田沼政権による明和・天明期の幕政転換によって、江戸型の人減定着社会が見事に成立しましたが、その成果がさらに顕在化したのは、10数年に始まる文化・文政期でした。
天明6年(1786)前将軍・家治の急死で、翌天明7年(1787)に15歳で第11代将軍に就任した徳川家斉は、田沼意次を罷免し、代わって吉宗の孫で陸奥白河藩主の松平定信を老中首座に任命しました。
定信は、翌年から「寛政の改革」(1788~93)を主導し、田沼の重商主義を真っ向から否定して、質素倹約を旨とする緊縮政策へ切り替えました。せっかく生まれた「商業経済社会」を再び「石高経済社会」へと後戻りさせる、まさに退嬰主義でした。
それゆえ、この改革は財政的に失敗し、田沼時代の資産を食いつぶして、江戸市中には「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」という狂歌が流行、田沼時代を懐かしむ声も広がりました。このため、寛政5年(1793)、定信は老中を解任されました。
幕政の実権を握った将軍・徳川家斉は、文化・文政期から天保初期までの約40年間(1804~41)、いわゆる「化政時代」を作り出します。
田沼政権の成果を基礎にした、華美・驕奢な大奥生活を展開したため、その気風が町民層にまで及んで高額消費も拡大し、ついに世相は爛熟・頽廃の極みに達しました。
その一方で、側近政治の拡大や政治の私物化で腐敗が進行し、歳入は増えたにも関わらず財政は再び悪化、物価の高騰や銭相場の下落で庶民生活にも影響が及んできました。
しかし、家斉は特定されただけでも16人の妻妾を持ち、男子26人、女子27人の子女53人をもうけ、いわば「多産」時代への旗振り役を務めました。
こうした家斉の象徴的な人口増加対応によって、農業後波の人口減少は底を打ち、増加への橋掛かりをつけていきます。
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