人口減少に適応する複合社会とは、どのようなものなのか、人類の歴史を振り返ってみると、幾つかの先例があります。拙著『人口減少・日本はこう変わる』などの中から、代表的な事例を紹介してみましょう。
その一つが、14~15世紀のヨーロッパです。歴史学では「中世後期」とよばれている時期ですが、さまざまな人口推計によると、600年頃から増加してきたヨーロッパの人口は、1340年頃に約7400万人に達した後、10年間で約5100万人にまで急減し、以後1500年頃の6700万まで低迷しています。
この背景について、フランスの歴史人類学者、L.R.ラデュリは「西ヨーロッパの農村社会、要するに社会全体は、紀元7世紀以来、人口増大の過程にあり、ことに10~11世紀以降は確実にそうであった。ところが、1300年代、より一般的には14世紀前半になると、危機の様相の下に、この人口増大を妨害しようとする対抗的な諸要素が現れる」(『新しい歴史』)と述べています。
つまり、11世紀以降の大開拓時代が終わり、中世の農業革命の成果も一応出尽くして、人口容量がそろそろ飽和に向かったということです。
1300年頃のヨーロッパの人口は、当時の食糧生産力に対し飽和状態に近づいていたため、農地は条件の悪い土地にまで広がっていました。そうなると、気候が少し悪化しただけで、直ちに凶作と飢饉が現れました。
また耕地面積の無理な拡大で森林、牧草地、採草地が縮小し、家畜の飼育や堆肥量も減少したため、地力が低下してかえって穀物生産が減少しました。このような農業環境のもとで人々の栄養状態が悪化し、1307年ころからヨーロッパ各地で飢饉や伝染病が広がりました。
さらに1314年の春、北西ヨーロッパは凶作に見舞われ、翌15年には地中海地域を除くヨーロッパのほぼ全域で雨が降り続き、小麦が不作でした。続く16年も不作だったため、15年の年頭から小麦価格が高騰して、前年の約8倍にまで上がり、あちこちで餓死者も出ました。
17年には小麦が豊作となったため、高騰した価格は逆に急落し、凶作以前の水準を割りました。だが、一度衝撃を受けた小麦価格はもはや安定せず、それ以降は暴落と暴騰を繰り返していきます。
1330年代に入ると、こうした食糧条件のうえに英仏間の百年戦争や農民一揆などが重なって、局地的な飢饉が頻発します。
このため、ヨーロッパのほとんどの農村では、人口の減少、耕地や屋敷の放棄、集団逃亡や廃村、穀物価格の長期的低落、領主の収入減少などが始まっていました。
他方、この時期には貨幣経済の浸透で、商業や貿易が拡大し、それに伴って商業都市が発達してきます。だが、この貿易と都市が当時の人口をさらに減少させることになりました。それがこの時期にヨーロッパを襲ったペスト(黒死病)だったのです。
中世農業技術の限界化と、都市化によるペストの蔓延、この2つが絡まって、急激な人口減少が始まったのです。
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