるような気がします。
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